あの救いを、もう一度

倉里小悠

あの救いを、もう一度

「あークソッ、負けた〜」

『主弱杉卍』

『乙w』

『対あり〜』


 タブレットPCを覗き込んでいた頭を上げ、ため息と共に肩の力を抜く。

 ずっと画面を見ていたから首が凝り気味だ。


「あ〜ヤメだヤメ! オールでもう集中が持たん。配信きるぞ」

『おつ〜』

『バイバイ』


 パネルを操作して、画面キャプチャと配信機能を停止させる。

 ゲームの勇壮なBGMが、少しだけ明瞭になった。


 昨日から何時間配信していただろうか?

 カーテンの隙間から伸びる日の光が眩しい。


「腹、減ったな」


 時間を意識したら急に腹の底から焦燥と不快感が登ってくる。

 しかし食料の貯蓄などあっただろうか?

 ここ最近は自宅とコンビニの往復ばかりで、食材――特に肉や野菜等の生鮮食品は買った覚えがない。


「冷蔵庫の中は……ちくわだけか」


 ベッドから降り、わずかに見えるだけになった床を歩きやっとの思いでたどり着いた冷蔵庫には、案の定ロクなものが無かった。

 唯一あった食料も、すでに包装が破られている。


「ふむ……カビは生えてないな。あとは匂いだけど――」


 袋を剥くように出して半分入れたまま持っただけだが、太いちくわはビクビクと小刻みに揺れる。

 最近はいつも気づけば慰めてしまっている相棒が頭の中でチラついた。

 そんな馬鹿な連想がよくなかった。


「ちくわより部屋の方が臭ぇな……」


 ご近所の目を気にしてカーテンを閉じていたせいで、ロクに換気もしていなかったことを思い出してしまった。

 臭いがこもっていては、ベッド脇に配置した消臭剤を撒いても意味はないだろう。

 重い足で、ゴミを踏まないようにベランダへと向かう。



「ふあぁ〜久しぶりの風、結構気持ちいいな」


 乾いた冷たい外気に触れて、先程までの空気がジメジメして生温なまぬるかったのだと気づかされる。

 なんだか世間様に叱られているみたいに感じた。


 しかしそんな感傷は長く続かない。


『バカやめろって!』

『『アハハハハ!!』』

「あーあー、うるせーなぁ。せっかくの気分が台無しだよ」


 近所の中学生だろうか。かすかに見える学校の方へ、大騒ぎしながら男の子たちが眼下を走り抜けていった。

 低くなりかけの、だがまだ甲高くて耳に障るはしゃぎ声が、空きっ腹と荒れた心を無遠慮に撫でていく。


「まったく、が中学生の頃はもっと大人しかったってのっ」


 わざとらしく、でも誰にも聞こえないように悪態をつきながら部屋へ戻る。

 ……中学生の僕は今頃、何をしていたんだっけ。




 ズルリ。


「あっ」




 そんな考え事をしながら歩けるほど、僕の部屋は片付いていない。


 久しぶりに世界が線だけを描く感覚を味わいながら、僕の意識は暗闇の中へ落ちていくのだった。


 ◆

 ◆

 ◆


『――くん』


 視界がぼやける。

 ここは……ベッドの上?


