南の空の下のベル・ボトム・ブルース(後)

 観光客相手のトローリング船は客を乗せる朝に仕事を始めて、だいたい昼過ぎに仕事が終わる。

 インドネシア人は平均的に陽気で貧乏で気のいい連中が多くて、そのたいていは真面目さに欠ける傾向がある。南国に住んでいる人間は持っている勤勉さを年中うだる陽気で全部溶かしてしまうのだ。日本人の俺は比較的に真面目ということになるらしい。外国から来る観光客――ゾンビ・ファンガス胞子汚染に世界の半分が浸食されたこのご時世でも、悠々と海外旅行ができるような金持ちどもに黒神武雄船長は受けが良かった。ぎこちない発音の英語と、低姿勢と、愛想笑いと、時間厳守。これだけで高く評価されるのだから、まあ、気楽なものだ。それに俺は船へ乗せた客を絶対坊主で帰さないことにしている。船着き場に船を戻した時点で客が坊主に終わったらチャーター料はすべて返金だ。この営業方針はすこぶる評判が良くて、今のところ俺は同業者より割高の料金を請求しても客に困らない。

 もちろん、観光の仲介業者へ申し込んで、俺の仕事を宣伝してもらっている。しかし、結局のところ顧客の――富裕層の口コミが一番強いのだ。金持ちというのは総じて他人への――特別、貧乏人への猜疑心が強い。保身第一主義の彼らは横の繋がりから入ってくる情報を重要視する。だからこの商売を始めた当初の俺はひたすら金持ちどもから損を買い取って信用を売り続けた。できる限りの余力をみせつつ――生活の余裕を見せつつだ。「私はあなた達と同じ品のいい人間ですよ」と俺は観光客へアピールを続けたわけだ。正直なところ、それはただのやせ我慢だったのだけど――。

 そうこうして今に至る。

 バリ島のデンパサール界隈では、なかなか評判のいいトローリング船の船長になった俺のスケジュールは向こう半年分が仕事の予約で埋まっている。リピーターだって多いのだ。アメリカやまだ胞子汚染が進んでいないヨーロッパ西部から来る観光客相手には船上で俺がする汚染列島の思い出話が大受けだった。

 まあ「今の俺は悪事に手を染めるほど生活に困っていないのだよ」という話をしている。

 白いトローリング船を船着き場へ寄せると、大きな黒いセダンが停まっているのが見えた。俺のトローリング船にあった怪しい積み荷を降ろしたのは、その黒いセダンを運転してきた黒服の二人組だった。

「――あんなに馬鹿でかい四ツ輪を使うと、道が狭いバリ島では歩くより遅くなるぜ。金と時間の無駄だよな?」

 甲板へ出た俺が声を出さずに笑うと、近くにいた聖空と愛空が「きゃっきゃっ!」と笑い声を上げた。

「おーい、宇都ウドそれに那波ナパなァ! 甲板にあるクーラーボックスも持ってきたブツと一緒に車へ積み込んでくれやァ!」

 俺の横で小池大佐が大声を上げた。

 あの黒服の男たちは宇都に那波という名前らしい。

 ああ、あの宇都のほうは昔に見た顔かも知れないな――。

「おーい、君はあのときの宇都君なのか?」

 俺は甲板の上から手を振ってみた。黒いセダンへ荷を積み込んでいた宇都君が振り返ってサングラスを額へ上げた。やっぱりその彼は名古屋の胡蝶蘭で見たあの宇都君だ。俺に気づいたらしい。宇都君も両手を振り返してくれた。彼はサングラスをつけていたし、俺のほうは汚染列島にいた頃より陽に焼けている。それで、お互い気づかなかったようだ。

