第7話 副将軍の娘
アリシャ・ランサーにとって、その日は運命の日になった。彼女は反乱軍の一人だった。結婚し、夫と抱き合って家を出た。彼女は反乱軍のロジャー兵団、そこに属する隊長だった。
彼女の自慢はその肉体だった。持久力があり、何時間と戦えた。
だが、そんな彼女もこの壁は辛かった。
アリシャは、『宝物』が運び込まれたという魔人団の施設へ侵入する任務を負った。魔術は使えず、壁をよじ登ることとなった。仲間の指示に従い、二本の短刀を安全とされる壁に食い込ませて、自分の肉体だけを信じて壁を上る。
後ろは振り返ってはいけない。振り返ったら気が抜けて、落ちるのが目に見えている。
だから、アリシャは前だけを進む。
(霧のせいで手が滑りそうだ)
配給された手袋のおかげで、それは免れている。また、魔法紋のおかげでほんの少し休憩すれば回復する。しかし、どれだけ上っても頂上がなかなか見えてこない。気を強く持たねばと、必死で這い上がる。
日差しが彼女を照らし、最果てがようやく見えた時。彼女の周囲を霧が漂い始めた。霧の合間から、その影が見え隠れする。
(霧鮫だ!)
アリシャは不穏な気配に気付いた。彼女の目の前にはすぐ頂上が見えている。アリシャは唸りながら、壁を上る。その途中、短刀が手から外れ、彼女は片手で縁をつかんだ。
「……クソッ!」
鮫の牙が届く――。
アリシャは身をすくめた。頭上で、ガンガンガンッと矢を撃つ音が聞こえた。見れば、霧鮫の鼻先に何本も矢が突き刺さっている。霧鮫は落ちていった。
縁につかまったままそれを呆然と見ていると、襟首をつかまれ引き上げられた。
「あなた、何してるの?」
アリシャは気がつけば地面に立っていた。目の前には見たことのない少女が立っている。
白い、雪のような髪がさらりと揺れる。その下の緑の瞳。一瞬、誰かに似ていると思ったが、よく見れば違う。
(大体、この子は女の子じゃないか)
アリシャの知っている『誰か』は、魔人団総帥の弟スカラー・ソルだった。かつて彼女と彼女の母を人質に取った陰険な男だ。彼の隊を幾つも全滅させてきたアリシャを、彼が助けるはずがない。
「あぁ、助けてくれてありがとう。私はアリシャ・ランサー。まさか、君は魔人じゃないよな?」
アリシャは、全身武装する少女に半笑いで問いかける。装備が全て一級品なのは、戦士であるアリシャはすぐにわかった。
「違うけど。あなた素人?」
「え?」
「万が一あなたの一部でも地面に落ちていたら防壁が反応するとこだったじゃない。やめてよね。苦労して上ったのに」
「え……あ、そう、だね……悪かったな」
思わず謝り、小首傾げて彼女を見る。
(別働隊の子かな? うちの軍では見なかった顔だ)
すたすた歩き始めた少女の後を、慌てて追いかける。
「待って。一人じゃ危ない。仲間と合流しないと……それと、君の名は?」
「私はクラリス・ミラー。私は単体で活動する兵士なの。聞かされてない?」
もっともらしく少女――クラリスは言うが、アリシャは訝しげに眉間に皺を寄せる。
「そんなことは聞いてない。大体、子供をこの作戦に加えるなんてとんでもないことだ」
まじめな顔でアリシャは言う。
それを無視してクラリスが歩いていると、アリシャが怖い顔で追ってきてその肩をつかんで物陰に下がる。
そのすぐ側を、がらんどうの兵士――幽魂兵が通り過ぎていく。ゆっくりとした動きだが、音に敏感で、気配に気付くと猛然と追いかけてくる。
忍び寄ってきた霧にその影が消えるまで、息を潜める。クラリスは、自分の背中を守るようにしゃがむアリシャを見つめる。
(変なの。始めて会うのに)
少女――クラリスは、アリシャの背中にある巨大な槍から強力な魔力を感じ、クラリスは視線をそちらに向ける。
浅黒い肌に、彼女の青い瞳はよく似合う。黒い髪はきつく結い上げている。身に纏うのは黒い体に沿った衣装だ。
「お姉さん、良い武器を持っているのね」
「そうだろ? 父の形見だ」
ようやく隣に並び、アリシャはクラリスを見下ろす。その顔を見、やはり子供だと思う。
「お父さん死んだの?」
「そうだよ。この土地でね。そうだな、その頃なら君は赤ちゃんか……昔のことなんて知らないだろうな」
