【5】稼ぐのは「人物視点」か「カメラ視点」か


さて、ここまでは特定の人物によりそうスタイル(「カメラ視点」および「人物視点」)のテクニックを一般論として詳述しました。ここから先は、個人的な創作体験および読書体験にもとづき、あくまで私見として、各々のメリット・デメリットを様々な角度から検証したいと思います。技法としてどちらを選択すべきか悩んでいる方は、ぜひ参考にしてください。


▶視野を絞る=文体の個性が極まる


実は、当方がカクヨムに公開している長編作品『ネッ禁法時代』と短編作品『ボーイ・ミーツ・AI』は、それぞれカメラ視点(三人称)・人物視点(一人称)で綴られており、同じ作者が異なる技法を使ったサンプルになります。その二つに寄せられた感想文を比較してみると、興味深い傾向がみえてきます。


カメラ視点の作品は、おおむね「構成が巧み」「描写がリアル」「会話のセンスがいい」といった評価をいただいていますが、作者個人の「倫理感」や「文体」を評価してくれた読者はほとんどいません。

『ネッ禁法時代』にいただいたレビュー >>>

https://kakuyomu.jp/works/4852201425154872036#reviews


ところが人物視点の作品については「作者個人の倫理感」および「文体」が好ましいという感想が非常に多くみられます。

『ボーイ・ミーツ・AI』にいただいたレビュー >>>

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880656325#reviews


この結果を俯瞰してみると、どうやら人物視点とカメラ視点にはそれぞれ得意不得意があります。前者は作者のメンタリティや倫理感が強く反映され、後者は作者の知識力・構築力が問われる。ということは、技法のチョイスがマイナスに作用することもあるはずです。人物視点の小説は、語り部とフィーリングを共有できない読者から拒絶されやすい。他方、カメラ視点では客観的な描写の出来映えが悪いと非難を受けやすい。(カクヨムのレビュー欄は「ネガティヴな意見を書き込んではいけない」というルールがあり、この点については想像するしかありませんが……)


言い換えれば、作者が作品を著すとき、価値観に自信がある or 文体で勝負する必要があるなら人物視点を、客観的な描写に自信がある or 構成や展開で圧倒する必要があるならカメラ視点をチョイスすべきという言い方にもなります。


特に、もしもあなたがプロの小説家として稼ぎたい、ヒットメーカーになりたいというならば、文体で勝負できる人物視点が有効打になる。そういう成功をイメージしつつ技を磨くならば、チョイスすべきは人物視点だろうと思います。


▶人物視点で稼ぐ作家たち


人物視点の文体で稼いだ小説家として、誰もが一目置く大物を二人ほど推挙します。まずは探偵小説の重鎮であり、ハードボイルドの名匠レイモンド=チャンドラー。


彼の長編デビュー作は、「私」こと主人公の私立探偵フィリップ・マーロウが、依頼主の自宅を訪れるシーンから始まります。登場人物は「明らかに死に瀕している」車椅子の老人・スターンウッド将軍とその執事ノリスです。


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 やがて老人は井戸の底から声を引っ張り上げてきた。「ブランディーにしろ、ノリス。君はブランディーをどのように飲むかね?」

「いかようにも」と私は言った。

 執事は忌まわしい植物のあいだを縫って立ち去った。将軍はゆっくりと再び口を開いた。まるで失業中のショー・ガールが最後の無疵のストッキングをはくときのように、残された力を用心深く使いながら。

(チャンドラー『大いなる眠り(村上春樹訳)』より抜粋)

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こういう「井戸の底」「忌まわしい植物」「無疵のストッキング」といった比喩が全編にわたって埋め込まれており、マーロウというキャラクターの根幹を成しています。ちょっとやそっとでは思い浮かばないレベルの例え方がぎっしり満載で、チャンドラーの妙技はすでに処女作から揺るぎないレベルに達しているといっていいでしょう。


ところがこの『大いなる眠り』で長編デビューを果たした時のチャンドラーは御年51歳。かなりの遅咲きだといえます。逆にいえば、マーロウの名調子は20〜30代の作家には獲得できないもの、という言い方ができるかもしれません。それまでの人生を綴ってみると、まず彼は米国に生まれ、英国に移民して「イギリス海軍」に所属し、後に「雑誌社(ライター・編集者・書評家)」で腕を磨きました。アメリカへ帰国した後は「農園」「スポーツ用品業者」「乳製品会社」、第一次大戦前後は「カナダ軍」、後に「石油会社」……等、流転のキャリアパスを描いた。こうした経験の厚みが、作家としてのよい肥やしになったものと想像します。


もう一人は、皆様ご存じ筒井康隆です。この御大はカメラ視点の作品もたくさん発表していますが、人気作家としての最盛期を支えたドタバタSF作品の多くが「おれ」視点で著されており、「信じがたいトラブルに巻き込まれる《おれ》」の視点に立つスラップスティック(喜劇)により大勢の熱狂的ファンを獲得しました。以下は「おれは裸だ」という短編作品の冒頭の一節です。