 宇都君と那波君の荷下ろしを甲板から眺めていると、黒光りするバイクを引っ張ってきた少年が、

「クロカミ、オカエリ!」

 と、桟橋から呼びかけた。

 上向いた浅黒い顔にある歯が真っ白だった。

「やあ、戻ったよ、スピ」

 俺は船のタラップを降りながら笑顔を返した。今日は平日でまだ陽も高いのだが、バリの小学校は午前中で授業が終わる。この少年――スピ君はこの船着き場を管理している夫婦の息子で学校が終わるとここの仕事を手伝っている。

 まあ、感心な少年だよね――。

「クロカミノフネ、シゴト、オワリカ?」

 スピ君が日本語で訊いた。すごく賢い子のスピ君は片言で何ヶ国語も操れる。幼い頃から各国の観光客を相手にしていたので自然と覚えたらしい。

「うん、船の掃除と整備をまた頼む」

 俺が言うと、

「ワカタ、イツモドオリ、コノオレサマニ、マッカセトケ!」

 バイク置いてスピ君は道具置き場の小屋へ走っていった。スピ君は賢くて力持ちだ。文武両道の少年なのだ。俺が船着き場に戻るとスピ君は大人でも引いて動かすのが辛く感じる俺の愛車をどうにかこうにか桟橋まで持ってきてくれる。

 あんな痩せっぽちの少年のどこに、そんなパワーがあるのか知らん。

 俺はサドルに手を置いて少し笑った。

 小屋に預けてあったから、サドルはまだ太陽に焼けていない。

 表に出しておくとあっという間に盗まれてしまうからね――。

「わあ、黒神、黒神!」

「黒神さん、すごくかっこいいバイクだね」

 船から降りてきた愛空と聖空が華やいだ。

「うん、こいつの愛称はファット・ボーイふとっちょ。何年式かは知らない」

 俺は言った。俺のバイクのエンジンの始動方式はセルスターターだから、そう古い年式のものではないと思う。その昔のハーレーは足でズドンとレバーを下げる、キックスターター方式でエンジンを始動させるものがほとんどだった筈だ。

「黒神ィ、金持ちってのはなァ、四つ輪っかがついた乗り物に必ず乗るんだよォ。オートバイってのは貧乏人の乗り物だぜェ?」

 ニタニタ笑う声で言ったのは小池大佐だ。

「馬鹿抜かせ。あんたの呼んだヤクザのポンコツハイヤーよりも、俺のバイクはずっと値段が高いぜ?」

 俺は鼻を鳴らしてやった。

 小池大佐が俺のバイクの各部にあるパーツを拳で軽く叩いて、

「――ふぅん、これは本物のハーレー・ダビットソンだよなァ?」

 ハーレー乗りは鉄でできた重いパーツを好む。だから、愛車につけるカスタム・パーツを選ぶとき、拳でコンコンやって合成樹脂でできたものでないことを確かめるひともいる。小池大佐が確認した通りだった。俺の愛車は一五〇〇cc近くある排気量の空冷二気筒エンジンを心臓に持つ黒金くろがねの暴れ馬だ。

「あの貧乏とケチが自慢だった黒神武雄が、こうまで高級な趣味のオートバイを自腹で購入したのか。今のお前はそんなに金を儲けているのかァ?」

 小池大佐が俺を見上げた。

 ものすごく怪訝な顔つきだ。

「ああ、いや、自分でこんな高い買い物はしない。これは貰いものだよ」

 俺は平坦な声で言った。

「ほォ、女にでも貢がせたのかァ?」

 小池大佐がゲジッとした眉根を寄せた。

「えっ――」

「黒神さん、最低っ――」

 反応が早い愛空と聖空だ。

「あのね、聖空、愛空、それは違うから」

 俺は平坦な声のまま言った。

「言ったら、サダさんがくれたんだ。俺は乗っているうちに壊れたスクーターの代わりを希望したんだけどさ。自宅に届いたのはこんなにも厳ついバイクだったよ。ほら、どいつもこいつも見栄坊だろ、ヤクザって生き物は――」

「――あーあァ!」

 小池大佐が目を丸くした顔を俺へ向けた。

「何だよ?」

 俺は唸った。

「黒神武雄は、あのドヤクザから――サダから無料ただでモノをもらっちまったかァ。それは下手を打ったなァ――」

 ニタァと笑った小池大佐だ。

「だからな。俺のほうがサダさんに頼んだのは適当な中古のスクーターだったの。小さい排気量のエンジンは燃費もいいから――まあ、それはいいんだよ。結果的にはそうだよな。結局、今回だってサダさんの頼み事を断り切れずに、あんたみたいにキナ臭いのを、俺の大事なトローリング船へ乗せる羽目になった――」

 俺は顔をしかめて見せたが、

「ま、黒神ィ、俺はそろそろ行くぜェ――」

 小池大佐はそれを見ずに背を向けた。

 下品なアロハ柄で飾られた男の分厚い背中だ。

「ああ、とっとと行っちまえ。二度とここへは来るなよ」

 俺はその背をせせら笑った。

「またね、黒神!」

「またね、黒神さん!」

 俺の首にその細腕を絡ませてだ。

 聖空と愛空が「ちゅっ、ちゅっ!」と俺の両頬へキスをしてくれた。

「狸はもういらんが、聖空と愛空はまた俺のところへ遊びに来なよ。いつだって歓迎するからね」

 俺は満面の笑顔で(たぶん、だらしのない笑顔だったと思う)言った。

「うん、黒神!」

「そうするね、黒神さん!」

 きゃらきゃらっと宝石のように笑いながら、愛空と聖空とは主人の背を追っていった。

 うーん、やっぱり、アブラ狸には惜しいよね。

 あの褐色肌の美少女姉妹を持って帰りてェな――。

 俺がそんなことを考えながら、その場で三人の背を見送っていると、背中越しに横顔を見せた小池大佐が、

「――じゃあ、黒神、またな」

 口の動きでかろうじてわかった。

 そのくらい俺から離れてからだった。

「――ああ、またな」

 頷いて見せた俺も聞こえないていどの声で言った。

 小池大佐が聖空と愛空と一緒に乗り込むと黒いセダンはのろのろと走り去った。 

 またすぐ奴と再会しそうな気がする。

 これが今生の別れになるような気もしていた。

 さて、そのどちらなのかな――。

「――それでも、俺はあんたに『元気でやれよ』とは言いたくないね」

 迷った俺は視線を落として呟いた。

 今から一年前だ。

 汚染列島を脱出して以来、今日まで奴は――小池幾太郎は、俺達の前へ姿を現さなかった。

 天使の放った天雷があの怪物――御影洋一をこの世界から退去させてすぐだ。大門寺組の――サダさんの手引きで中国支配地域の神戸港から定期連絡船に乗った俺たちは、元は台湾、今は中国の首都になった台北へ無事たどり着いた。そこでまた俺たちはゾンビ・ファンガス・パンデミックに巻き込まれて、NPCを相手に銃をぶっ放す毎日を過ごした後、「これは台北も胞子でだめになりそうだ」そんな判断で脱出した先のフィリピンで、ヤクザ組織同士の抗争に巻き込まれて(これはだいたい、サダさんが悪い)てんやわんやした。そこでまあ大っぴらに言えないような仕事をしているうちに、そのフィリピンでも生活をすることが難しくなった俺たちはシンガポールへ飛んだ。すると今度はそこでアメリカやロシアの諜報機関に追い回された。俺たちにはそんな物騒な連中から追い回される心当たりがなかった。しかし、俺たちの移動を手助けしてくれるサダさんのほうで色々あった。その色々に嫌気がさした俺たちはまた高飛びを決意して、東南アジアの方々を転々とした挙句、最終的にこの赤道下にある観光島――インドネシアのバリ島まで流れついた。これが今から半年前のことだ。