『――ジくん』


 天井から垂れるクリーム色のカーテンが、なんだか懐かしいような……




「――ユージくんっ、いいかげん起きなさい!」

「はいぃぃ!?」


 急に大きくなったおばさんの声に、僕はかかっていた毛布を跳ね上げカーテンを開けて応えた。

 履き慣れない硬い生地のスラックスと、袖も肩幅も微妙に足りないブレザーがとても窮屈だった。


「保健室は昼寝するとこじゃないのよ。勉強できないならもう帰りなさい!」


 見えたのは、白ベースの清潔な部屋に、整理整頓された茶色いビンとピンセット。

 感じるのは、安っぽい消毒液の匂い。


「……ショウコ先生?」

「なに?」


 まん丸な印象で、背の低い女性。

 首元に少しだけ覗く黒いインナーと前をピタリと閉じられた白衣は、今まで思い出すことも無かった淡い記憶のものと、完全に一致した。


 ここは……僕が通っていた中学校の、保健室だ。

 ――それも、7年も前の。


「もしかして、授業に行く気になった?」

「……まだ、お腹痛いです」

「そう……お母さんに、迎えに来てもらう?」

「い、いいえっ! 自分で帰れます!」


 養護教諭――つまり保健室の先生であるショウコ先生の言葉を受けて、僕の口は勝手に声を出した。

 懐かしいと思っているはずなのに、僕は焦っている。


 ああそうだ、中学生のときも、僕は教室に行けなくなっていたんだ。


 朝、元気で母に見送られ学校に行っても、途中でチクチクと刺すような腹痛に悩まされ保健室に進路を変える。

 毎朝困ったような顔で微笑むショウコ先生に、挨拶をしていた。


 保健室というのは、決まりとして2時限しか生徒が滞在することはできない。

 それ以上は、早退か教室に戻るか選ばされるのだ。


 両親は共働きだ。

 まだ昼にもなっていない今迎えを呼ばれたら、母に迷惑がかかる。


「じゃあカバンを教室に取りに行って」


 そうして毎度焦って言い訳しては罪悪感を肩に乗せ、家路いえじについていた。

 家に入れば、腹痛は夢だったかのように消えるから。



(――ああそうか。今喋っている『僕』は、『中学生の僕』だ)