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「火事だぞう」

 という声が聞こえた時おれは大野泰子と三度目の合体中であって、すでにドアの下から黒煙が室内へ平らな舌のようにうねりこんでいた。絶頂寸前で何も聞こえなかったらしい泰子の離すまいとする腕をもぎ取り、おれは立ちあがった。

「逃げるぞ。火事だ」

 泰子は悲鳴をあげてとび起きた。連れこみホテルの昼火事だ。泰子にとっては焼死の恐怖よりも大勢の野次馬に顔を見られる怖さが大きいに違いない。おれは独身だが彼女は人妻なのである。

 シーツの下にあるブリーフを見つけるのに手間どり、ランニング・シャツを着てズボンを穿いた時には部屋いっぱいにうっすらと煙がなびきはじめていた。

「もういかん。すぐ出よう」

(筒井康隆『おれは裸だ』より抜粋)

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筒井康隆は若くデビューした作家で、26歳の頃には書き上げた同人誌がかの江戸川乱歩の目に留まり、デビューのきっかけを掴んでいます。しかし、「おれ」の文体は30歳前後で獲得したものらしく、当人も以下のように語っています。


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小説を書き始めた当初は文体などというものさえ持たない、視点が滅茶苦茶な文章を書いていた。ある人に指摘されて「乾いた文体」が自分に向いていると知り、さらにそれを一人称で書けばまず失敗はしないと悟り、ヘミングウェイなどの文章を手本にして書いているうち「おれ」を主人公にしたドタバタSFで定評を得ることになった時にはすでに三十歳だった。

(筒井康隆『創作の極意と掟』より抜粋)

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というわけで、かの大作家先生も3〜4年ほどはプロとして食える視点の技法を模索したようです。


人物視点の名匠たる二人は、二人とも、文体の妙技を完成させるまでにかなりの年月を要した。「人物視点こそ作家の理想的な食い扶持だ」という見解に間違いはなさそうですが、そもそも作中のキャラクター造形と表裏一体であって、確立するまでの道程は長く、一筋縄ではいかないことがよくわかります。


●●●●コラム:人物視点の作品は映像化が苦手?

これは蛇足ですが、映像化を前提とする場合、カメラ視点で書かれた作品の方が親和性が高い、ということはどなたにも納得していただけるでしょう。と同時に、人物視点の作品は映像化しにくい or 映像化してもヒットしないというのが定説です。


チャンドラーのハードボイルド作品は映画やテレビで数多く映像化されてきましたが、どの作品も彼の独特の筆致を活かしきれず、また作品としてのまとまりも悪く、低評価です。実は探偵のフィリップ=マーロウがひたすら単独行動するということにもミステリーとしてのネガティヴがあり、技法だけに依拠する問題ではありません。


一方、チャンドラー自身はシナリオライターとして(自分の小説とは無縁な)映画作りに参加した経験を持ち、脚本家としてはアカデミー賞候補に二度も名を連ねました。こういった小説の映像化、あるいは映像のノベライズにまつわるエピソードは、いつか別の機会に論考したいと思います。●●●●



▶カメラ視点で稼ぐ作家たち


逆に、カメラ視点が持つ大きなメリットにも言及しておこうと思います。小説家という人種はたいていの場合、自分のコピーを語り部にするため、結果的に「頭のいい同性、もしくは理想の異性」を主人公に据えてしまい、「頭の悪い同性や嫌いな異性」を中心に物語を進めるのが苦手という「主人公の壁」が存在する。その壁を破りヒット作を生み出すことは、一つの勝機だろうと思うのです。


典型的な例が、有川浩による傑作『図書館戦争』の主人公・笠原郁です。郁は女性ですが、自衛隊ならぬ図書隊に所属する戦闘のプロ。いわゆる脳筋キャラです。


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「あーもうちょっと信じらんないアイツー!」

 と、郁が吠える気力を取り戻したのは訓練を終えて寮に戻ってからである。

「信じらんないのはアンタよ笠原」

 風呂から戻ったタイミングの柴崎が呆れ顔で突っ込んだ。

「ふつう教官に背後からドロップキックなんかかますー? とんでもない女よねアンタ、見境ないにも程があるわ」

「喧嘩売ったのは向こうが先よっ」

 郁は顔をしかめながらシップをべたべた貼られた右腕を曲げ伸ばした。

(有川浩『図書館戦争』より抜粋)

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八面六臂の活躍をみせる22歳の「熱血バカ」女(自称・戦闘職種大女)の笠原と鬼教官・堂上のコンビで王道ラブコメを生み出した有川女史は、一躍人気作家へと躍り出ます。それ以前に彼女は三作の長編を発表しましたが、いずれも主人公は男性でした。『図書館戦争』が出世作になった背景には、主人公・郁の設定について編集者から出されたこんな要望があったそうです。


