オリジナルの憂鬱

笹野にゃん吉

オリジナルの憂鬱

 ホワンホワンと電子音が鳴ると、エミルのテーブルが開いた。天板の中央が割れて左右にスライドし、小型エレベーターに載せられてやって来たのは、七色のケミカルシェイクだった。


「あれ、ストローは?」


 私はその容器から、エミルの銀の眼球へと視線を移した。

 エミルは見せつけるようにバナナイエローのサイバネ義手を振りながら、ないないと言って笑った。


 その時、表面の人工皮膜がぺろりと剥がれた。私は片眉をあげたけれど、当のエミルに焦った様子は見受けられなかった。間もなく、皮膜の内側からチューブがうねうねと這いだしてきた。


 グロテスクだ。手から巨大な寄生虫が現れたみたいで、吐き気がする。

 それがケミカルシェイクの中にまで達すると、胸の悪さはいや増した。


「それ新型? 誕生日まだだよね。パパにおねだりしたの?」


 私は目を伏せ、生身の白い指でストローを摘まんだ。ストロベリーシェイクを吸いこむと、薬に似たにおいがした。


「違うちがう! パパだってそこまで甘くないって」


 今度は生まれながらの蒼白い手が振られた。つと視線を上げると、義手と繋がったチューブの中を七色の液体が流れていた。ハイウェイを猛スピードで走り抜けるジェットバイク集団のランプみたいに暴力的な光景だ。


「ふぅん。バリー君とうまくいったんだ?」

「えっ」


 そう言われることを期待していたくせに、エミルは頬を赤らめた。彼女の感情と同期して、人工毛髪までもが赤く染まりだす。

 ちょっと面倒くさいと思いながらも、友人の幸せは、私の胸も温かくさせた。テーブルの上に身をのり出した私は、いたずらっ子みたいに笑ってみせる。


「サイバネ交換したんでしょ?」

「う、うん」

「つまり今、バリー君が使ってた摂取機能でそれ飲んでるんだよね。なんかエロくない?」

「ちょっとやめてよぉ!」


 口ではそんな事を言いながら、まんざらでもない様子だ。髪色はカッと真紅に染まったかと思うと、紫やピンク、黄色のグラデーションに流動しはじめる。

 私はくすくす笑いながら、自分の髪を指で梳いてみた。鼻先にもち上げて観察する。それは黒く艶々としたままで、一向に変化する様子がなかった。当然だ。地毛なのだから。私は全身生身――オリジナルなのだから。


「拒絶反応は大丈夫?」


 相手の毛髪を眺めながら訊ねてみた。青く染まったりしたら、未来がちょっと明るく見えるかもしれない。私の胸には愛憎めいた複雑な感情が渦を巻いていた。

 けれど、エミルはまた赤くなった。私の期待は裏切られた。


「あたしたち相性いいみたいなんだよねぇ……」

「少しもないの?」

「うん。びっくりするくらい。これもすっごくおいしい!」


 指先で容器をつついてエミルが笑う。

 不覚にも私は、その笑顔をとてもきれいだと感じた。

 顔面は、ほとんどサイバネ化していないからだろうか。

 精一杯、心中で皮肉を披露しながら私は、


「運命的だね」


 心にもない言葉をもらしていた。

 しまったと思った時にはもう遅かった。とっさに口許を隠す代わりに、窓外のビル群やホログラム広告に目を逸らしてはみたものの、意識のベクトルを変えたのは私で、エミルではなかった。