「赤ちゃんだった頃なんてないわ。私は生まれた時からこの姿よ」
「え?」
妙なことを言う子だ、とアリシャは目を見開いた。
『アリー、侵入した?』
耳の奥に入れた通信機から声がし、アリシャは「あぁ」と返事する。
『……宝物は中央に移動した。旅団長のところだ』
「それはまずいな」
アリシャは小さく呟く。
「二班は私と第二転移門で合流し、旅団長の元へ。三班は逃走ルートを確保。私と二班で宝物を奪取する」
『わかった。気をつけて、アリー。……愛しているよ』
「……私も」
ふっと笑って、アリシャは一瞬甘い顔をする。だが、すぐに切り替えて戦士の顔でクラリスを見る。
「よし、クラリス。君も立派な武器を持っているようだ。二人で『宝物』を奪還しよう」
そう言って、アリシャはクラリスを立たせる。
「私は単独行動って言ったはずだけど」
「そんな危ないことをさせられない。二人で仲間と合流するんだ。私が先導する」
帰ったら君の上官に一言言ってやるからなと力強くアリシャは言い、迷いなく進んでいく。
侵入に慣れ、恐れない様子に彼女が場慣れした戦士だとクラリスは思う。弩を構え、後方支援の姿勢を取る。
しかし、クラリスが手を貸さずとも、彼女は兵士を一人でどんどん倒してく。それは速やかで、無駄がない。誰かが誘導しているようだが、道も完璧に頭に叩き込んでいるらしかった。たまにクラリスを振り返り、うむと笑った。完全に子供扱いしている。
「うーん、これって減点対象?」
クラリスは呟く。
危険な任務であればある程、クラリスに対する【商人連】の報償は大きくなる。隠れている間の生活水準ですら変わってくるから、クラリスはどうしたものかと思う。
「……鳴星、このひとって何者?」
アリシャに聞こえぬように問う。
『アリシャ・ランサー。帝国の前副将軍、ウェールス・ランサーの娘。父はグラナート奪還作戦で死亡。母と共に城で人質となっていたが、逃走し保護された。今では反乱軍の有能な戦士の一人だ』
ふーん、とクラリスは鍛えられたアリシャの背中を見る。クラリスより頭二つ大きく長身で、筋肉をまとった恵まれた肢体をしている。
(でも、私をあっさり反乱軍だと思うなんて間抜けだわ)
クラリスは静かに彼女の背中に弩の切っ先を向ける。
(顔を見られた。いざとなれば始末する)
思いながら、刃の方向を変えて兵士を撃ち抜く。
「数が増えてきたな。侵入に気付かれたか……?」
アリシャは段々と狭くなってきた通路に、少しばかり不安を滲ませる。隠れる場所が無いし、挟み撃ちに遭えばひとたまりも無かった。
でも、道は間違えてはいなかった。扉に刻まれた仲間にだけわかる印に気付き、素早くそこに入る。
埃っぽい倉庫で、石造りの壁に空いた窓から涼しい風が吹き込んでいた。紙をめくるぱらぱらと言う音がして、床を枯葉が這っていく。そこには赤い絨毯が敷かれていた。それをアリシャはめくり、床に描かれた三角が二重に重なった魔法陣を見つけて頷いた。
「転移の魔法陣だ。これで第三壁まで入る」
「えぇ……ちょっと、あなた楽をしすぎじゃない?」
クラリスは不満そうな顔を上げる。
「何を言う。仲間が苦労して刻んだものだ。指輪は持っているな? さぁ、おいで」
そして、アリシャは自らの右手の中指にある銀の指輪を見せる。飾りは【黒い鷹】を刻む。
「持っていないわよ」
「え? まさか、なくしたのか?」
「最初から持っていないわ。……行くなら一人で行くことね」
言うなり、クラリスはアリシャを陣の中に押し倒す。
その瞬間、扉が開かれた。一斉に雪崩れ込んできたのは幽魂兵。
体が光の粒へと変化していくアリシャは、陣の中で驚愕の表情を浮かべてその姿を消した。
クラリスは振り返り、にやりと笑う。頬に垂れた髪を耳に掛けると、彼女の顔はつるりとした鏡の仮面に覆われる。
最初の兵士を連続で矢を発射して倒す。背中から剣を抜いて、両手に握りしめ、両側から迫った兵士の首を貫いた。
素早く引き抜くと、クラリスはそのまま背後の窓へと後退し、縁に腰掛けると背中を反らして落ちた。
霧の中、彼女は窓から身を乗り出す兵士に向かって舌を出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます