【4】視点の移動を使わない


一つの節や章、もしくは一つのパラグラフで心理描写できる登場人物を一人に絞る場合、その人物が知り得ないことが書けない、すなわち視野狭窄という課題にぶつかります。


前述した例文5においては、デイヴの視点に近づけば少年の台詞が、少年の視点に立てばデイヴの心情が語れなくなりました。これは、「カメラ視点」でも「人物視点」でも同じ課題です。この【4】では、あくまで視点を移動させず、と同時に視野狭窄を解消し得る具体的なテクニックに言及します。有効な手法は、主に二つほど。以下、例文は「人物視点」による描写を用いますが、「カメラ視点」においても(節あるいは章の中で)同じテクニックを使えます。


(1)推察を使って「気配」だけ残す


たとえば、デイヴが病室を出て行く前後について、こんな風に記してみます。


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(例文6)

「わかった。約束しよう」

 私はそう言って微笑み、少年に背を向けた。けれど病室のドアを閉じ、廊下を歩き出してから少し後悔する。彼が本当に欲しかった物、心から喜ぶはずのプレゼントは、試合の日付が記され、ガラス箱に入れたサインボールではなかったか? 二度と立ち上がれないほどの重病の持ち主に、新品を買い与え使ってくれというのは、思いやりのない仕打ちだったのかもしれない、と。

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 この表現が「シナリオとまったく同じ」とは言い難いわけですが、それらしい「気配」は残すことができました。と同時に、こう書いてしまうとデイヴという人物が「少年を気遣う繊細な男」だという印象が強まります。すなわち推察は語り部の性格描写を左右するため、仮にあなたが野球選手を豪放磊落な輩として描きたいときは、適さない手法だといえるかもしれません。


(2)「伝聞」を使ってスケールを広げる


 あるいは、同じ場面をこう語ることもできそうです。


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(例文7)

「わかった。約束しよう」

 私はそう言って微笑み、少年に背を向けた。病室を出てドアを閉じると、肩を引いて姿勢を正し、廊下を大股で歩き始めた。崇高な使命が心を鼓舞する一方で、義務感が身体をぎくしゃくさせる感覚が漲っていた。いわゆるプレッシャーだ。けれど、すぐに身体と心が連動するようになった。病院のロビーを抜けて玄関から外へ出る頃には「いつものデイヴ」に戻っていた。ファンから「ホームランを打ってくれ」と頼まれたのは始めてのことじゃない。そんな経験は星の数ほどある。相手が病気に苦しむ少年であろうと、激務を嘆く炭鉱夫であろうと、明日を夢見るウェイトレスであろうと、やるべきことはいつも一つだけ。打席に立って、バットを振る。思い切りよく、そして自分らしく。

 後日、私は少年の父親から「貰ったのがサインボールではなくて、はじめは少々がっかりしたようだ」と率直な感想を耳にした。でも、それは幸いなことに「笑い話」として伝わった。少年自身の頑張りが実り、一年ほどで退院してくれたおかげだ。

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こんな風に「後日談」としてなら、シナリオ通りの事実をありのままに書くことができます。ただし、語り部が過去を振り返っているという前提が生じ、視点こそ移動しませんが、「語り部は現在まで生きている」という事情が追加されます。偉人が残した手記であればノープロブレムですが、沈没するタイタニックから脱出する話だとすると、問題があるかもしれません。


また、語り部が知り得るはずのない事情を誰からどう聞き出したか描く必要があり、それが物語において自然な流れといえるかどうか検討する必要も生じます。


こんな風に、伝聞のテクニックは良くも悪くも時間的・空間的スケールを広げる作用を持ちます。言い換えれば、伝聞を使いこなすことで、一人の視点によりそった形を守りながら、長尺の物語を完成させることができるようになります。


●●●●コラム:視点は混在できるか

パラグラフ内における人物視点とカメラ視点の偏在は「混乱」とみなされるため、技術としての可能性は低いと思います。(章や節をまたいだケースとしては、人気ライトノベルシリーズ『ソードアート・オンライン(川原礫)』が、主人公の人物視点で描く章と、他の人物によりそうカメラ視点で描く章を使い分けています)。


一方、人物視点やカメラ視点の文中に「ピュアな神視点」を偏在させ、あるいは、やんわりと変化させる手法は古くからアプローチされてきました。すでに言及した「伝聞」に相当するものですが、「伝聞というには長すぎるパートを入れ込む」手法、あるいは「誰かから見聞きした伝聞だと具体的に明示をしない」手法も幅広く試されてきました。


たとえば19世紀頃に流行した書簡体小説は、部分的には書き手の経験、あるいは他人から聞いた話や書物の引用であったりするし、分類するならば人物視点の仲間ではありますが、伝聞のパートが極めて長い入れ子構造のようなものもあって、そこだけ読んでいると神視点のように感じられてきます。それが許されるのは、節の冒頭で「誰から誰への手紙」かをはっきり明示し、語り手を絶対的に固定できるからです。「手紙」というスタイル自体に包容力がある、ということの証左でもあります。


ですが、多くの場合、ピンポイントに神視点を混ぜることは「読者を興ざめさせる」原因となるため推奨できません。まず、特定の人物に寄り添っていたはずの視点が、いきなり神視点に変化した際、瞬時にして没入感が奪われます。映画館で映画を観ていたのに、ときどき客電が灯るような感じです。これでは集中できない。また(特にミステリーでは)特定の事実を読者から伏せたい場合があります。人物に寄り添う視点なら(何もかも見通せるはずがないので)問題は生じない。ところが語り部が神=何でも見通せてしまう(と読者が察した)際、部分的に言及しない語り口が「不誠実」に感じられてしまいます。いずれにせよ「興ざめ」させたくはない。なるべくなら、熱の籠もった読書体験を提供したいものです。そういうわけで、「ときどき神視点」は避けたほうがよいと考えられます。


もちろん、目指す作品が実験的な小説の場合、視点のコントロールはある種の価値を生み出す源泉でしょうから、この限りではありません。●●●●

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