「でしょ!」


 案の定、エミルが両手を打ち鳴らし、吸飲中のケミカルシェイクを少し零した。テーブルの汚れに注目したのは、当然、私だけだった。


「だからさ、マホもはやくサイバネデビューしよ! そしたら、今よりもっと可愛くなるって!」

「そ、そうかなぁ?」


 髪をくるくると指に絡めて、私は曖昧に笑った。


「そうだよ! マホが腕増やしたりすれば、きっとケンだってイチコロにできるよ!」

「ハハ、まさか」


 ケンの名を聞いて、不覚にも私の胸は高鳴った。

 髪色に感情が反映されなくてよかったと思う。エミルには悪いけれど、自分の感情をいちいち相手に知られるなんて死んでもごめんだ。私は肩をすくめ困ったように笑った。


「ていうか、なんでケンくんなの?」

「だって、かっこいいじゃん。ケンのこと、AI占いにかけたことない? 画像だけで占ってくれるあれ」

「ないよ。私って手動でしかカメラ使えないし。撮ってるのバレちゃうもん」

「あ、そっかぁ。やっぱオリジナルって大変だよ。サイバネ化しちゃおうよ」

「でも、うちのお父さん厳しいから」


 嘘を悟られないように、私はまたストローに口をつけた。やっぱり薬っぽいにおいがした。でも、これはまぎれもなく私自身が感じているにおいなのだ。私は、それを誇らしく思っている。


「そうだよねぇ。マホのお父さん、さすがに考え古いよなぁ」


 そして、それを正直に打ち明けられたなら、私はもっと私自身を愛することができただろう。


 けれど、正直な気持ちなんて言えるはずがない。


 だって、みんなサイバネ化した人がスマートだと思っている。美しいと思っている。そんな社会が正しいと思っている。


 私だけが違うのだ。

 私だけが間違っているのだ。

 私だけが異端なのだ。


「……だよね」


 だから今日も、私はこのおかしな世界に隷属したフリをし続けるしかない。



――



 ドアに物理キーを挿しこむと、解錠音がシューイと鳴った。静まり返った住宅街の一角では、それだけの音がいやに大きく感じられた。


 ここには、私以外の誰も存在していないかのようだ。


 もちろん、そんなことはない。車道には頻繁に反重力自動車がとおっている。通行人も歩いている。近頃はバーチャルオフィスが主流だし、無人の家というのもなかなかないだろう。


 けれど、自動車の内部はまったく見えないし、運転を制御しているのはAIだ。住宅はどれもつるりとしたメタルカラー、窓のない無個性な箱で、生活音など漏れてはこない。


 生身をさらす通行人も、知覚している世界は似て非なるものだ。彼らは、本来存在しないはずの企業広告や雑音に付きまとわれている。

 その点、オリジナルの世界は、静かでシンプルで禁欲的だ。索漠とはしているものの快適だ。

 けれど機械に飼いならされた彼らからしてみれば、私のような人間は、大樽のなかに籠ったディオゲネスのように見えるのかもしれない。


「……ただいま」

『おかえりなさい、マホさん』


 が、当然、私はディオゲネスではない。徳にはてんで無頓着だし、欲望と無縁ではない。心の中で皮肉ならいくらも言うけれど、屋根の下で暮らしているし、帰宅すれば電子音声によって迎えられるのだ。


『下半身に筋力の低下が見受けられます。詳細を確認しますか?』

「しないよ」


 三和土に脱いだ靴をそろえて、框をあがる。フローリングの優しい色合いは、金属光沢の外界と違って温もりがある。白い壁紙は暖色の明かりで濡れていて、これまた温もりがある。


 我が家の和洋折衷のデザインは、父が望んだものらしい。他の住宅は外観だけでなく内観まで金属に呑み込まれているものがほとんどだ。オリジナルに固執する私の社会不適合的な性質は、父に基づいたものなのかもしれない。


 とはいえ、その父もオリジナルではないし、いちいち帰宅した娘のバイタルを確認させる。

 どこにいても私は異端だ。電子音声は、その事実を突きつけるようにどこまでも追ってくる。


『適度な運動を心がけてください』

「はいはい」

『脚部を置換すれば運動の必要も生じません。これまで集計したマホさんの身体的データを元に、換装パーツをオーダーメイドすることが可能です。拒絶反応のリスクが』

「しないしない」


 お節介な世の中だ。人も機械も、能力を平均化することが善行だと思っているのかもしれない。

 廊下を進む足取りは、次第に荒々しくなっていった。リビングのドアを開く手つきは、いささか乱暴になった。

 だが、それもリアルの中で完結された行為だ。食卓でVR瞑想に耽る母に、私の苛立ちは届かない。

 

「ただいま」


 一応、声をかけてみたが反応はなかった。

 私は、壁かけ冷蔵庫からおやつの吸飲ゼリーパックを手に取って、ソファに倒れこんだ。


『カロリー摂取は、運動後を推奨します。特に運動後三十分以内の』

「うるさいなぁ」


 私はゼリーパックを飲みながら、携帯端末をいじる。芸能情報をサーフしていたら、次第に吐き気がこみ上げてきた。どこどこの女優の腕が六本になっただとか八本になっただとか、とあるモデルがきっかけでマゼンタ皮下着色料が若者に流行中だとか――とにかく、そんな具合だからだ。


 私にとって、それらはすべて「美しいもの」の対極に位置するものだった。もって生まれた肌の色、感触、増えることのない四肢は、ちっぽけなディスプレイの幻想にさえ存在していないようだ。


 私はうんざりして、フレンドコミュニティを展開した。


『やっほー』


 メッセージを送ると、一と数えぬ間に反応があった。


『やっほー、マホ! さっきは楽しかった!』


 エミルだった。

 花びらの中で舞い踊る擬人化蜂のスタンプが押された。


『遊んできたの?』


 と、これまた指を折るより早くべつの友人によってメッセージが更新された。


『仲良いなぁ、二人は』

『うらやましいねぇ』

『ラブラブ~』

『こんどはわたしともあそぼ!』

『ここにいるみんなで遊べばよくね?』

『おっ! いいね!」


 私も楽しかったとエミルへの返信を入力する間に、メッセージは次々と更新されていく。

 指で文字を打つ必要がないからだ。思い浮かんだ言葉が、そのまま文字になる。口頭での会話より、こちらのほうがやり取りは早いくらいだ。オリジナル以外は。


「……」


 最低限のメッセージだけを送り、私は流れゆく文字の洪水を眺める。私のメッセージがないことに誰も言及せず、楽しげな文字の羅列が現れては消えてゆく。そして私は、ふと思う。


 ここは私の居場所だろうか、と。


 友達はみんな優しい。私をことさら疎外したりはしない。けれど、ときたま私は「静かな子」として評価される。そこには少なからずオリジナルを揶揄する気持ちがある。


「はぁ」


 私は端末もゼリーパックも投げだして目をつむった。

 目が覚めたら、世界中オリジナルだらけになっていればいい。こんな世の中、夢だったらよかった。その逆でもいい。夢の中に浮遊する世界のほうが、私の存在すべき正しい世界だったなら――。


 叶うはずもない理想に思いを馳せるうち、緩やかに眠気が染みてきた。

 けれど寝ても覚めても、私はこの世界の住人だ。どこにも逃げ道などない。すっかり機械に取りこまれてしまうまで、世界はしつこく私を勧誘し続ける。


『メンタルケアにはバーチャル体験がおすすめです。枯山水鑑賞やストーンヘンジ散策で、日々の疲れを癒しましょう』



――



 バドミントンのシャトルが足許に跳ねた。私はそれを悔しがるでもなく摘まみ上げる。シューズと床がキュ、キュとこすれ合い、ラケットが風を切り、快哉や落胆が反響する体育館で、私は壁際に一人ぽつんと座っていた。

 ぼんやりシャトルを眺めていると、やがてその視野に、ボロボロのシューズがやって来た。


「それ、くれない?」


 その声で、私はゆっくりと視線をあげた。


「……!」


 相手と目を合わせたとたん、心臓がぴくんと跳ねた。無骨な銀のサイバネ義手でちっぽけなラケットを握ったその男の子は、ケンだった。


 私はサイバネが嫌いだ。醜くて不気味だから。

 けれどケンのそれは、オリジナルとして迫害されないために渋々つけたサイバネという風情で、彼はその腕を除くすべてが生身だった。


 目の前に差しだされた白い腕に、筋肉の筋がくっきりと刻まれていた。汗が光っていた。薄らと毛まで生えている。多機能で光沢のある腕より、それは遥かに精悍で蠱惑的ですらあった。