 この光景を懐かしいと思うと、べっとりと貼り付く暗い感情に悩んでいる『中学生の僕』は今、同じ体に宿っている。


 これは夢なのだろうか。

 しかし夢にしては、意識がはっきりしすぎている。


 体は中学生の僕に任せ、はこの不思議な状況に頭をひねった。

 カバンが教室にあるので、嫌だ嫌だと心で喚き、中学生の僕は半分泣きそうになりながら階段を登っていく。


 素直で、駄々をこねない、”良い子”だったのだ、僕は。

 友達も先生も、両親ですら僕が不登校になるとは思わなかっただろう。

 成績も良かったし、生徒会にだって所属していたのだから。


 の僕が思えば、通えなくなったのが情けない。


 当時の『僕』は”幼くて””弱かった”のだ。

 怒鳴ることもほとんどない両親に、高い学力で周りから一目置かれていて……恵まれていたのに、僕は些細な喧嘩をきっかけに、教室を拒絶するようになった。

 大事なはずの修学旅行すら欠席してまで。


「そういえば今日って何日だ……?」


 今が追体験しているこの日は、修学旅行の前なのか後なのか。






「おー、ユージ。元気してるかー」



 気の抜けた、だらしない中年の……あたたかい声。


 この声で気づいた。

 今日は修学旅行なんてとっくに終わった後だ。

 この日に僕は――――



「――おはようございます、クロダ先生」

「おーう、おはよう」



 ――救われたんだ。


 ◇

 ◇

 ◇


 ……。


「……クサい。二重の意味でクサい」


 部屋も臭いが見た夢もクサい。

 安い消毒液の方がまだマシだ。


「……うぇ」


 立ち眩みに悩まされながら重い体を起こし、広がった惨状と言える光景を眺めた。

 スウェットがこぼれた謎液を吸って茶色いシミを作っている。


「はあぁぁ……洗濯しないと」


 ついでにシャワーも浴びよう。

 中学生の僕と比べて、今の僕は汚すぎる。



 クロダ先生は当時、生徒会で顧問の先生だった。

 大量の白髪を染めもせず、猫背でいつもだらしなく笑ってる冴えないおじさん。

 それがクロダ先生だ。


 転任してきたばかりの理科の先生だったのだが、前任のワタナベ先生がみんなに人気だったのと、その見た目も合わさって多くの生徒から嫌われていた。


 そんな中、生徒会のつながりで僕と先生はお互いをよく知っていた。


 というか、先生が僕を気に入っていた。

 顔を合わせれば何かと話しかけてくるし、スキンシップも多い。

 友達はそれを見て災難だったなと、先生がいなくなってから言うのだ。

 そしてみんなで先生の悪口を言う。


 正直、そんな自分が嫌だった。昔も今も。



 僕が保健室登校をしているとき、担任の先生を始めにたくさんの先生がお見舞い――もとい説得に来ていたが、クロダ先生は一度も来たことがなかった。

 でもあの日、ただ廊下でばったり会っただけの先生の言葉で、僕は再びあの狭い教室に戻ることができたのだ。



「……なんて言われたんだっけな」


 シャワーを浴びながら、格好だけは修行僧のように立って考える。

 先ほどの夢――にしてははっきりと覚えすぎているが――では、クロダ先生に挨拶をしたところで目が覚めてしまった。

 モヤモヤしたままで垢を洗い落とすことができない。


「だめだ、思い出せねぇ」


 あのとき、クロダ先生に言われた言葉で……恥ずかしい表現だが、救われた。

 今、同じ言葉をもらったら、僕はどうするのだろう。


 結局ロクに洗えないまま浴室を出た。



「……こんなとこに落ちてら」


 照明を反射して光るヌルヌルな液体まみれのちくわは、やっぱり卑猥だった。

 ……ネットで新しいオモチャでも、買ってみるか。


 ◇◇◇



『――ユージ、お前は今、何をしているんだ?』

『お父、さん……』


 暗闇の中に、黄色い照明で照らされたテーブルが見える。

 そこには、腕を組んで静かに座っている……父の姿があった。


『ユージ、答えなさい』

『……ごめん、なさい』


 頭が回らない。

 体も、まるで巨大な何かに鷲掴みにされたように、こわばって動かない。


 謝罪ではなく、もっと言うべき言葉があるのに、口は固く閉ざされたまま。

 突然イバラが生えたのだろうか……胸がキリキリと痛くて、苦しい。


 父は喋らない。怒鳴ることもない。

 ただ、肌が焼けるようなオーラを、ピリピリとした空気を、発するだけ。



 スッ……


 父が、動いた。


 見上げると、父は大きな手を高く振り上げていた。



 そして、その手はゆっくりと弧を描いて――








「ごめんなさぃ……っ!」


 か細いはずなのに、やけに自分の声がハッキリ聞こえた。


「っ、夢か……」