 インドネシアには現地のマフィアがいない。その代わりに公務員が――軍人だの、警官だの、政治家だのが悪党を担当をしている。簡単に言うとインドネシアは汚職がひどいのだ。その彼ら向けの高級売春BAR――胡蝶蘭をインドネシアで経営をしているサダさんは悪い公務員連中と仲がいい。詳しい話を聞くと、どうもバリ島の界隈はだいぶ前からサダさんの――大門寺組の庭先扱いになっているらしい。元からサダさんというヤクザは汚染列島よりも東南アジアの方へ重心を置いて活動していたのだ。道理で汚染列島の胡蝶蘭にいた従業員は無国籍風味だったわけだよね。

 このバリ島に来た後は、面倒な奴らが外から追っかけてくることもなくなった。ここまで俺達を散々悩ませたゾンビ・ファンガスも追ってこなかった。最近の研究で判明した。気温三十度を超えるとゾンビ・ファンガスの傘は開き辛くなる性質がある。だから、赤道直下までくると大気へ飛散する胞子はほとんどなくなるのだ。ゾンビ・ファンガス・パンデミックは年中気温が高いバリ島で起こり辛い。たまには港でNPC発生騒ぎが起こるのだが、それが大きな範囲まで拡散することもない。この気候に加えて、インドネシアは諸島国家だから、自然の海が胞子感染の防壁にもなっている。北半球へ広がり続ける胞子汚染地帯に比べると、ここは楽園と言っても差し支えないと思う。

 だから、インドネシアには――特別、元から観光地として栄えていたバリ島へは、今でも世界各地から富裕層の観光客や移住者が集まってくる――。

「――それでも一応、いつもの確認をしますよと」

 呟いた俺はバイクの革の荷物入れから胞子・放射線観測機を出してスイッチを入れた。警告音は鳴らさなかった。俺は今でも観測機と感染者テスタを持ち歩いている。小心者の心得だ。荷物入れなかには耐胞子スポーツタマスクだって二つつ常備してある。ゾンビ・ファンガス除菌剤のスプレー缶も何個か入っている。あとは三五七マグナム弾をセットしたスピード・ローダーがいくつかだ。俺の腰についているホルスターには古いほうの相棒が――S&WのM686がまだあった。もっとも、俺はこれでNPCを撃つことも人間を撃つことも半年間はやっていない。たまにガン・レンジで的を撃つくらいかな――。

 問題は何もなかった。

 声を出さずに自分の臆病を笑った俺は、バイクにまたがってセルスターターを回した。「キシャアッン!」と股下でエンジンが叫ぶ。こいつの始動音はヒト型NPCの鳴き声に良く似ているよな。俺はいつもそう思う。その嫌な鳴き声はすぐ「パカラパカラ」と空冷二気筒エンジン独特の、小気味よい鼓動音に落ち着いた。

「俺も帰るよ。あとは頼んだ」

 俺はヘルメットをかぶって船の甲板を掃除していたスピへ声をかけた。

「オツカレ、クロカミサン」

 スピは掃除する手を止めずに笑顔を俺へ向けた。

 俺はバイクで船着き場を出た。

 バリ島はどこも道は狭くて、その狭い道には多種多様なバイクが大量に流れている。自動車はバイクの波をかき分けるようにして進むから遅くなる。バイクを運転するひとはたいていヘルメットをかぶってない。一応、バリ島の交通法ではヘルメットをかぶらずにバイクを運転してはいけないことになっているらしい。でも、バイクでコケて死ぬのも自由のうちだ。誰に迷惑をかけるわけでもないのだろうし好きにすればいい。俺はそう思っている。

 ただし、俺は小心者自慢だから、ヘルメットをかぶってバイクを運転をする。かぶっているヘルメットの形状は顎部分のないジェットヘルメットだ。シールドには黒い色がついているから、これを引き下ろすとサングラスの代わりにもなる。南国の気候でフルフェイス型のヘルメットをかぶると汗で蒸れてたまらない。そんなわけでフルフェイス型と比べると、安全性がちょっと劣るこの黒いジェットヘルメットを愛用している。

