第3話 魔女の宿
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十数年前はこんなじゃなかった、と誰もが陰気な顔で言う。
昔、この国は
それが突如として失われ、国は大混乱に陥った。魔族の母たる【奈落の魔女】が復活し、帝国は魔族の軍団と戦うことになった。
長きに渡り病に罹っていた帝国宗主のオリオン・アトラス=サンクトランティッドは、【緑の灯火】と呼ばれる魔人団を率いて、一旦この戦争に終止符を打った。小競り合いは続くが、大規模な争いには発展していない。
王家は魔人団を重用し、彼らは軍部で力を持つようになり、やがて政治の世界に介入した。【緑の灯火】の総帥であるスルーダー・ソルは、将軍として騎士や兵士の頂点に立った。彼は各国に魔人団を派遣し、神殿を破壊し、有能な神官たちを殺した。神殿に身を寄せていた弱者たちは皆追い出された。
人々は、癒しと祈りの場を失い、魔人団に反発するようになった。そんな人々を魔人団は容赦無く処罰した。王家にも魔人に抵抗する者、またおもねる者と反応は分かれた。結果、抵抗した国は見せしめとして魔人団によって滅ぼされた。
だが、宗主オリオンは沈黙していた。帝都アストライアを囲む
混乱の中、国境を侵して蟲が侵入し、霧に乗じて鮫が人々を襲うようになった。
力を失った王家を見限り、反乱軍が生まれた。彼らは宗主オリオンの娘・ライラを御旗に抵抗した。魔族との争いより、こちらの方がもっと凄惨な結果を生むこととなった。
かくて国は分裂し、今に至る。
町は暗く、人相の悪い者たちばかり。反乱軍を狙った賞金稼ぎに、屈強な傭兵。結界の向こうにいた、獣人や異境の民が堂々と歩いている。自治能力を失った町は荒れ果て、建物は崩れ、昼日中の窃盗や喧嘩は日常になっている。
そんな町を、堂々とクラリスは歩いている。
生まれた時からまともな町にいたことは少ない。一生懸命騎士たちによって治安が守られていた所が、蟲や妖魔の襲来により、一日で滅んだのを何度も見てきた。
クラリスはいろんな町を渡り歩いてきたが、ここは比較的ましなほうだ。町を牛耳っているのは相当な悪人らしいが、金を払えば何とかなると聞いている。
冷気が頬をくすぐり、彼女は眉をひそめる。大気が乱れ、帝国の気候は年間通して気温が低く、すぐに雨や雪、雹が降る。急がねば、とクラリスは一角獣のシャネルの手綱を握る手を強めた。町に入る時にシャネルから下り、その背中にはぐるぐる巻きの絨毯。中にはカナリア・ピンキーを包んでいる。女二人旅など、とても危険だ。黒い頭巾を目深に被り、あまり目を合わせないように歩く。
クラリスは長身だが、男に比べればどうしたって小柄だ。今も女だと気付かれて、複数の男が後を追ってきている。
「宿に入るわ、シャネル」
「わかったわ」
シャネルでなく、絨毯の中身が返事する。
「あんたは絨毯よ。喋ってんじゃないわよ」
ぱしりと尻のあたりを叩くと、ふぁい、と間抜けな声がした。
クラリスはめあての高級宿を見つけると、入口に立っていた従業員に金を握らせる。従業員の男は心得て、シャネルの手綱を引いて厩舎の方へ連れて行く。
クラリスは絨毯を肩にのせ、鞄を持つと受付へ向かった。
滞在許可証と通行証を見せないと宿泊できない宿だ。懐からそれを取り出し、前金を払う。
「ようこそ、ミラー様」
そう美しい声で告げたのは、頭部を黒いレースで覆った魔女だ。与えられた鍵を持ち、五階の最も奥の部屋へ向かう。元々貴族の所有していた館らしく、壁にはところどころ家紋が残されていた。
最奥の真っ暗な部屋に入り、クラリスは絨毯を床に転がした。
「クラリス、運んでくれてありがとう。紐をほどいてほしいのだけれど」
もごもごと絨毯が動いた。
「もう少し絨毯でいなさいよ」
ばったんばったんと絨毯の動きが激しくなって、クラリスは紐を解いた。くるくると絨毯が広がって、中から黒髪巻き毛の美女が現われる。ぼんやりした表情でクラリスを見上げた。
「……おトイレ」
「廊下にあるわ」
「ついてきて、クラリス」
小鳥のように小首を傾げるのがクセなのか、彼女は目を潤ませてクラリスの袖をつかんだ。
「ここは安全よ。魔女の宿だから、どんな殺人鬼も身動きが取れないわ」
半眼になって、カナリアを見下ろす。男なら胸を打たれる愛らしさも、クラリスは女だ。
「そうなの? じゃあ大丈夫。大丈夫ね……」
呟きながら、カナリアは部屋を慌てて出て行った。
