火と噂

 法隆寺ほうりゅうじ舎利塔しゃりとうは、斑鳩宮いかるがノみやが焼け落ちるのを、宵闇よいやみの中で冷たく見下ろしていた。

 夜が明けて、本殿であったろう灰の中から、黒焦げになった数人の遺骸が見付けられた。宮仕えの人などから聞き取った所をかんがえると、焼死したのはおそらく、山背大兄王子やましろノおおえノみこ、その妃舂米王女つきしねノみこ、その子の難波王子なにわノみこ佐々王女ささノみこ近習きんじゅ三輪文屋君みわノふみやノきみ菟田諸石うだノもろし伊勢阿部堅経いせノあべノかたぶ舎人とねり田目連ためノむらじとそのむすめなどの人たちであると思われた。

 入鹿いるかは、火を放ったのは、山背大兄やましろノおおえみずからしたことであると信じた。しかし、包囲していた兵どもの中からは、誰かが忍び込んで燃やしたようだという声も聞かれた。人が侵入するのを確かにたという者もあった。もしそうだとしても、中で放火したのであれば、外からは視えないはずである。火の原因は確かにならない。

 しかしもし、本当に侵入したものがあって火を付けたとすれば、

(何者かの指図ありてや)

 と疑ってみても、それは判らない。思い当たる節は無い。そう深く追求する気力も湧かなかった。山背大兄やましろノおおえを亡くしたという喪失感、自ら手を下さずに済んだという安堵、自ら道を選べなかったという無力感に襲われる。


 蘇我倉麻呂臣そがノくらまろノおみは、一部始終を見届けると、豊浦とゆらの屋敷に走って、兄大臣おおおみにその様子を話した。蝦夷えみしは、

噫々ああ入鹿いるか太々はなはだ愚かなるかな。その身またあやうからずや」

 と、嘆息する。蝦夷えみしの考えでは、誰かが放火したか、山背大兄やましろノおおえが自殺したかは問題ではない。そんなことになるまで、入鹿いるかが手をこまねいて見ていたということが、失望を誘うのであった。

 倉麻呂くらまろは、兄が入鹿いるか大臣おおおみを継がせないつもりらしいことに、期待を煽られた。もしそうなら、この倉麻呂くらまろか、さもなくともわがむすこに、その相続権が回って来る。全く思わぬ所から幸運が転がり込むこともあるものではないか。


 はやしの屋敷に、入鹿いるかは引き篭もった。しばらくは、慎まねばならない。当面は鳴りを潜めて、これからの身の立て方を考えねばならなかった。まあそう望み通りにはならなくても、身分を失うほどのことにはなるまいと思っている。

 十一月の下旬に入り、風はますます冷たい。

 徳太とこだは、友人としてはやしの屋敷を訪ねる。入鹿いるかとしては、自分が世間でどう評判されているのかが気にかかる。徳太とこだはあの一件がどう噂されているかを話す。数日の内に、徳太とこだは何度か来た。来るたびに、噂には尾鰭おひれが付いて行くのが分かった。

 徳太とこだう。世間では、山背大兄王子やましろノおおえノみこが死んだことについて、このように伝えられている――


 ――去る十一月十一日のことであった。蘇我臣そがノおみ入鹿いるかは、巨勢徳太臣こせノとこだノおみ土師娑婆連はじノさばノむらじに、軽王子かるノみこみこといつわって、山背大兄王子やましろノおおえノみこらを斑鳩いかるがおそわせた。

 斑鳩宮いかるがノみやからは、若干のやっこ舎人とねりが出て、ふせぎ戦った。娑婆さばが矢にあたって死んだ。そこで徳太とこだは、斑鳩宮いかるがノみやに火を掛けた。山背大兄やましろノおおえは、馬の骨を取って、寝床に投げ置き、妃や子らを率いて、隙を見て逃げ、胆駒山いこまやまに隠れた。三輪文屋君みわノふみやノきみ舎人とねり田目連ためノむらじとそのむすめ菟田諸石うだノもろし伊勢阿部堅経いせノあべノかたぶらは、供をした。入鹿いるかは灰の中に馬の骨を見出して、誤って王子みこが死んだと思い、囲みを解いて去った。

 それで、山背大兄やましろノおおえらは、四日五日ほどの間、山に留まって、食う物も食えずにいた。三輪文屋君みわノふみやノきみは、王子みこに勧めて曰く、

われいまつるは、山背国やましろノくに深草屯倉ふかくさノみやけけて、そこより馬に乗りて、東国あずまノくにいたりますれば、父君が乳部みぶたみしたまい、いくさを興して還りて戦わなん。その勝ちたまわんことはかならじ」

 と。山背大兄やましろノおおえこたえて曰く、

いましが申す所の如くせば、その勝たんことは必ずしかあらん。されど我が心に願わくは、十年ととせ百姓たみどもをつかわずありたし。一人の身の故によりて、何でか万民たみどもを煩わしめんや。またのちの世に、が故によりてかぞいろはほろぼせりと、たみどもに言われんことを恐れる。何で戦い勝ちてのちにのみ、これ丈夫ますらおなりと言わんや。それ身をてて国に乱れなくあらしめれば、また丈夫ますらおにあらずや」