 デンパサールの最大の繁華街――クタの狭苦しくて賑やかな街並みを縫うようにして、鉄の愛馬を「パカラパカラ」とさせながら帰宅している最中だった。

「――ハウ、アー、ユー!」

 後ろから女の声がかかった。

 俺は無視してバイクのスピードを上げた。

「――ヘイ、ヘイ、ヘーイ、リッスン、リッスン!」

 彼女たちはしつこく追ってきた。まあ、俺のバイクは重量があるから速さは自慢でないのだ。諦めて横を見ると一台のスクーターへ三人乗りのお姐さんたちが並走していた。バイクに三人まで相乗りなら驚きもしない。バリ島の交通事情は大らかなのだ。危ないから本当は駄目な乗り方だぞ。どう見たって俺の横を走っているこの中型スクーターは三人乗れるようには設計されていないと思うし――。

 まあ、ともあれ、俺に声をかけてきたのはスクーターに三人乗りをしたお姐さん連中だった。それが、それぞれ違う言葉で俺に何か訴えている。片言の英語と流暢なインドネシア語と完璧なバリ語だった。俺だってこっちへ来てから、どの言葉もあるていどなら話せるようになった。

 でも、こうもいっぺんに喋られると、何を言ってるのだか全然わからん――。

「――ああ、あのね。俺は見ての通り日本人だ。だから、その言葉はわからないよ」

 俺はへルメットのシールドを上げて日本人らしい扁平な顔を見せた。

「ワッ、ニホンジン!」

「ソレナラオカネモチ!」

「ユー、シャッチョーサンネ!」

 お姐さんたちは揃って嬌声を上げた。

 どうも逆効果だったらしいね――。

「まあ、一応、俺は日本人社長だよね。一人社長だけど――」

 俺は苦く笑って前を向いた。

「シャチョーサン、オマンコ、シテケ!」

「シテケ、シテケ!」

「シャチョーサン、ミータチノオマンコ、オヤスイヨ!」

 お姐さん三人組が一斉にさえずった。

 俺は、ああ、やっぱりそうくるよな、と思った。

「あのね、お姐さんたちね。その下品な日本語ね、もうちょっとどうにかならないの――」

 苦笑いの俺が目を向けると、スクーターのお姐さんたちはみんな屈託なく笑っていた。過去、オランダの植民地下で青い血(白人の血)を投入されたインドネシアの女たちは、西洋女のツンケンした容姿を柔らかくぼかしたようなひと懐こい感じの――愛嬌のある美人が多い。スクーターの上から肉体の売り込みをしているのは陽気で若くて結構美人な売春婦の三人組だ。

 不覚にも迷いだした俺は、その気分を振り切る目的でバイクのスロットルを開けた。「バタタタタッ!」エンジンが股の下で咆哮して風景が加速する。全身全霊スタイル重視で、走りの性能は鈍重な俺の愛馬だって本気を出せば、三人乗りのスクーターていど置き去りにできるのだ。

「シャッチョーサン、チョット、チョット!」

 後ろでお姐さんたちは未練がましく叫んでいたが気にしない。

 やがて、その声は聞こえなくなった。

「あの彼女たちへ、日本から来た誰があんな下品な言葉を教えたんだろうな?」

 俺はまだ加速しながら声を出さずに笑った。ああしてバイクで道を流す売春婦はこの観光島の名物みたいなものだ。俺が乗っているこのバイクは金の匂いをプンプンさせているものだから娼婦連中は積極的に声をかけてくる――。

 そうこうしているうちに、クタの派手色合いでゴミゴミしたリゾート街を走り抜けた。まばらに商店が並ぶ二車線の道の先は視界がまっすぐ開けている。今日は特別、交通量が少ない。この調子なら、俺はいつもより早くに帰宅できそうだ。