「……はい」


 私はドキドキしながら、ケンの手にシャトルをのせた。指先がかすかに彼の手と触れ合った。湿っていた。

 本当はその手を握りたかった。けれど、そんなことできるはずがない。気持ち悪いと思われたくない。

 だから、互いの肌が触れあったのは一瞬で、彼との時間も一瞬に過ぎないはずだった。


「ありがと。……ほいッ!」


 ところがケンは、先程まで試合をしていた相手に向けてシャトルを打ち、ラケットを床に滑らせると、私の隣に腰を下ろしてきた。


「え、どうしたの」


 驚きのあまり拒むような口調になってしまった。


「疲れちゃった」


 ケンはそれを気にした様子もなく、爽やかに笑った。首にさげたタオルで額の汗を拭った。かっこいい。


「そう、なんだ」

「うん。やっぱワイヤーに吊るされてベルトコンベアの上で運動するより、実際に広い空間つかって動いてるほうが疲れるよ」

「いまどき、ジムでもこんなにリアル空間使わないもんね。うちの学校は珍しいよ」

「そもそも登校しなくちゃいけないもんなぁ。他の学校はバーチャルにダイブするだけでいいのに」

「だね。私は、そういうところ嫌いじゃないけど」

「うん、俺も」


 意外にも自然と話せている。私はその事実に驚いていた。ケンとは、まったく話したことがないわけではないけれど、授業の一環で、討議すべきことを討議したり、そうでなければ軽く相槌を打つだけだった。

 しかもケンは、私の価値観に賛同してくれた。私の胸は多幸感で満たされていった。


「でも、運動はしないんだね?」


 ケンが相手ならば、皮肉を言われるのも悪くなかった。私は肩をすくめて、我が校は自主性を重んじるので、と校風を言い訳に使った。


「自主性って……!」


 ケンにはそれがよほど可笑しかったらしい。腹を押さえてクツクツと笑った。


「マホちゃんのそういうところ良いなぁ」

「そういうところ?」

「えっと、なんて言うの、ブレないっていうかさ、我が道を行く的な?」

「親には言うこと聞かない子だってしょっちゅう言われるよ」


 今度は声をあげて笑われた。ちょっとムカついたので、脇腹を小突いてやった。


「いでっ。ごめんごめん。でも、本当にさ、マホちゃんかっこいいよ」

「そう。ありがと」


 私はあえてケンの目を見つめて言った。澄ました嫌な女に見えたかもしれなかった。

 けれど本当は、両手で顔を覆いながら地面の上をごろごろと転がり回りたい心境だったのだ。

 私は、その気持ちに気付いて欲しかった。

 と同時に、気付いて欲しくなかった。


「……あのさ」


 どちらの気持ちが優先されたのか、私は言葉を発していた。

 ケンはなにも言わず、その眼差しだけで私を促した。


「えっと……」


 そこで私の虚勢は崩れ去った。様々な感情が綯い交ぜになって、先の言葉を紡げなくなる。


「ケン! 何してんのぉ?」


 すると、どこからか女の子たちが集まってきた。みんな笑顔だったけれど、こちらに投げられる一瞥は鋭かった。私は膝を抱いて縮こまり、口を噤んだ。

 

「休んでたんだよ」


 ケンは誰に対しても爽やかだった。女の子たちは、その優しさにつけこむようにケンを囲んだ。そして、私へのあてつけのように新型サイバネに関する話題を持ちだした。


「……」


 私はその隅っこで曖昧な態度に徹するしかなかった。気配を消して、そっとこの場を立ち去りたかったけれど、彼女らの注意はケンよりも、むしろ私に向けられているようだった。だから、話題が次第にサイバネ化の美しさへと遷移していったのは自然な成り行きだったのかもしれない。


「ねぇケン、アタシさぁ、両腕ともサイバネ置換したんだよ? どう思う? 前の生の腕よりさ、キレイだと思わない?」


 その女の子は「生の腕より」を強調し、さりげなくケンの義手に自分の義手を打ち合わせてカチンと鳴らした。その音で驚いたように、ケンがなぜか私を見た。それは一瞬の出来事だった。瞳の奥に秘められたものを探る間もなく、その目は伏せられた。