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有川 実は、初めて書いたタイプのキャラクターだったんですよ。それまでに書いていた3冊(『塩の街』『空の中』『海の底』)は、結構、物わかりのいい女の子がヒロインだったんですね。『図書館戦争』を書くにあたって編集さんから、ひとつだけ条件がきまして。「次はいわゆるいい子なタイプではない女の子を主人公にして書いてみない?」と。「分かりました、じゃあ、バカな子書きます!」っていう。

(有川浩『図書館内乱』巻末対談より抜粋)

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バカな女の子を主人公にするということは、簡単ではないはずです。特に戦記物というジャンルでは、リアリティの軽視になりかねない。自衛隊員たちが活躍する「本格的おっさん祭り」を得意としていた女流SF作家にとって180度真逆のオーダーだったに違いありませんが、意を決して編み出されたラブコメ路線全開が功を奏し、『図書館戦争』は大ヒットシリーズとなりました。


このとき、有川女史は「カメラ視点」で綴ることを選びましたが、もしも「人物視点」を選んでいたら、結果は変わっていたかもしれません。何故か。この『図書館戦争』シリーズは、視点人物の人生をなりきって楽しむことよりも、「ちょっとイレギュラーな女の子のドタバタを動物園の客のような目線で楽しむ」ことが魅力の源泉になっている、と思われるからです。


もしも「人物視点」、つまり完全な笠原郁視点になると、どうなるでしょうか。彼女は脳筋キャラですから、地の文の文体がわちゃわちゃして、落ち着かなくなると思いませんか? (それはそれで面白い……かな……)……おそらく「落ち着いた視点(文体)からドタバタ劇を観察できる」方が面白い(だろう)という計算が働き、著者がカメラ視点を選んだことは想像に難くありません。


前述したとおり、筒井康隆風の巻き込まれ型ドタバタ劇には、主人公「おれ」のような「人物視点」がマッチしており、互いに対を成す存在だといえるでしょう。以上、プロの中のプロが到達した境地について言及しました。


さて、私たちアマチュアは……どうすべきでしょうか。えー、どうしましょう。


▶「感動」をとるか「エンタメ」を目指すか


私も含めたアマチュア作家は、稼ぐとかそういう欲目ではなく、描きたい内容に適した技法をチョイスしたいと思っているはずです。その場合、作品の尺次第で人物視点かカメラ視点をチョイスするのは一つの見識です。ショートショート〜短中長編までは人物視点。長編から大長編、大河ドラマ的になる場合はカメラ視点をチョイスするのは、そこそこ無難な考え方です。


当方がカクヨムで発表した人物視点による小説『ボーイ・ミーツ・AI』は、視点の移動の必要性を感じないままラストまで突っ走ることができた短編作品です。といっても、ご一読いただければわかりますが、途中で推察や伝聞を使いまくっており、短編にしては驚くほどスケールが大きいというご評価もいただきました。書き手としても、物語の中身と表現の技法がうまくマッチしたという手応えがあります。


しかしながら、人物視点の物語をさわやかに(?)読んでいただく工夫として、語り部を頭脳明晰かつ思想的にニュートラルな人物にせざるを得ませんでした。そして、そういう人物は(刑事や探偵にでもならない限り)ごくノーマルな人間関係をチョイスし、望んでダーティな価値観へ近づくことがない。そういう素性の帰結として(やりようはあるのかもしれませんが……)、人物視点の作品にはある種の限界がある、という実感があります。


また、本作には文学的な香りがするという旨の、やや過分なご評価もいただいており(もちろん「内容」に対するご意見ではありますが……)、それについては、エンタメとしての限界を持つ技法の「裏返し」として獲得し得る個性といえるものかもしれません。いや、……正直よくわかりませんが。あはは(……)。


その点、カメラ視点による長編作品『ネッ禁法時代』は、群像劇のメリットを活かし、善人側と悪人側の双方の視点から価値観を提供しつつ、映画やマンガと同様の手法で物語をラストまで牽引します。拙作の宣伝になってしまいますが、人物視点とカメラ視点のメリット・デメリットがよくわかるペアリングに(たまたま)なっていますので、機会があれば双方ともにご一読ください。というか、ご愛顧のほどをよろしくお願いします。


さて、そろそろ結論とします。当方、まだまだ道半ばではありますが、現時点では感動作を目指すなら人物視点(一人称)を、エンタメ作を目指すならカメラ視点(三人称)を選ぶのが、もっともらしい考え方だろうと結論します。ぐるぐる回って、回って回って、ここに着地しました。が……いずれにせよ、表象だけを論じるのはほどほどにすべきというツッコミが聞こえてきそうですから、このあたりで終わりとしましょう。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。作家の皆様のご健闘をお祈りいたします。



引用元:

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り(村上春樹訳)』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

筒井康隆『原始人』(文春文庫)

筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社)

有川浩『図書館戦争』(角川文庫)

有川浩『図書館内乱』(角川文庫)


(了)

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大袈裟にいうと「視点」が小説家の収入源(らしい)〜続・シナ説変換法 吾奏伸(あそうしん) @ASSAwSSIN

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