 と。

 ここに人があって、遙かに王子みこらを山の中に見た。還って入鹿いるかにそれを伝えた。入鹿いるかは聞いて大いにおそれた。すみやかにいくさおこして、そのことを高向臣たかむくノおみ国押くにおしに述べて曰く、

「すぐに胆駒山いこまやまに向かいて、大兄王子おおえノみこらを捜し捕らえるべし」

 と。国押くにおしこたえて曰く、

やつかれ板蓋宮いたぶきノみやこそ守りて、敢えて外にはでじ」

 と断った。そこで入鹿いるかが自ら往こうとすると、古人大兄王子ふるひとノおおえノみこが息を切らせて来て、

何処いずこにか行くや」

 と問うた。入鹿いるかつぶさ所由ゆえを説くと、古人ふるひとの曰くは、

「鼠は穴にかくれて生き、穴を失いて死ぬ」

 と。入鹿いるかはそれで行くことを止め、人をって胆駒山いこまやまを探らせたが、見付けることは出来なかった。

 ここに山背大兄やましろノおおえらは、山より還って、法隆寺ほうりゅうじに入った。入鹿いるかは兵を出して寺を囲んだ。山背大兄やましろノおおえは、文屋ふみやかたって曰く、

われもしいくさを起こして入鹿いるかを伐たば、その勝たんことは疑いなし。されど一人の身の故によりて、百姓たみどもをやぶそこなわんことはほりせじ。かれが一つの身をば、入鹿いるかにぞ取らせる」

 と。文屋ふみやは表に出て、その言葉を伝えた。そこでついに、山背大兄やましろノおおえは妃や子らと一時もろともに、自らくびくくって死んだ。

 その時、白檀びゃくだんの香りが溢れ、音楽がたえに響いたと思うと、空は照りひかり、天花てんげこぼれ散った。人々は、はっと空をあおいだ。すると舎利塔しゃりとう相輪そうりんから、雲が流れ出て天に道を通じ、五つの色のはたきぬがさに導かれて、種々くさぐさ天人てんにんすがた種々くさぐさ伎楽おどりうたすがた種々くさぐさ生類いきものすがたが現れ、西へ向かって飛び去った。

 入鹿いるかのみは、それに気付かなかった。人が教えて指し示すと、全ては黒い雲に変わって消えたので、見ることが出来なかった。

 蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみは、このことを聞くと、いかののしって、

噫々ああ入鹿いるか太々はなはだ愚かにして、悪しきわざのみぞする。いのちもまたあやうからずや」

 と言ったと云う――


 ――徳太とこだはここまでを述べると、

「この噂の立てる故は、が手の遅きにこそあり」

 と言い捨てて、なおこの一件は、入鹿いるか古人ふるひときみとして立てる為に、山背やましろの殺害をはかったのだと説く声さえあるのだ、と付け加えて去って行った。

 入鹿いるかは腹を立てる。何て態度だろう。この前はああへらへらしていたくせに。まあそれは良い。しかしこの噂は荒唐無稽でたらめである。斑鳩宮いかるがノみやに馬の骨など置いてあるはずがないし、それを人と見誤るなどありえない。他も全く作り話である。最後のことについても、山背大兄やましろノおおえが死んでも古人ふるひとの有利にならない。古人ふるひとにとって最大の競争相手は、同じ父の子である中大兄なかノおおえなのである。

 これらのことは、この入鹿いるかを貶めようという悪意を持った誰かが、わざと流しているように思える。事実は、何処どこかから火が出たので、誰も手を下さないのに、大兄おおえらは死んだというだけなのである。それを事実無根のことまで加えて、どうしてこんなことが云われるのであろうか。

 気味が悪いのは、この入鹿いるかしか聞いていないはずの、古人ふるひと大兄の言葉が引用されていることだ。いや密室であったわけではないから、立ち聞きされなかったとも言い切れない。もし耳を立てていた者があったとすれば、それが噂の出所なのであろうか。はた恨みを買ったことが無いではないにもしろ、これほどの事をする者がどこかにあるというのか。

 居たたまれない心持ちになって、馬を引き出して外へ走る。何処どこへ行くものか。足は自然と斑鳩いかるがへ向く。冬寒ふゆざむの夕暮れの中を行く。

 斑鳩寺いかるがでらこと法隆寺ほうりゅうじは、消し炭となった斑鳩宮いかるがノみやの隣に、変わらず美しい姿を見せる。ここでは、血の臭いがするような事件は、何一つ起こっていない。それを確かめてもなお、いやな感じがぬぐえない。五重の舎利塔しゃりとうは、その尖端に立つ相輪そうりんの上へ、灰色の雲をゆるやかに流れさせ、茜色にみそうな空にそびえて、冷たく人を見下ろしている。〔了〕

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斑鳩寺に血は流れず 敲達咖哪 @Kodakana

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