斑鳩宮の包囲

 冬至に近い、十一月の寒い日である。

 この一月の間に、山背大兄王子やましろノおおえノみこは、宝王女たからノみこからの要求に応えなかった。宝王女たからノみこは、自ら手を下さない。軽王子かるノみこの名にいて、

「惜しいかな、山背大兄命やましろノおおえノみことが為に、国が乱れなんとしているとは。かれ即今すみやか斑鳩宮いかるがノみやを囲み、御身みみとどめしめるべし」

 との命令が、大伴馬養連おおともノうまかいノむらじを使いとして、蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみに宛てて下される。蝦夷えみしやまいを称して出ず、子の入鹿臣いるかノおみ名代みょうだいとして遣り、巨勢徳太臣こせノとこだノおみえて、事に当たらせる。

 入鹿いるか飛鳥あすかから斑鳩いかるがを指して北へのぼり、兵を布陣して宮を囲ませる。徳太とこだが先に馬を走らせて、その手配りを済ませる。軽王子かるノみこみずからこの場に来はしない。入鹿いるかは父大臣おおおみの代わりなのだから、そうこせこせと動き回るわけに行かない。後からゆったりと馬を歩かせて来た。

 入鹿いるかは、馬の背に揺られながら、一つの言葉を反芻する。

「鼠は穴にかくれて生き、穴を失いては死なん」

 それは、この一月ひとつきというもの、繰り返し夢に聞いた言葉であった。声は、古人大兄ふるひとノおおえのものである。顔は見えない。

「鼠は穴にかくれて生くべく、穴を失いては死ぬべし」

 夢に現れるたびに、少しずつ違っている。

「鼠は穴にかくれてこそ生けれ、穴を失いてぞ死ぬる」

 忘れようとしても、頭を離れない。いやな気分だ。このままいくら歩いても、斑鳩いかるがに着かなければ良いと思う。そうは思っても、斑鳩いかるがはすぐそこに在る。この国の小ささは、人に逃げ場を与えない。

 斑鳩宮いかるがノみやの南方に、本営がかれている。入鹿いるかが来ると、徳太とこだは、

「へへ、どうぞこれへ」

 といった調子で、いつになく低い腰で迎える。何だか気味が悪いようだ。どうしたのか。

「何しろ御身おんみ大臣おおおみの代わりであられるし、聞けば近くそのくらいをお継ぎになるとか」

 それではいつまでも同輩付き合いをしてもらうわけにもゆかぬので、と徳太とこだは言う。そんな事実はありうべくもない、父上がこの世に在られる内は、と答える。徳太とこだは、しかし近くそうなることは間違いないので、今日からは矢とも矛とも思って使って欲しい、と返す。

 盾と幕で囲われた陣営の中に入る。馬養うまかいや叔父倉麻呂くらまろなどが揃っている。

 入鹿いるかは、憂鬱である。風は冷たく吹いて身にみるのに、太陽だけがジリジリとして熱く感じられる。

 さらに不愉快なことを思い出して、見回りに行くという徳太とこだを呼び止める。

中臣連なかとみノむらじ鎌子かまこを見しが、あれは何をしに来たるや」

 徳太とこだはそのことを把握していた。

「何でも中大兄王子なかノおおえノみこみことけて、様子を見に来たるとか」

 との答えがある。

王子みこの使いだとて、中臣連なかとみノむらじなんどに上席を与えるなよ」

 と言い付けて、この良き友を送り出した。

 季節柄、ひるを過ぎれば、陽はどんどん傾く。

 斑鳩宮いかるがノみやへは、馬養うまかいが朝から繰り返し、行っては門をたたいているのに、中からは答えが無い。御言みことたまわりたくおもう。背は父と宝王女たからノみこに押され、足は山背大兄やましろノおおえの為に行きなずんでいる。

 父はこのあさ

「国に乱れることあらば、たみどもはなりわいることあたわず、おみどもはたからを失わんかな。よくあきらめよ。なさけとらわれることまな

 と言って、入鹿いるかを送り出した。父はこの入鹿いるかが、この手で山背大兄やましろノおおえを斬ることを望んでいる。そうすれば宝王女たからノみこの覚えもめでたく、大臣おおおみくらいも約束されると言いたいのであろう。確かにそうであろう。父はいつでも正しい。

