あなたの声だけが、最後に聴こえた。
肥前ロンズ
第1話
声。姿。肌。舌。匂い。
人は、声から記憶を忘れてしまうらしい。
それは、魂になった今も、当てはまるようで。
白い雲の上を、どれだけ歩いたか、わからない。
ただひたすら、地となる雲と、青い空しかない空間。幼稚園にいたころ、クレヨンででたらめに描いた空の上を、私は天使と共に歩いた。
何の音もない。風の音も、鳥の声も、車のような音も。
ただ、私と天使の声だけが聴こえる。
「良い人生でしたか?」
わたしの右隣で、天使がそう言う。
私が思う天使は、羽があって、頭の上にわっかがあって、白い服を着ていると思っていたけれど。
今目の前にいる天使は、黒いスーツの、三十代ぐらいの人。黒い髪で、黒い目。どこにでもいそうな、日本のサラリーマンかOLと言う感じ。男性か女性かはわからない。どちらにも見える。身長は私よりも高く、体格も肩幅はあるが華奢の様にも見えた。
うーん。神聖さがこれっぽっちもない。これはあれか。信仰心皆無な日本人ゆえか。
それでも私は、ありがたいことに天国に行けるらしい。
「良い人生って言えるかどうかはわかんないけど。まあ、ほどほどに?」
友もいて、恋人もいて、良い人生だっただろう。
恋人は死ぬ前に別れたけど。
「それは良かった。何度も自殺未遂を図っていたあなたが、そう言えるのなら」
「……後悔は、色々あるけどね」
そう。色々。
私の聴こえる音は、人とは違うようだった。
私の嗅ぐ匂いは、人とは違うようだった。
私の見えるものは、人とは違うようだった。
私の感じるものは、人とは違うようだった。
私の舌は、人とは違うようだった。
例えば、先生が喋っている時に、教室の後ろで誰かがひそひそと喋っていると、先生の声が聞き取れない、とか。
バスや教室にいると、シートや室内の空気に馴染んでしまった柔軟剤や制汗剤の匂いでせき込む、とか。
あまり字を詰めすぎて書かれると、漢字を一字一字認識できない、とか。
皆が可愛いと思う化粧やポリエステルの服は、肌がかゆくなって使えない、とか。
皆好きだと思って、皆で食べるお好み焼きやサラダにかけられたマヨネーズを口に含むと、吐き気がこみあげてくるとか。
人とは一緒にできないことが、人並み以上にあったと思う。
そしてそれは、家族や、同級生には理解されなかった。
「授業が聴こえないから静かにしてって言っても、『真面目ぶってる』って言われていじめられて。
気分が悪くなるから柔軟剤使うのやめてって母さんに言っても、『お母さんの楽しみを奪う気なの』『この恥知らず』って言われて。
もう少し字間を離してプリントしてって先生に言ったら、『視力が悪いなら眼鏡をかけなさい』『障碍者でもないくせに』って言われて。
化粧したくない、スカート着たくないって言ったら、『もっと女の子らしくしなさい』『社会人のエチケットだ』って言われて。
最後はあれね。意地でも飲み会とか行かないようにしてたら、ハブられてた。まあ、それでよかったんだけどさ。好き嫌いは良くないっては思ってたし。好きな人は、ケチつけられたって思うだろうしって」
「嫌なこと、覚えているんですね」
天使が微笑んだ。「こんなにも、長い距離を歩いてきたと言うのに」
私は薄く笑う。それはそうだろう。
忘れられたことは多いだろう。けれど、この出来事だけは、忘れられない。
これが私の人生だ。
この感覚は私にしか理解できず、また、他人とは違うことを嫌と言うほど突きつけられた、そのサンプルなのだから。
「……時間は、関係ないよ。
だって、小さい頃の思い出は思い出せても、一昨昨日の晩御飯を思い出せる人はそういないだろう。思い出は、時間通りに思い出せるものじゃない」
だから苦しめられた。
辛い塩水のような出来事も、大したことではないと思って、思い込んで、その場で記憶の壺に押し込んで蓋を必死にしても、その後、ちょびっとの石が壺に入り込んで、わっと蓋を押し上げて溢れかえってしまう。そうなったらもう、止められない。
時間が経てば治る傷もあれば、時間が経つことで倦む傷もあった。
「障害者だって言ってくれたら、どれほど良かっただろう。そのレッテルだけで、誰かが対処してくれるなら。
何度も言われた。『病院の診断書があるなら、対応してやる』って。
でも鼻も耳も目も、どんなに検査しても異常はないって言われて。だから誰も、助けてくれない。
『こだわりが強いからだ』『そんなもの、捨てればいい』『我慢できないだけ』と何度も言われて。
その度に、全身刻まれる思いだった。
目の前にいる、たった一人に言われただけで、この世界の誰もが、私に対して言っているんだって思った」
お前の居場所は、ここにはないと。
このまま生きていても、良いことないよって。
だから、何度も自殺を図った。
結果的に全部、失敗したけど。
「……何度も死のうとしても、どうしても止められてしまった。
なんかこう、魂が抜けた頃に、何時も声がするの。『まだ死ぬな』って。『生きていて欲しい』って。
目を醒ました時、その声が低かったのか高かったのか、男だったか女だったか、子どもだったのか大人だったのか、さっぱり思い出せないけれど。何時も、同じ声だったことだけを覚えている」
私はそう言って、足を止める。
同時に、右隣にいた天使も足を止めた。
少し背の高い天使の顔を見上げた。
今私は、どんな顔をしているんだろう。
天使に、こんな寂しそうな顔をさせるほど、悲しい顔をしているだろうか。
「……もう、大丈夫だよ。十分に生きた」
「後悔はあるって、言ったじゃないか」
天使は言う。けれど、私は首を振った。
「あの時ああすればよかったって思うこともあったけど、楽しく生きられた」
色んな人に会えた。悪い人も、良い人も。
人生は良いものだと期待した瞬間に裏切られ、死ぬほど落ち込み、もう人を信じないと何度もあったけど。
「良い人たちが、私と違うことを考えていることは、恐怖ではないことを知った。それだけで、私の孤独に価値はあった。悪くなかったよ」
だからもう、大丈夫だ、と私は言う。
「もう、ここから先は、一人で大丈夫」
そう言うと、天使は、
癇癪を起そうとする寸前の子どものようなしわくちゃな顔で、
それでいて儚げに病室の窓際で笑う少女のように、
私の頬を一瞬撫でて、そして、気づけば消えていた。
そこには、ふわふわの雲と、でたらめに塗ったクレヨンの青しかなく。
私は迷いなく前を向き、後ろを振り向かず歩き始める。
一歩、二歩、三歩。
十歩目あたりから、今までの人生の大体のことを忘れて、
十五歩目から、先ほどいた天使がどのような姿だったのかも忘れた。
顔を上げると、七色の虹が、目の前に掛かっている。
私は虹の橋に、足を踏み入れた。
カラフルなのに、下の雲が透けて見える橋は硬く、ガラスのような感覚だった。
そう。あなたの声は、忘れてしまった。
それでも、最後まで聴こえたのは、あなたの声だった。
あなたの声だけが、最後に聴こえた。 肥前ロンズ @misora2222
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