「……きれいだと思うよ」


 たったそれだけの言葉が、私の抉った。

 憧れだけじゃない。初めて私の価値観を認めてくれた相手でもあったからこそ、その一言は決定的に私を傷つけたような気がする。


「……」


 使いもしないハンドタオルを手に、私は立ちあがった。

 名前を呼ばれたような気がしたけれど、ただの願望かもしれなかった。確かめる気にもなれなかった。

 タン、とシャトルを打つ音がして、体育館を快哉が占拠する。



――



 父はフォークを使って料理を口へ運ぶと、おいしいと言って大袈裟に笑った。見た目もいいなぁと褒めそやせば、母が満足そうに頷いた。


 けれど、私は知っている。


 料理を作ったのが母ではないこと。そもそも料理ですらないことを。

 プレートの上に載せられているのは、レーションや合成野菜のディップに過ぎない。箱からレーションを取りだして、チューブからディップを搾っただけ。そこにサイバネアイを通して華美なイメージ合成を施されたものが、我が家では――いや、世間一般では料理なんて大層な呼び方をされていた。


 サイバネアイを持たない者からすれば、それらは幼児用のおもちゃのブロックや草食動物の糞にしか見えない。味覚をいじっていない者からすれば、入浴剤や味のないピスタチオムースを摂取しているに等しい。


 要するに、オリジナルの私にとって食卓は地獄だ。自分で料理をしようにも、オーガニック食材は高価で、庶民にはとても手の出せる代物ではなかった。この地獄から抜け出す方法はひとつだ。サイバネ処女であることを捨てるより他ない。


「……ねぇ、お父さん」

「ん、どうした?」


 少し前までの私なら、意地でもこの食事を乗り切っていただろう。


「私もそろそろサイバネ化しようかな……」


 でも今の私は違った。

 いとも容易く私の心は折れてしまっていた。

 サイバネ社会に対する反骨心は、『きれいだと思うよ』事件をきっかけにすっかり萎んでいた。


「おお! 本当か、マホ!」


 自分の理想を貫き通せば、いつか幸せがやって来ると思っていた。いや、そうすることが私の幸せだと信じてきた。

 けれど、オリジナルの人生は、出口のないトンネルを彷徨い続けるようなものだ。いくら歩き続けても、光が見えてくることは決してない。


「よかったぁ。お父さんなぁ、このまま、ずっとマホがオリジナルとして生きるなんて言いだしたら、どうしようかと思ってんだ」


 何故なら、社会が人々と機械が一体化することを許容し、人々がその社会を信じているからだ。


「……うん」


 私はフォークをもった白い腕に目を落としながら、レーションをかじった。これまで口にしてきた食べ物の中で、一番まずかった。



――



 これまでは、自動改札式校門や昇降口のセキュリティドアをとおるために、IC生徒手帳が不可欠だった。いちいちパスケースを取りだすのは面倒だったし、家に忘れてきてしまうと悲惨な結果を招くことにもなった。


「あっ……」


 でも今は違う。習慣でパスケースを取りだそうとすると、改札校門はもう開いていた。カードリーダーに生徒手帳をスラッシュしなくても昇降口は開いた。下駄箱だってそうだ。


「えぇ、っと」


 私は下駄箱のシューズを取りだすと、背中から生えた三本目、四本目の腕を伸ばした。いちいち屈まなくても、靴を履き替えることができた。脱いだ靴も、やはり屈まずに摘まみ上げ下駄箱にしまった。脳も少しいじったので、新しい腕を使うのにあまり違和感はなかった。