 随分と嫌な夢を見てしまったものだ。

 汗でスウェットが肌にベッタリと貼り付いている。



 夢に出てきた父は、いくらか若かった気がする。

 僕が中学生くらいの頃の父だ。


「こんな状態だから……見たのかな」


 真っ暗な部屋の中、電源の切れたタブレットPCを握りしめる自分の手を見て、呟いた。


 父は厳格な人だ。

 怒鳴りもしないし殴りもしないが、怠けること――非生産的、非効率的な行動を許さない人だった。


 地元の大手企業に務め、日々規則正しく生活していた。

 酒も飲まず、タバコも吸わず、金のかかる趣味は作らない。

 家族のために働き、家族に人生を捧げる。

 そんな理想の父親だった。


 僕も大人になれば、そうなるべきだと思っていた。

 しかし……意志が弱く、怠け者の僕にとって父の背中は、遠すぎた。


 父は、勉強のできた僕に期待した。

 お前はやればできるやつだと、よく励まされた。


 だがそれ以上に、叱られた。夢で見たように……静かに。


 オーラや空気なんてものは僕が勝手に感じていただけだが、父は不機嫌だと無表情になり、そしてこみ上げる何かを堪えるように、ゆっくりと喋る。

 夢で見たあの光景は、一度だけ、父がテーブルを拳で叩いたときのものだ。


 父は僕にとって、恐怖の象徴だ。


 しかし憎んではいない。

 あの人の家族への愛は、本物だから。



「……動けない」


 まだ手が震えている。

 耳をすませば、父の近く足音が聞こえてきそうだ。


「クソッ、なんでこんな時に点かないんだよ! ……っ」


 ゲームで気を紛らわそうにも、物言わぬ板が手元にあるだけ。

 そしてそれを投げ捨てた音にさえ、肩が震える始末だ。


「誰か、助けて……」


 じわりと滲んだ涙に、視界が歪み――




 ――再び真っ暗な闇に、包まれた。


 ◆

 ◆

 ◆



「――ブッ、ハハハハ! ヤベェ、馬鹿じゃんこれアハハハハ!」


 声変わりが終わってすっかり低くなったのに、未だ少年だと感じさせる明るく幼い笑い声。


 それにつられるように、『僕』も笑っていた。


「アハハハハ!」


 どうやらまた、は『中学生の僕』と同居しているようだ。



 周りに見えるのは、模造紙の貼られたパネルが数枚。

 目の前には、懐かしい焦げ茶の学習机が4つ。

 机の上に乗っているのは『Mad』『Science』と細い筆記体で書かれ、三角に折られた緑の色紙いろがみ


 書いたのは恐らく僕だ。

 中学生のとき、興味本位で習った筆記体が案外ハマって、英語の授業のみならず至る所で筆記体でアルファベットを書いていたのを覚えている。


 マッドサイエンティストという覚えたての耳触りがいい単語を、カッコ良く書きたくなった少年2人が悪ふざけを実行してしまった、といったところか。



 これらは文化祭の展示だろう。

 見た限り、内容は中学で勉強した理科のもの。


 ――理科、か。




「何をやってるんだお前らは!」



 予想通り、クロダ先生がお怒りのご様子で教室に入ってきた。


 クロダ先生が怒鳴るのは珍しかった。

 いつもヘラヘラと笑って頼りない印象だった先生は、生徒にいくら悪口を言われても、叱りすらしなかった。


 中学生の僕と悪友はその珍しい現象に、体を硬直させた。

 大きな声に耐性がなかった『僕』は、ワイシャツの下に冷たい汗を流している。


 先生が怒鳴ったのを見たのは、これが最初で最後だ。



 しばらく説教をした後、未だ怒った様子の先生は僕だけを残し、もう1人は直ぐに帰らせる。

 悪友は申し訳なさそうに僕を見ながらも、すみやかに教室を出ていった。


「ユージ、なぜ俺が怒鳴ったか、分かるか?」


 そうして2人きりになった教室で、緊張していた僕に届いたクロダ先生の声は、とても穏やかなものだった。


「僕が……生徒会だから、ですか?」


 生徒を主導する立場である役員が悪事を働くというのは、常識的に考えればあってはならないことだ。

 考えてもこの答えは模範的なものだったと思う。



 しかし先生は違った。



「お前だから怒ったんだよ、俺は」


 笑顔で――しかしいつもより優しい表情で、先生は言った。


 気に入られている自覚はあった。

 しかしこれまで、それを先生が名言したことは無かった。


「あいつ1人だったら、俺はここまで怒ってないさ」


 言うなれば、この日ついに、クロダ先生は僕のことを贔屓――”特別”扱いしていると宣言したのだ。



 中学生の僕は頭が真っ白になっていたが、は先生を見れている。


 当時、この場での先生の顔は覚えていなかった。記憶になかった。

 しかしは見れている。


(――先生、あなたは教師失格ですよ)



