第9話 鳴星VS旅団長ジャッカスバッカス
『鳴星、乗っ取ったわね。私じゃ勝てないってわけ?』
クラリスが不機嫌に言う。
彫像の長い両腕が、ぎこちなく動き出す。ぎりぎりと首が動いて、クラリスの姿を捕える。
『すまないね。この看守からは竜人の気配がする。それも複数だ。ただの魔人じゃない。
一歩進むごとに、クラリスの形が変化していく。身長は伸び、腕は長くなり、髪も伸びる。顔面はするりと鉛のような液体に覆われ、ややあって鏡のように変じる。
背中が、盛り上がる。種が弾けるように飛び出したのは、蝙蝠のような翼。皮膜は夜色。天の川のような筋がきらきらと光る。
『休んでいて、クラリス。目覚めた時には全て終わらせておくよ』
それを最後に、クラリスの意識が沈んだ。
鳴星は、翼をはためかせて舞い上がる。
『……旅団長、ジャッカスバッカス。魔族の処刑人が、魔族を上回る怪物と成り果てたか』
魔女の鏡の仮面が、無表情の彫像の顔を映し出す。
『鏡よ鏡、そこで笑うのは誰だ?』
それが揺らいで、鏡の中に黒の短髪に、灰色の大きな目をした若い男の姿が映る。
鏡に映ったそれを見、ジャッカスバッカスは体を震わせる。痙攣させた体の、左胸に透けて見える赤い光。
鳴星は、そこに向けてガーガリオンの槍の切っ先を向ける。
ジャッカスバッカスは、その長い腕をくねらせ、鞭のように振るう。腕からはさらに細い触手が飛び出し、幾重にも枝分かれしていく。その数はあまりに多く、鳴星は体を捻り、素早く移動しながらそれを避け、槍を振るう。
再生があまりに早いが、ガーガリオンの槍の破壊力がそれを上回った。
鳴星は、獣のように吠え、容赦なく槍で貫き、叩き砕いて、怪物の肉体を壊していく。
真っ白な壁に、怪物のどす黒い血が飛ぶ。それは礫となって鳴星を背後から攻撃した。ジュッと嫌な音がする。
『黒い水だな』
鳴星は舌打ちし、魔力を展開させる。
そうして現われたのは、巨大な魔法陣。揺らめく炎の輪。それは盾となり、触手やおぞましい黒い水から鳴星を守る。
彼は下を見、瓦礫にいるアリシャの上にもそれを作る。
(後三十秒)
鳴星はガーガリオンの槍をまっすぐ構え、矢のように突き進む。針が彼を突き刺し、傷つけようと、飛翔を止めない。
最後に、ジャッカスバッカスの頭が花開くように割れる。そこから凄まじい熱の光線が飛び出す。それを、鳴星は避けきった。
『――眠れ、人の子よ』
そう告げて、胸を貫く。飛び出した小さな火種を受け止めて、自らの鏡の顔面にぽとりと落とした。
途端、全身に焼け付くような痛みが走った。
目の前がチカチカする。
ぐっと奥歯を噛みしめ、朽ちようとするジャッカスバッカスの首に掛けられた鎖、そこにぶら下がった鞄を引きちぎる。
それを体の内側に抱え込むと、翼をはためかせて地面に舞い降りる。巨体の怪物は崩れ落ちて、砂となった。
鳴星は、まだ気を失わずに目を必死で開いていたアリシャを見下ろす。
彼女は、夜色の瞳をした異形を驚くことなく見つめていた。
「……た、す、けて。お願い」
アリシャは声を絞り出す。
「わたしの、赤ちゃん……いるなら、この子、だけでも。お願い、いたします、【夜】よ……」
その両目から、涙がぽろぽろと零れる。それは彼女の腫れ上がった頬を滑り落ちていく。
『アリシャ・ランサー。高潔なる王の騎士よ。願いには対価が必要だ』
「……命、でも、魂、でも……なんでも差し出します。お願い、助けて、ください」
アリシャの息絶え絶えの懇願に、鳴星はじっと押し黙ったままだった。
『ずいぶんと、【商人】の真似事が身についたようだ』
別の角度から声がかかった。
鳴星は彼の姿を見留め、少しばかり不機嫌そうな声を出す。
『……こんにちは、数鏡』
『ごきげんよう、宵闇の王よ』
漆黒のローブを着た男の体は幽鬼のように透けている。
『遊葉。お前は何とする?』
問われて、もう一体の【商人】が出現する。
『【商人連】は解体した。好きにすれば良いだろう。だが……そうだな、彼女の生命力はとても強い。ハルディアの守護も受けている……ランサー家の娘よ。今のお前ではガーガリオンの槍は扱えない。槍は預かろう。これがお前の命の対価だ』
そして、ガーガリオンの槍が消え失せる。
『ならば、子供の命の対価は私がもらおう。ある御方が有能な戦士を探している。代々アストライアの近衛騎士を輩出してきたランサー家の娘ならば、あの御方も納得するだろう』
数鏡はアリシャの額に枯れ枝のような人差し指を置く。ぽう、と額に契約の印である三角印が浮かぶ。
『任務に集中するため、君からは余計な記憶を省く。お前に拒否権はない、アリシャ・ランサー』
それに対し、アリシャは迷うことなく頷いた。
そんな彼女を鳴星は哀れんで見つめる。だが、とさらに数鏡は言葉を続けた。
『母親だけに子の責任を負わせるのは酷というものだ。父親からも対価を頂こう。どうだ、
問われて、もう一体の【商人】が登場する。試しとその観察を好む商人は、ふむと頷いた。
『ならば、君の夫からも対価を。楽しい観察になりそうだ』
その言葉に、アリシャの顔色がさっと変わったが、彼女が何かを言う前に、鳴星が【商人】の前に立ち塞がる。
『話は済んだか? 彼女を仲間の元へ返す』
そうして、鳴星はアリシャを抱きかかえる。
『――宵闇の王よ』
翼を広げて舞い上がる鳴星を、数鏡が見上げる。
『任務は期限以内に終えられるか? 誰かに情けを掛けている時間など、お前とクラリス・ソルにあるというのか?』
数鏡はフードの下で、クツクツと笑う。
『早くせねば、お前もクラリス・ソルも共倒れだ』
『なら、賭けるかい、数鏡?』
鳴星は低く問う。
『……全てを終えた暁には、お前の首を所望しよう』
鳴星はいつも通りの穏やかな口調でそう告げると、天井の裂け目から外へ出て行った。
――外は雨が降っていた。
屋上に出ると、湿気た空気の中に漂う人間の匂いに気がついた。それを追っていると、行く手に無効化された幽魂兵や、倒れ伏す魔人兵たちが現れた。
巧妙に隠れているが、そこには誰かがいた。
鳴星はアリシャを抱きかかえ、わざと姿を見せる。
すると、たちまち人間たちが武器を構えて現われた。弩の切っ先を、一斉に鳴星に向ける。
『彼女を返す、人の子たちよ』
鳴星は、気絶したアリシャを静かに地面に置いた。傷は塞がっていたが、彼女の顔色はひどく悪い。
飛び出してきた戦士たちが、たちまちアリシャの周りを囲んだ。その輪と鳴星の間に、一人の弩を構えた男が立つ。戦士たちは皆仮面をつけて顔はわからなかった。
『……伝言を頼む。【夜明けの子】からだ』
鳴星は男に向かって長い腕を伸ばして、「あるもの」を差し出す。自分の顔ほどはあろうかという鳴星の掌を、男はおそるおそるのぞき込んだ。
鳴星は告げる。
『親愛なる女王陛下。【黒い鷹】へ、伝えろ』
✧ ✧ ✧
ゆらゆらとした振動に、クラリスはうっすらと目を開けた。
灰色の視界が次第に明瞭になってくる。
『おはよう、クラリス』
「……おはようじゃないわよ」
一角獣のシャネルの背に揺られながら、クラリスはせり上がってきた胃液をぶっ、と吐き出した。
「よくも私を乗っ取ったわね。ひどい気分だわ」
『ごめんね。かなり魔力を消耗しただろうね』
ふぅ、とクラリスはため息をついた。
「……あの、ジャッカスバッカスとかいう奴は何だったの。私じゃ倒せない相手だった? 竜人の気配がするとか言っていたわね?」
『竜人は、魔族でも最強だ。彼らの精霊紋を引きはがし、黒い水を飲んだ人間と合成した……ありえない魔術だ。力が未知数だったから、君の相手をさせたくなかった』
それを聞き、クラリスは顔をしかめた。
精霊紋とは、魔族の体にある特殊な紋様のことだ。魔法学的に言えば、彼らを構成する『公式』とされている。精霊紋は魔力を吸い上げ、また創り出すこともできる。それらに触れられることは魔族にとって敵対行為と見なされる。
だが、同じくその紋様があるとされる人型の【精霊人】と違って、魔族の精霊紋は簡単には傷つかないし、奪うことなど至難の業だった。
「それで? どうだったの、宵闇の王さま?」
『再生能力、魔力、全て今までの魔人の比じゃない。あんなものが大量に作られたなら、全ての種族の脅威だ。至急、対策を考える。クラリス、ポケットの中を』
言われて、クラリスはポケットの中に手を突っ込んだ。小さな箱があって、パカリと開けると印章つきの古びた金の指輪があった。赤い石に、小さな銀の熊が埋め込まれている。
「これ、何?」
『ザハーブ公国のロシュモーネ王家のものだ。その紋は王族を象徴する熊。君の父上のものだよ』
クラリスは、ハッとして指輪を凝視する。
『誕生日おめでとう、クラリス』
その言葉に、クラリスは微笑んで指輪を左手の中指に填める。大きかったそれは魔法で縮こまって、クラリスの指にぴったりとなった。
それと同時、クラリスの白銀の髪が赤銅色へと変化する。彼女はそれを見、楽しげに髪を指先でつまんだ。
『クラリス。僕はしばらく潜る。君も宝物と共にザハーブへ向かえ。聖女と共に西の町へ移動し、魔女の宿で地図を受け取ってくれ』
「仕方ないわね。あなたのために我慢してあげるわ」
指輪を填めた手をぎゅっと胸に抱きしめて、クラリスは答える。
『幸運を。クラリス』
そう告げると、鳴星の通信は途絶えた。
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