XII-決壊(2)
「ここなら大丈夫でしょう」
伊豆は私を社内の仮眠室に連れて行った。この会社では滅多に使われることはなく、半分物置のようになっている。私と伊豆は、二段ベッドの下の段に並んで腰掛けた。
「……助けて頂いてありがとうございました」
私は、伊豆の顔も見ずに礼を言った。
「お気になさらないでください。水、買ってきましょうか?」
「大丈夫です。……驚きました。伊豆さん、過呼吸への対処がすごく迅速だったから」
「学生の頃になっている同級生を見たことがあったので、何とか……。僕がお昼に食べたマックので悪いですが、紙袋があって良かった」
あれは伊豆の昼食だったのか。というかなんで昼の紙袋をまだ捨ててないんだ。
もしかしたらこの人は、意外とズボラなのかもしれない。
「……私、ずっと勘違いをしていました」
伊豆に助けてもらったからだろうか。それとも意外な一面を垣間見たからだろうか。
気づけば、話をしていた。
「他人からの優しさとか、愛情とかを、勝手に跳ね除けて。……見下されることを過剰に恐れていたから、優しくされることを見下されることを取り違えていたんです」
伊豆は黙って私の話を聞いている。
「私には『普通』でいることは難しかった。だからでしょうか、いつの間にか『普通』の人たちを見下していました。そうすることで、心を守った気になっていた」
私は自嘲気味に笑う。
「ずっと一人で勝手に苦しんでいました。誰からも好かれていないふりをして。人からの好意を勝手に全部見下しと取り違えていたんだから、当然です。……大学の頃の友人が、昔、こんなことを言っていました。苦しんでいれば偉い、という思い込みをあんたはしているって。彼女は大学で宗教を学んでいて、哲学科にも友人がいたから、人生について話すことが多かったんですよね。……まぁ彼女、人間がその思い込みに囚われている歴史は長いから恥じることはない、とも言っていましたけど」
「歴史、ですか?」
伊豆が問う。
「はい。戒律の厳しい宗教ってあるでしょう。あの戒律は、本当は彼らの生活を守るためにあるんです。でも、戒律を守り続けることは苦しい。だから彼らはさらに厳しい戒律を用意して、それを守り続ければ死後に救済がある、神様が認めるくらい偉いんだって、そういう風に思い込んで暮らしてきたんじゃないかって。彼女曰く、ですが」
「へぇ……勉強になりますね」
感心したような声。この人は、本当に素直に感情を表現する。
「大学の頃の友人が言うには、あんたは自分に自信が持てないくせにプライドだけバカみたいに高いから、苦しんでいる自分が偉くて、『普通』に幸せに暮らしている奴らは偉くない、っていう格付けを無意識のうちにやってるって。自分に自信がないから受け取れない優しさを、有害なものと思い込むことでプライドを守ってるって。『普通』が手に入らなかったからそれがくだらないものだと、酸っぱい葡萄だったと決めつけて、その上自分は葡萄を食べるのを我慢して偉いと思い込んでるんだって。そういう人間だって言ったんです」
「それは……随分厳しい友人をお持ちのようで」
「でも結局、彼女の言う通りでした」
私はそう言って、力なく笑った。
大学時代の友人──名を愛衣といったが、彼女の言うことはいつも厳しく、正しかった。もとは京子の友達だったのだが、人の良いところしか口にしない京子とは正反対の人間だった。あんなことを言われた当時は腹も立ったが、今にして思えばはっきりと口に出して指摘してくれるのは優しさだと──当時その言葉を受け入れられてればまた何か違ったのかもしれない。
つまらない自己防衛──彼女に言わせればくだらないプライドを、あの頃壊せていればまた何か違ったのかもしれない。
「天津さんやそのご友人って、難しいことを考えて生きてるんですね。僕なら知恵熱が出てしまいそうです」
恥ずかしそうに笑う伊豆。
この男に話しても分かりはしないだろうということは、何となく分かっていた。今まで無意識にやってきた、伊豆への見下しを抜きにしてもそう思う。伊豆はこういうバカみたいな悩みとは無縁に生きてきただろうから──こういう悩みと無縁で生きてこられるくらい、ちゃんと賢いから。
「私、二人分の飲み物を買ってきます。お代は話を聞いてくださったお礼として、こちらで持たせてください。それでもって、それを飲み終わったら仕事に戻りましょう」
「ありがとうございます、ご馳走様です。体調はもう平気ですか?」
「ええ。お陰様で、だいぶ」
そう言って私は立ち上がり、ポケットから小銭入れを取り出す。幸い、二人分の飲み物を買える程度の小銭はありそうだった。
「天津さんは聡明ですね」
脈絡なく、私を見上げながら伊豆が言った。
「話聞いてました? 今、私が愚かだったっていう話をしていたんですけど」
「聞いてましたよ」
私の呆れたような声を無視して、伊豆はにっこりと笑った。
「人は誰だって間違いを持っているものです。でも、『普通』はそれに自分では気付けないんだって──昔、婆ちゃんが言ってましたから」
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