 ”理想の父親”を持つはずの僕は、夕日に照らされるクロダ先生の――皺の目立つ笑顔が、どうしても”父親の顔”にしか見えないのだった。



 ◇

 ◇

 ◇


「……クロダ先生って、確か娘しかいなかったんだっけ」


 またいつの間にか現在に戻っていた僕は、ふと先生の家族を思い出す。


「息子みたいに、思ってたのかな」


 学校の先生としては落第レベルの考えだ。

 生徒1人だけを贔屓し、あまつさえ他所の家の――しかも教え子を、自分の子供のように扱うなんて。


 ……それに救われた当人が、言えたことではないが。



「そう言えば、今回はちゃんと聞けたな」


 今回は微かに記憶に残っていたから、前回のように不意打ちで感極まる、なんてことはなかった。

 そのせいか先生の言葉はハッキリと聞き取れて、キリよく戻ってこれた。


「またあの日に戻れたら、今度はちゃんと聞けるかな」


 そうしたら……僕はまた、救われるのだろうか。



「戻りたい――」


 ――先生に会いたい。


 願いを込めて、祈る。

 強く目を閉じたが――涙の跡が、煩わしかった。









 笑っている。

 再会の嬉しさに。

 将来の明るさに。

 料理の美味しさに。


 面影を残しながらも『逞しく』成長したスーツ姿の男たち。

 幼さをくして、自分を飾り『美しく』なった振袖姿の女たち。


 今日は、成人の日だ。

 そして、式後の夜にあった同窓会。


「久しぶり。今何してるんだい?」

 そんな声が至る所で響く。


 中学生のあのときまだ『子供』だった彼らは、背伸びをやめて、しかし大きくなって――みんなになっている。



 ……『僕』もすでに大人なはずなのに、の僕と変わらないはずなのに、まだは『中学生の僕』と同居していた。


 口は未来を語り、手は酒を握る。

 目は朋輩を見て、足は外を向く。


 心は泣いていた。


(やめてくれ)


 フランスでシェフの修行をしているガキ大将。


(やめてくれ)


 近代都市の設計を語る悪友。


(嫌だ……)


 有名大学で学ぶ親友。


(嫌だ……)


 嘘を話す自分。


(助けて)



 ――人だかりの中に、クロダ先生が見えた。



「お、久しぶり」(先生!)


「今大学でAIの研究しててさ」(僕はここにいます!)


「ああサカイ先生お元気で何よりです」(なんで気づいてくれないんですか!)


 『僕』とが分離する。

 いくつもの壁が現れて、は進めているのに、『口』は壁を向く。


 声が出ない。

 手が伸びない。

 全身を帯で縛り付けられたみたいだ。


 を縛り、暗闇がやってくる。

 何度も、何度も。

 助けてと言うだけなのに、それはどこにも届かない。



『過去は変えられない』

(やめろ!)

『過ぎたことは仕方ない』

(僕は先生に会うんだ!)


 聞こえる声に、声にならない声で叫ぶ。

 しかし、もう目の前には何もなかった。


 ああ、目が覚める……




『常識的に考えろ』


『自分を救うのは結局自分だ』


『自分を変えれば世界は変わるんだ』


       あれ


  この声


     お父さん……?








 否。






強く大人になれよ』


 ――『』と、目が合った。






 ◆  た  嫌   

             ◇

    絶    ◆ す

       ◇   

    ◆   否   け

      ◇ 


      て






 ――僕は過去を追体験できる。それは確定だ。

 でも体験するだけであり、事実を大きく変えることはできない。


 その程度のことは最初の数回で分かった。

 クロダ先生にあの言葉を聞けるなら、問題なかった。

 しかし、現実は非情だった。


 連続で突きつけられる僕の弱さ。

 何度も見せつけられる僕の幼さ。


 クロダ先生と話せない。

 あの言葉は一度だけで。

 ちゃんと話したのは少しだけで。


 その事実を変えることが許されなかった。

 ただ”良い子”の被り物をする『僕』を見ただけだった。

 あの日に戻ることも、できなかった。


 もう無理だ。

 の心が保たない。

 過去なんて見たくない。

 嘘をつき、見栄を張り、母に泣かれ、父に叱られる。


 幼くて弱い『』はずっと変わっていないんだ。

 僕はまだ……子供のままなんだ。




 ふと、明かりの点いたスマートフォンに目がいった。





 過去がダメなら……の先生に会いに行く。

 そう考え帰郷した。


 しかし、実家は中学校にとても近かった。

 両親に見つからずに、先生を探すのは難しい。


「クロダ先生に会いに来た」


 だから、母には隠さず話した。

 大学に通っていないこと。

 暗い部屋にこもり、ずっとゲームだけをしていたこと。

 洗っても消えないほど、体が汚れていること。


 しかし、父が仕事から帰ってきたら、また話そうと言ってきた。

 母は泣いていた。


「……嫌だ」


 父には知られたくない。

 漠然と、そう思った。


「お父さんが、怖い?」

「……知られるのが、怖い。でもなんでかは、分からない」


 母は困った顔で、台所に消えた。





 結局、母は父に話した。

 夜、父が思いつめた顔で、話しかけてきた。


「テーブルで待っていてくれ」


 父は老けていた。

 白髪が増え、肌は張りを失くしてくすんでいた。

 しかし父の空気は、未だ僕にとって重かった。


 夢にも出たテーブルで、家族が集まる。

 黄色い明かりの外は、相変わらず暗かった。


「本当のことを言ってくれ」


 父はそう言った。


「お前のことを応援する。だから、ユージの本当にやりたいことを教えてくれ」



「え……?」

「親に気を使わなくていい。だから本当のことを言ってくれ」


 大学に通いたくなかったのか。

 大学に行こうと思ったのは気遣いだったのか。

 嘘をついたのは親を安心させるためだったのか。


 ――父はかつての僕の願いを『嘘だった』と断じたのだ。


 父は家族を愛している。

 常に僕のやるべきことを示し、僕のやることを支えた。

 道を外れそうなときは静かに叱り、僕の幸せを願っていた。


 父は正しい。

 父の言うことを聞いていれば間違わない。

 だから、それが僕の願いだった。

 幸せになるため、必要なことだった。

 やるべきこと――




 ――僕のやりたいことって、何だ?