「えっ、マホ?」


 声に振り返ると、エミルが立っていた。いっぱいに開いた銀の眼が光っていた。


「うん。おはよう、エミル」


 私が逆に目を細めると、エミルはとたんに笑顔を咲かせた。


「クール! 超クールだよ、マホ!」

「そうかな?」

「うん! 色なんて特に! ダークブルーっていうのかな、こういうのって男の子の色だって思ってたけど、マホには超似合ってる!」

「ありがと」


 はにかんで頬に手をあてる。その手も義手だ。両腕をサイバネ化した上で、背中にも二本腕を足したのだ。


「ねぇ、眼は?」

「それはまだ。でも、これから少しずつアップデートしてくつもり」

「そうなんだ! 眼とか耳もはやくやっちゃうといいよ。世界変わるから」

「楽しみ」


 私の世界はもう変わっていた。これでもかというほど一変していた。それは言うなれば、一つの命の終わりだった。

 私は一度死んだのだ。オリジナルの私はもういないのだ。これからの私は、機械とともに生きていく。もう戻ることはできなかった。


 でも、エミルは私を受け入れてくれた。

 両親は手術室から戻ってきた私を見たとき、涙まで流して喜んでくれた。

 きっと、もっと多くの人々が、私の変化を祝福くれるだろう。私自身も、いつかこの利便性に感謝するだろう。

 だって、ここはそういう世界なのだから。


「あっ、あたしちょっと先に行くね!」

「え、うん」


 私はもっと沢山の笑顔で迎え入れて欲しかったのだけれど、エミルは突然、廊下を走っていってしまった。

 でも、これで良いのかもしれない。

 私はもう特別じゃないから、きっと淋しい気持ちに耐える必要もないのだ。


「マホ、ちゃん……?」


 そう、私はもう淋しくなんてない。

 私を凝然と見つめるケンに気付いて、私は穏やかに笑った。


「おはよう、ケンくん」

「どうして?」


 ケンは挨拶を返さなかった。

 だけど、私はケンを許した。ちょっと前までオリジナルだった女の子が、ある日、四本の機械の腕を生やして目の前に立っていたら驚いて当然だ。


「どうしてって、やっぱり生身は不便だからさぁ」

「でも、オリジナルでいることに拘ってたんじゃないの?」

「そんなこと、ないよ」


 強張ったケンの心を包み込むように、私は笑みを深めた。


「ねぇ、それよりさ、私のサイバネどう? 似合ってる?」

「え……」

「かわいいよね?」

「えっと」

「それとも、かっこいい? エミルはクールだって言ってくれた」


 私は笑いながら、ケンに一歩近づいた。彼の無骨な機械の腕を見つめながら。


「男の子からすると、キレイ系になるのかな? ねぇ、どう?」

「わからないよ」

「わからない? わからないってなに?」


 私はケンに詰め寄る。生身の腕を掴んだ。その感触が、熱が伝わってきた。なのに、何かが違っていた。


「俺は……」


 ケンが目を逸らした。私の手をやんわりと振り解きながら。


「前の君のほうが、好きだったよ」

「……は?」


 私はあんぐりと口を開けて固まった。掴みかかる気にもなれず、立ち尽くした。

 胸の奥がふいに熱を失った。喜びの熾火の爆ぜる音が消えると、どこからか死んだ女の声が聞こえてきた。


「……なにそれ」


 女の声が、私の声になってもれだした。

 拳をにぎると、人工皮膜がギュッと音をたてた。


「きれいだって言ってたじゃん」

「え?」

「バドミントンのとき、あの子の腕きれいだって言ってたじゃんッ!」


 私は今度こそ、ケンの胸ぐらに掴みかかった。制服が破れて、ケンがよろめいた。私は、その力に慄いた。自分の力に慄いた。自分の力ではないことに慄いていた。私はその場にくずおれた。


「きれいだって、言ってたじゃん……」

「ごめん……」


 謝られると、もうどうしようもなかった。胸の奥で死んだ女が泣きだして、私の視界も歪み始めた。


「どうすれば、どうすればよかったの……」


 やがて涙は溢れだして、私の手を濡らした。生ぬるい感触があった。けれど、涙は肌に滲みこまず、人工皮膜のうえをつるりと滑り落ちた。

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オリジナルの憂鬱 笹野にゃん吉 @nyankawa

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