 だが、それで本当に良いのであろうか。宝王女たからノみこは今、事実上の国君ではある。しかしその正統性には疑いがある。それこそやがて国を乱す元になりはすまいか。今にして、いささか争うことあらんとも、正しい王者を立てることが出来れば、その方が良いのではなかろうか。

 やはり山背大兄やましろノおおえ、或いは古人大兄ふるひとノおおえこそ、と思うと、

「鼠は穴に」

 と夢の声が、耳に聞こえる気がする。あの葬喪そうそうの礼で見た、古人ふるひとの疲れた姿を思い出す。古人ふるひとはあれ以来、家に籠もって、人に会わないらしい。何度かは使いをやって、誘いを掛けてはみたものの、今日まで顔を見ない。あの日は、山背大兄やましろノおおえも、欲の無い、世間の事はもう諦めたという、そんな容子をしていた。もうわが世の春を謳歌する望みはないのであろうか。

 背後には、父と宝王女たからノみこの圧力を、重ね重ねも感じる。

 いや、と思い直す。幼い頃に、一緒に遊んでくれた山背大兄やましろノおおえこそ、いつまでも忘れられない。庭を並んで駆け回り、転べば助け起こしてくれた従兄いとこ。その腕の力強さ、心の頼もしさ。

 眼の前の斑鳩宮いかるがノみやの中に、すぐそこに山背大兄やましろノおおえは在る。山背大兄やましろノおおえが、その名にいて号令を掛ければ、応じてつ者は、決して少なくはあるまい。門を破って入り、大兄おおえを無理にでもかついで、矛は板蓋宮いたぶきノみやにこそ向けてみたらどうであろう。闘って負けるとは限るまい。立ってはくれまいか。あの日の力強さ、頼もしさで。

 陽は沈みつつあり、薄暗さが覆い被さって来る。

 ふと、鼓膜を打たれる感じが変わった気がする。いささか外がざわついたようだ。馬養うまかいがこちらへ来る。

斑鳩宮いかるがノみやより使いありて、これを」

 封書である。蘇我林大郎入鹿臣そがノはやしノたいろういるかノおみへと宛名書きがしてある。懐かしい山背大兄やましろノおおえ手跡しゅせきに違いない。はっと心臓が忐忑たんとくと鳴る。一紙片を開く。

仲冬之候ふゆなかばノおり林臣はやしノおみ如何いかにあるや。想うに健康すこやかにか。こちらなれば常の如くあり。今、舎人とねりを遣わしてこのふみを取らせる。

 この十余五年とおあまりいつとせおもえば、豊浦大臣とゆらノおおおみより受けしめぐみ、深く胸に沁み入る。かつてきみくらいのことありて、田村尊たむらノみことと争わんとせし時、大臣おおおみわれみずか退しりぞけよとさとしけり。もし田村尊たむらノみことと矛を交えることあらば、われ兵法ひょうほうの心得なし。敗れることかならじ。大臣おおおみの導きありて、故に今のいのちありき。

 死ぬるべき身を救われ、仏の道を究めるべき時を得たるは、ひとえなんじが父君のいきおいれるのみ。かく延べたるいのちにてあれば」

 読み進めたくないような気がする。読めば、終わりがある。だが御言みことつつしんで受けなければならない立場である。つつしんで読む。

「かく延べたるいのちにてあれば、これを捨ててなんじが為に与えること、喜びとこそあれ、うらみとはすべくもなし。林臣はやしノおみは父君に逆らうべからず。身を立ててこそあれ。

 夜風に長く当たりて、体を冷やすことなかれ。筆をかん」

 深く息を呑んで、北の空を仰ぐ。暗くなりつつある空に、鈍色にびいろの雲が垂れ込めている。いや、雲ばかりではない。あれは雲ではあるまい。立ち昇るものが混じっているではないか。

「火」

 という声が、耳に飛び込んで、外へ出ようと歩く。足は石のように重い。斑鳩宮いかるがノみやの塀の中から、煙はのぼって雲に融け、炎が紅く燃えさかるのが見える。

如何いかにか致さんや」

 徳太とこだが指示を仰ぐ。入鹿いるかは何かを答えた。どう言ったのか、後から考えても思い出せない。ただあの日の、

「いずれいのちの終わる時にのぞめば」

 という、大兄おおえの言葉が再び耳に聞こえた気がして、この火は消せぬという思いが離れず、しばし立ち尽くして、炎を見詰めていたことは憶えている。

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