XI-決壊(1)

 ◆

 

 

『母です。都会での生活はどうですか? その歳まで育ててやったのだから、早く結婚して孫の顔を見せてください。女がいつまでも仕事ばかりしていてはいけませんよ。留守電を聞いたら連絡を寄越してください』


 結婚。


 母の留守電があるまですっかり忘れていたが、私には結婚という差し迫った問題があるのであった。私としては全くそれどころではなく、放っておいて欲しいのだが──でも、そうは言ってもいずれは結婚をしなければならない。女が一人で生きていくのは大変だと昔から言われてきたし、しなければ親族に何を言われるか分かったものではないし、特に結婚をしない理由はない。『普通』は結婚をするものだし──しておくに越したことはない、そういう類のものだと思う。


 ただでさえ余裕があるとは言えない毎日に、婚期という重石がのしかかったように思えた。

 加えて今は繁忙期──残業続きの日々で、帰りが終電になることもある。もう一滴分でも何かが重なれば、私の中で何かを越えてしまうような、そんな予感はしていた。


「天津さん」


 そう声を掛けられて、立ち止まる。


「伊豆さん。お疲れ様です」


「そんな顔して。お疲れなのはどっちですか」


 伊豆は呆れたように笑う。


「伊豆さんだって忙しいはずでしょう。だからお疲れ様ですと言っただけです」


 冷たくそう返すが、伊豆は笑うばかりである。何も考えていなさそうな笑顔が、私の神経を逆撫でする。


「天津さん。僕、今休憩をもらっているんです。良ければ一緒にコーヒーでもどうです」


「結構です。まだ業務がありますので」


 冷たく言い捨て、デスクに戻ろうとする。

 しかし今日の伊豆は、何か少々強引だった。


「天津さん。頭を撫でても良いですか?」


「──は?」


 今、なんと?


 一瞬の動揺を挟んで、腹の底から嫌悪が湧いた。気持ち悪い、気持ち悪い──心の底から、気持ち悪い。この男は何を言っているんだ? 今、ギリギリで『普通』のふりを保っている私には、他人を受け入れる余裕などなかった。


「ああ、すみません。変な意味ではなく──なんていうか、こういうのってストレスを減らすのに良いらしいって聞いたので」


 要するに──庇護欲、っていうんですか?

 伊豆は恥ずかしそうに笑った。はにかむ、という言葉がこの男の笑顔にはよく似合っていた。

 庇護。庇護欲──それって、基本的には自分より弱い者にしか湧かないものなんじゃないですか。やっぱりあなたは、無意識のうちに私を見下していたんじゃないですか。


 そう、言おうとした。


 ──代わりに出たのは、ひゅっ、という嫌な音だった。


「……天津さん?」


 今のが最後の一滴だったんだ。心の中の何かが決壊して溢れ出すのを、私はどこか他人事のように感じていた。


 気道が狭い。

 息が吸えない。

 酸素、酸素、酸素が足りない──。


 喉からは、ひゅーひゅーという耳障りな音が鳴り続けている。


 心拍がうるさい。伊豆が何かを喋っているのが聞こえる。何を言っているのかまでは分からない。手先と足先が痺れて、上手く力が入らない。心臓が痛い。


 私、いま、ちゃんと可哀想だ。


 廊下に座り込んで心臓を押さえて、必死に息を吸っている。無様で不格好でちっとも『普通』ではなく、今まで必死に守ってきたものは全て崩れてしまっている。吸っても吸っても満たされず、頭が朦朧として、耳鳴りがして。私、こんなふうになるまで頑張ったよ。だからもういいよね、楽になる資格があるよね。そうだよね──京子。


 わたし、えらいかな。


「天津さん!」


 口元に紙袋が当てられるのと伊豆がそう叫ぶのと、ほとんど同時だった。少しずつ二酸化炭素が吐き出されて、呼吸が楽になってゆく。伊豆に礼を言おうとしたが、上手く喋れそうもない。呼吸に余裕が出てくると、伊豆の大きな手が私の背をさすっていることに気がついた。


「……手足の痺れが取れたら人が来ないところに移動しましょう。天津さん、こういうところ人に見られるの嫌いでしょうから」


 なんで知ってるんですか。そんなことを尋ねる余裕もなく、私はただ頷いた。

 

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