跡形
深川夏眠
跡形(あとかた)
春の気配を感じると蘇る記憶がある。学生時代の長く暇な休みに、ふと思い立って一人で遠くへ出かけたこと。
坂の多い港町を気儘に歩き回った。銭湯の女将さんが裏口に集まった猫に食事を振る舞う微笑ましい光景に目を細めつつ、脇へ逸れ、霞に煙る背後の山を時折振り仰いでは更に知らない道へ分け入って、居心地のよさそうな喫茶店を見つけた。
常連の指定席と
桜の香りが仄かに漂う紅茶を前に古書のページを繰っていると、果たせるかな、慌ただしくドアベルを鳴らして現れたのは――予想外に若い、高校生くらいの男子。カウンター越しにマスターに軽く挨拶すると、スタスタとこちらへ
「突然すみませんが、少し、お時間をいただけますか?」
僅かでも年長者として悠揚迫らぬ態度を示すべきだと思い、目色と手振りでどうぞと促した。彼は軽く一礼して向かいの椅子を引くと、小癪にも名刺を差し出して、
「この辺りの商店主から雑用を言い付かっております。早速ですが、お買い上げの書籍について……」
「これ?」
「はい。事前の処置を怠っていた、お売りしたのはミスだった、ついては買い戻したいというのが、古書店の用件です」
「ふぅん」
わざと気のない調子で悠長にティーカップを口に当てたり、ソーサーに戻してはミルクを注いで掻き回したりと、少しばかり焦らしてやった挙げ句、
「いかほど?」
彼は言葉に詰まったが、ちょうどコーヒーが運ばれてきたのを幸い、漆黒の異空間に視線を落として瞑想する気振りを見せたが、ややあって、
「先ほどの代金をそっくりお返しします」
「そいつは野暮だ」
メニューを手に取り、ここで軽い食事と洒落込むのも悪くないと考え、
「追加していいかな。で、会計は全部まとめて、そちら持ち」
「……わかりました」
早速、店員に声をかけ、実は頼みたくてウズウズしていた大人向けお子様ランチをオーダーした。もちろん、新たなドリンク付きで。どちらにとっても損はない、我ながら素晴らしい思いつきであった。
チキンライスを頬張りながら問題の本をズイッと押しやると、彼はしばし呆れた顔をしていたが、黙礼して受け取った。ブラックのままコーヒーを飲み乾し、伝票を摘んで席を立って、もう一度頭を下げてからレジに向かった。
なかなか珍しい、愉快な体験だった。が、のんびり構えてはいられない。名残惜しいが、お別れだ。マスターに会釈して店を出た。急いだのは他でもない、古書店主に遣わされた小僧が慌てて駆け戻る前に脱出する必要があったからだ。
うっかり売り渡した本を取り戻したかったのは、前の持ち主の遺留品に気づきながら回収しそびれたせいだろう。あれは俗に言う「痕跡本」の一種だった。多くの場合、元の所有者による書き込みの
例の本には薄墨で何やら
しかし、帰宅して引っ張り出したトレーシングペーパーから、文字は読み取れなかった。財布に詰め込んだレシートも、使い走りの小僧の名刺も、形はそのままだったが、あるものは印刷が薄れ、擦れ、あるいは最初から白紙だったように、のっぺりと光っているだけだった。
残念だが仕方ない。あちらとこちらでは空気や水の質が違うのかもしれない。もしくは、
【了】
◆ 2020年1月書き下ろし。
◆ 縦書きはRomancer『掌編 -Short Short Stories-』にて
無料でお読みいただけます。
https://romancer.voyager.co.jp/?p=116877&post_type=rmcposts
◆ 雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/wewZwmrX
跡形 深川夏眠 @fukagawanatsumi
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