 俺はスロットルを開ける――。

「――日本、か」

 俺の呟いた声は茹った大気に溶けて後ろへすっ飛んでいった。

 汚染列島のことを考えるたび少し後悔する。

 世話になった内山狩人団の生き残り――三久保だとか秋妃さんだとか斎藤君だとかへ、別れを告げずに汚染列島から姿を消したのは心残りだった。汚染列島に残ったあいつらは今、日本皇国軍の軍務についている筈だ。こっちのテレビやラジオのニュースを聞くと、東海地方全域を大改造して世界へ誇れる耐胞子経済体制を確立した複合企業体支配下の汚染列島は、まだ滅びるまで至っていないらしい。

 だから、なあ、お前ら――。

「――今でも元気にやっている筈だよな?」

 俺は小さく声に出して呼びかけた。

 耳に返ってきた答えはもちろんない。

 でも、きっと、大丈夫だ。

 多治見の胞子地獄を生き抜いたあいつらなら、とびきり運のいいあいつらなら、今だって絶対元気にやっている。

 俺は勝手な判断で頷いた。

 汚染列島で見知ってインドネシアで生活している奴もいる。聖空と愛空へアブラ狸の奴隷の座を謙譲したハヤト君はサダさんの店の従業員になった。ハヤト君はものすごい美人だし真面目だしドスケベだから、そういう趣味のお客さんからたいへんな贔屓をされているらしい。俺がサダさんの店へ顔を見せたとき、そんな話を本人から聞いた。俺は女の子の方の美人を吟味するつもりで胡蝶蘭・バリ店を訪問したのだ。しかし結局、店から出るまで、チャイナドレスみたいな服を着たハヤト君は、俺の隣の席から動いてくれなかった。あれは失敗だった。一晩中むやみやたらと高級な酒を飲まされて無駄な散財をしただけだ。とにかくあれは大失敗だった。

 まあ、それはいいや――。

 ああ、あともう一人、こっちに来ているひとがいた。

 元はアブラ狸の奴隷で、そのあとは娼婦をやっていたあのルリカは今、胡蝶蘭・ジャカルタ店の女主人マダムとして店を切り盛りしている。軍の教習の仕事でジャカルタへ出向いた俺は、そのついでに胡蝶蘭・ジャカルタ店へ立ち寄った。そこはインドネシア政府のお偉いさんが利用するような店で、とにかく、何もかもの値段が高くて(そこにある酒も、そこにいる女の子もだ)俺は閉口してしまった。そのとき、ルリカと少し話をした。サダさんの嫁にはなれなかったらしいルリカも、サダさんのビジネス・パートナーの座は奪取したようだ。

 俺の知っている限り、生きている奴は元気でやっている。

 俺は想うたび、あいつらの幸せを願っている。

 俺のために、俺の自己満足のために、俺の気分を良くするために、顔を見知っている彼ら彼女らは、できる限り元気でいてほしい。

 それはあくまで俺自身が笑って生きていくためだ。

 俺が他人の幸せを願うのは、そんな身勝手な理由――。


 §


 クタの北方は金のある移住者が暮らす静かな住宅街になっている。

 俺の自宅はその住宅街の西の外れにある。そこは住宅と住宅の間にある南国の草木や畑が多くて、移住者よりも地元の住民が多く暮らす街並みだ。ちょっと辺鄙な場所にある俺の自宅の敷地はそれなりに広い(バリ島の基準ではだ)けど、家自体はマッチ箱みたいに小さな平屋で――だいたい、バリ島の個人住宅は平屋しかないのだ。そこらじゅうにあるお寺より背の高い建物は建築できない決まりになっているらしい――とにかく、俺が住んでいるのは築何十年の小さな家だった。この小さな家は俺がやっている仕事の事務所にもなっている。

 サダさん経由で地元の土地屋を紹介してもらった俺は、この小さな家を安い値段で買い取った。買った当時は廃屋同然だったから安くて当然だろう。半年の間、暇を見つけては自分の手でこの家を補修した。苦労のかいあって今は雨漏りをしなくなったし、外装も内装も綺麗なものだ。その名残で自宅の脇の小屋は大工道具でいっぱいだ。大工道具が詰め込まれたこの小屋の空きスペースが、俺の愛車の車庫になっている。