それを、クラリスは扉をほんの少し開けて、トイレまで辿り着くか見送る。
途中、廊下にいた男がカナリアを見て何か声を掛けようとした。好色そうな顔で、彼女の後を追おうとする。
「その女に話しかけないで。爆発したいの」
クラリスがドスの利いた声で怒鳴ると、男は驚いて部屋に戻っていった。
彼女はそう言った後で、なぜここで自分は待っているのだろうと疑問に思った。
ややあって、カナリアはちょこちょこと戻ってきた。
「扉を開けて待っていてくれたのね。こんなに部屋があるからわかるかどうか」
「さっさと入りなさいよ」
よく動く口だわ、とクラリスは呆れた。
なおも話したそうな彼女を置いて、部屋に備えられたシャワールームに入った。魔女の宿だけあって、ちゃんとあたたかいお湯が出た。
自分が怪我をしていたわけではないが、黒いものが流れ落ちていく。それは薄まると赤くなった。
「……鳴星」
『お疲れ様、クラリス』
「そうよ。とてもお疲れよ」
掌で顔をこする。その手の甲に傷が浮かび上がる。それだけではなく、体中に。剣、矢、ありとあらゆる武器でつけられた傷だ。お湯に触れると、熱を帯びて赤くなった。
過去の傷はもう痛くはない。【商人】との契約のおかげで、彼女の体は何度でも再生する。たとえ、首、手足が切り離されても。弱点など、ないはずだった。
『クラリス。君の心臓は順調に動いている?』
「……まぁね」
壁のタイルに手をつく。頭からお湯を浴びて、髪にこびりついた汚れを取った。
『……【戦火】を呑んだはずだけど、うまくいっていない?』
「いいえ。順調よ。順調」
クラリスは自分に言い聞かせる。
生まれてすぐに、止まるはずだった心臓。
クラリスは母の胎内にいる時に、【商人連】に引き渡された。
人外組織、【商人連】。かつては王家と契約し、戦士の派遣や魔法具などの取引、また特殊な契約により人々に恩恵を与えていた。今は王家との契約を終え、闇に潜んで活動している。【商人連】は、【緑の灯火】にも目の敵にされていた。
クラリスは生まれる前から組織のもので、成長してからは所属する【商品】として依頼をこなしながら生きている。
彼女の心臓はある魔法で作られた箱。動き続けるには、力の源たる【戦火】を呑み続けなければならない。
だが、その箱にも限界がある。
合計、九つの【戦火】までしか箱は受け入れられない。それ以上は破損する。
『あと一年以内に、四つの【戦火】を呑まなければならない、クラリス』
相棒の鳴星は、その箱の破壊こそを望んでいる。鳴星は相棒であり、依頼主でもあった。クラリスは九つの【戦火】を得た暁には、報償としてその望みを叶えることができるのだ。
『君ならできる。クラリス。一緒に願いを叶えよう』
「そうね。あんたは恋人と再会して、私はママのいる楽園に行くわ」
その目つきが鋭くなる。きゅっと栓を閉めて、裸のままシャワールームから出た。タオルをつかむと、体をさっと拭いて寝間着を羽織る。ベッドに近づくと、そこには大の字でぷぅぷぅ寝息を立てる眠るカナリアがいた。
クラリスは、しばし無言でそれを見ていた。
「なんて図々しい女。危機感はないわけ? どこのお姫様よ」
少し声が大きかったか、ふーんとカナリアが夢の中で返事した。
「なんなの、まったく」
小声で呟き、クラリスはカナリアを奥へ押しやると、無理矢理ベッドに入り込んだ。毛布を被り目を閉じると、寝返りを打ったカナリアの手がべちんと彼女の後頭部に当たる。
(……寝にくい)
下手に動くとカナリアがベッドから落ちそうだ。
(なぜこの初対面の女を気にしないといけないの?)
頭の中でクラリスはぶつぶつ文句を垂れた。悶々としている間に、さぁっと毛布が奪われていった。クラリスは目を剥いた。
『眠れないの、クラリス』
相棒が話しかけてくる。
「……そうね。眠たいはずなのだけど。歌ってよ、鳴星」
『いいよ。クラリス、君が望むなら』
そうすると、イヤーカフから笛の音のような、心地よい歌声が聞こえる。その歌声は、クラリスに見たことのないはずの景色を思い浮かび上がらせる。
天高い場所にある白い月。その下に広がる、照らされた青い山々。涼やかに吹き抜ける風。
その山で、相棒の青年が歌っているのを想像する。
『……おやすみ、クラリス』
すぅすぅと寝息を立て、いつの間にかクラリスは眠っていた。
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