 かつて、父は自身のことを語った。

 いずれ持つ家庭のため、そして自分の生きがいのために仕事を選んだ父の話。

 父には見えていたものが、僕には見えていない。


 父からまた、焼けるような熱を感じた。


 僕はまだ、幼子のままだ。

 すっかり背を抜いたはずなのに、父に比べて僕は……とても小さい。


 いくら考えても、結局やりたいことは見つからない。

 安定した家庭を持つと答えても、そのためにやるべきことをやっていない。

 矛盾している、そう返ってきた。


 潰れてしまいそうだ。焼け死んでしまいそうだ。


 分からない……



 ここに救いは、無い。



 答えも出ないまま、僕は中学校に行った。

 クロダ先生が、いるはずはない。

 あれは7年以上前のことで、先生はとっくにいない。


 だがクロダ先生の居場所を調べる気力も時間も、あの家には無い。


 逃げただけだ。

 時間をくれと言っただけで、すでに答えなど出すつもりもなかった。

 言っても無駄だから。



 7年ぶりの学び舎は、砂の校庭のそこら中に桜の花びらが散らされていた。


 校舎に向かうのは、少し怖かった。

 あそこはすでに、僕のいるべき場所ではないから。

 顔も知らない生徒と、僕を覚えていないだろう教師たちの場所だから。


 校庭を大回りして、フェンスの外を歩く。

 緑色の網と、すでに茶色い桜の木に挟まれた小さな道。

 よく、ここには野球部のボールが落ちていた。

 通りがかったとき、拾っていたような気がする。


「……そういえば、誰かと一緒に拾ってたっけ」


 思い出とも言えない小さな記憶。


 横に見たフェンスの先には、正面玄関があった。

 全国大会に出場した女子生徒を讃え、生徒会で巨大な垂れ幕を作ったことがある。

 ちょうど玄関の上――あの、窓も無い壁を埋めるように屋上から垂らしたのだ。


「あんな重いの、誰と飾ったんだっけ……」



 桜の花びらが二枚、目の前を通り過ぎた。


 ふと前を向くと、ジャージ姿の少年が2人、ボールを集めていた。

 太っちょな幼い顔の男の子と、『僕』だ。


 もう一度玄関を見れば、ブレザーの男女が「祝 全国大会進出」と書かれた垂れ幕を下ろしていた。

 真面目そうな背の高い女の子と――『僕』だ。


 また、桜が舞う。


 渡り廊下で先生とプリントを運ぶ少年。


 正門で女子と並んで歩き戸惑う少年。


 壇上で司会する先輩を裏で照らす少年。


 教室で机を合わせて友人に教える少年。


 体育祭で応援する音楽を掛け続ける少年。


 階段で仲間と目を合わせて駆け回る少年。



 ――全部『僕』だ。


 一つ一つ、桜が舞うたび『僕』が見える。

 小さな花びらと一緒に、小さな記憶が蘇る。


 誰かに頼られ、誰かに認められた『僕』がいる。

 思い出すはずもない過去を、は見ている。



 クロダ先生だけだった。

 『僕』を救ったのはクロダ先生だけだった。

 ――忘れなかったのは、クロダ先生だけだった。




 ちらりと、が見えた。

 暗い部屋で、青白い光に照らされるだ。


 乾いた声で……色の無い顔で、笑っている。

 ひとりぼっちで、ベッドに座っている。

 光を消せば、自分の体を見て、手を伸ばす。



 ああ、『』は――








「――お父さん!」



 不意に、幼い声が聞こえた。

 暗い部屋も、桜の道も消えて、僕は大きな公園の中にいた。


 全てが見上げるように大きくて、は恐怖した。

 近づいてくる大きな父が、怖かった。


「あの大っきいさくらはなぁに? 花が咲いてないや」


 幼い『僕』が、ソメイヨシノが満開の公園の中で一つだけ、花が少ししか咲いていない大きな木を指差した。


(あれは――)


「あれは山桜だな」


 父が答えた。

 その声は、とても穏やかだった。


 桜の花が、また舞い始める。

 見えるのは、父との記憶。


 父への恐怖で、圧し潰されていた記憶。

 父の怒りで、焼き尽くされていた記憶。


 頭を撫でられた。

 肩を叩いて褒められた。

 肩車をされて歌った。



 抱えた汚い字のプリントを、父に渡す。

 父は真面目な顔で、赤いペンを手に取った。


 少しの緊張の後、父はプリントに大きな”花丸”を書いた。


「よーし満点だっ。ユージはすごいなあ!」

「やったー!」


 は、父の顔を見た。

 父は、笑っていた。

 その顔は、とても優しくて、まるで――




 ――クロダ先生みたいだった。



 ◇

 ◇

 ◇



 気づけば、ほとんど見覚えのない場所に立っていた。

 周りには、絨毯のように花びらが数え切れないほど落ちていて。


 見上げると、大きな桜の木が僕を見下ろしていた。


「――山桜。こんなところにも、あったんだ」



 山桜は、人によって作られたソメイヨシノと違い、花が咲く時期にブレがある。

 満開の華やかさは無く、木によって花も少し違う。


 それを教えてくれたのが、父だった。

 そのことも、山桜そのもののことも、僕は忘れていた。



 幸せになるため――父に報いるため、必死になっていた。


「この桜が一番綺麗だって、思ってたんだっけ」


 満開のソメイヨシノすら見逃したは、この木の桜が一番か考えることはできない。

 この桜は、あのときの桜とは違うものだから。



 またひとつ、花びらが落ちた。

 目の前には、猫背の冴えないおじさん。


「クロダ先生……」


 にこにこと、でも少しだらしなく笑う先生。

 それに『』は、しっかりと向き合って言うのだった。




「もう、大丈夫です」


 あなただけじゃ、なかったから。




「おう、そうか」


 先生は満足そうに笑みを深めて、薄く消えていった。








 ひらりと、何かが落ちた。


 拾うと、それは一枚のプリントで。

 赤いハンコが押されていた。


 桜の花の形をした、大きなハンコ。

 その中に書いてあるのは――








 ――『よくできました』






 Fin.

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あの救いを、もう一度 倉里小悠 @kurari_koyu

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