 俺は小屋へ愛車を入れて、小さいながら愛らしい我が家の玄関口へ向かった。

 玄関口の軒先には三人くらいが並んで座れるハンギング・チェアがひとつある。これも俺が設置したものだ。もっとも俺の趣味ではない。俺は無駄な家具が嫌いだ。だが、そこに今座って雑誌を眺めているこの彼女が「断固としてこの場所へ椅子を設置せよ」と俺へ命令した。

 それで俺は渋々、玄関先へこれを設置したわけで――。


「――帰ったよ」

 俺はその彼女へ笑顔を見せた。

 ああ、そうなの、ふぅん――。

 ハンギング・チェアの上から、そんな態度でチラっと俺を見やって、白いマタニティ・ドレスを着た彼女は雑誌へ視線を戻した。歩み寄った俺が覗き込むと雑誌はマタニティ・ドレスのカタログだ。

 良く聞いてくれ。

 我が家のささやかなクローゼットは、お前が買い込んだお洋服で満杯なのだ。

 扉を閉めるのに頭を悩ませるほどだ。

 それでもまだ、お前はマタニティ・ドレスを買い込むつもりなのか。

 そんな洋服は一時的にしか使わないものだろう。

 何枚も購入するのは金の無駄だ。

 しかも毎度毎度、取り寄せが必要なほどの高級品をだな――。

 俺は呆れた気分を表情にして抗議した。

 彼女はカタログを熱心に眺めている。

 背を丸めた俺は彼女のうつむいた顔をじっと見つめた。

 彼女は頬にかかった少し癖のある黒髪を、うるさそうに手で払った。

 俺の視線に対する彼女のリアクションはそれだけだった。

 顔どころか視線すら上げやがらねェ。

 俺は諦めて身体を起こすと、くんくんと鼻先を動かした。

 自宅の台所からだ。

 スパイスの匂いがぐつぐつと漂ってくる。

 この匂いだけは日本でも南国でも変わらない――。

「――ああ、今日の夕めしも、またカレーライスか」

 俺がボヤくと彼女はカタログを脇へ放り投げた。

 わたしの作る料理に何か文句ある?

 俺を見上げる彼女の美貌はそんな感じだ。

 眉が強く寄っていた。

「まあ、俺はお前の作るカレーライスが大好きだから、毎日だって文句はないよ」

 俺が笑うと、ゆっくり頷いて見せた彼女がハンギング・チェアから立ち上った。

「そうそう、こいつにも『ただいま』の挨拶をしなきゃだよな」

 俺は両膝をついて彼女の丸く膨らんだお腹へ手を置いた。

 彼女の肉体からだには、今、もうひとつの命が入っている。

 新しい命だ。

 新しい人間だ。

 新品の希望だ。

「あっ、今、俺の手を蹴った」

 俺は目を開いた。

 男児か女児か医者に訊いていない。

 そんなこと、どっちだっていいと俺は思っている。

 名前もまだ決めていない。

 そんなもの、俺にこだわりはない。

 でも、ひとつだけだ。

 手の先にいる、このチビすけへ俺から要求がある。

 これから産まれてくるお前は絶対に俺の真似をするな。

 性格も、容姿も、生き方も、その他の全部もだ。

 お前はお前の命を宿しているこの彼女を――お前の母親を見習って生きろ。

 俺は俺を軽蔑している。

 俺は俺の彼女を――お前の母親をこの世界に生きる誰よりも尊敬している。

 りさがうなだれた俺の頭へ手を置いて、

「おかえりなさい、タケオ」

 と、俺の名を呼んだ。


(狩人と奴隷少女の日本ゾンビ列島紀行 おわり)

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狩人と奴隷少女の日本ゾンビ列島紀行 亀の歩 @suzukisan

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