【3】視点の移動を使う
ひとまず「カメラ視点」を前提とします。書き方は前述したとおりで、人物の呼称には固有名詞をあて、「私」や「俺」は使わないと決めます。さらにカメラが寄り添う人物=語り手を定め、その背後から見える景色と、その人物の心の声のみ記してよいものとします。
この方式で書き進めていくと(特にシナ説の場合は)あっという間に行き詰まってしまいます。シナリオには、この人物が登場しないシーンも書かれているに違いないからです。そういう場合、カメラを人物から引きはがし、別の人物へ移動させなければなりません。
▶視点の移動には「落とし穴」がある
シナリオを書くといった映像的な手法を取り入れると、どうしても場面転換が増え、そのせいで視点人物を複数登場させる羽目になります。例えば戦争ものだと、自国の潜水艦と敵国の潜水艦、両者の「かけひき」を描写したくなるので、それぞれの場面では自ずと視点人物を別人に託さなければならない。結果として「視点の移動」を検討せざるを得ませんが、映像の場合は簡単で、シーンが切り替われば観客は自ずとカメラの移動を意識します。マンガにも同じことが言えて、そもそも両者はカメラの移動=マルチな視点に寛容な表現手法だといえます。
しかし、小説だけは視点の移動に寛容ではありません。何故なら「これ」「あれ」「それ」あるいは「彼」「彼女」といった指示代名詞の相対関係があいまいになったり、誰の感情を述べたものかが混同したりして、読者を混乱に陥れるからです(映画やマンガには指示代名詞に相当する表現が存在しない、という言い方もできます)。
以下に失敗例をあげます。かなりキモチ悪いですが我慢して読んでください。
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(例文4)
プロ野球選手のデイヴは、病室の前に立った。自分の大ファンで重病の少年に何をしてやれるか思案し、バットとボールとグローブを抱えている。これらを使いこなすには病気を克服するしかないと少年に伝え、闘病の意欲をかきたてるのが一番だと考えたからだ。典型的なプレゼントである色紙やサインボールでは駄目だろう。飾るための品ではハッピーにしてやれない、というのが彼の思惑だ。
少年の病室にはテレビがあった。窓際にはプロマイドや人形がずらりと並んでいる。その中にしか存在しえない偶像の中の偶像、それがデイヴ。病室を出られない境遇の彼にとって、この品々は狭くて退屈な世界を彩ってくれる宝物だ。コレクションに欠けているのは、デイヴのサイン——誰かが色紙かサインボールをプレゼントしてくれたら、最高にハッピーだと思う。
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自分で書いておいてなんですが、こいつは酷いですね。ウゲゲ。吐き気がします。後半の「病室を出られない境遇の彼にとって」あたりで一度ウゲとなり、ラストの「最高にハッピーだと思う」で二度目のウゲ。あわせてウゲゲ。吐き気の原因は、前半が野球選手の、後半が少年の視点で書かれているからであり、指示代名詞の「彼」が指し示す対象の違いを読者がすんなりと許容できない。しかも、何がハッピーかについての感情が正反対。
実はこの例文4、なかなか良く出来ています。前半を忘れて後半だけを読めば、不思議とキモチ悪さがまったくない。通読するとやっぱりキモチ悪い。パラグラフ内では破綻しませんが、パラグラフ間で視点を移動させた結果、読む側は後半の中間あたりまで移動に気づけず、気づかされたタイミングで一気に不快になる。
こういった表現は「視点が混乱している」とみなされ、執筆作法として御法度です。とはいえ、映像やマンガを意識したシナリオを出発点とする以上、視点人物の変更は避けられない。さて、どうしましょうか?
▶「プレルーティン」で落とし穴を埋める
ご紹介できるテクニックが3つほどあります。
(1)節や章を分ける
そもそも一連で読むから混乱するのであって、真ん中でぶった切れば、それぞれは読めるものです。従って、途中で一区切りつけてやるのが上手いやり方です。
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(例文4_改1)
プロ野球選手のデイヴは、病室の前に立った。自分の大ファンで重病の少年に何をしてやれるか思案し、バットとボールとグローブを抱えている。これらを使いこなすには病気を克服するしかないと少年に伝え、闘病の意欲をかきたてるのが一番だと考えたからだ。典型的なプレゼントである色紙やサインボールでは駄目だろう。飾るための品ではハッピーにしてやれない、というのが彼の思惑だ。
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少年の病室にはテレビがあった。窓際にはプロマイドや人形がずらりと並んでいる。その中にしか存在しえない偶像の中の偶像、それがデイヴ。病室を出られない境遇の彼にとって、この品々は狭くて退屈な世界を彩ってくれる宝物だ。コレクションに欠けているのは、デイヴのサイン——誰かが色紙かサインボールをプレゼントしてくれたら、最高にハッピーだと思う。
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シンプルな手法ですが、そこそこ強力です。しかし、視点の切り替えが明示的ではないため、読み手によってはまだ混乱し続けるかもしれません。そこで、第2、第3の手法も併用することをお勧めします。
(2)5W1Hをやり直す
視点の混乱を避けるには、視点たるカメラが大きく移動したということを知らせるのが親切です。具体的には、どこで・誰が・いつ・何を・なぜ・どうやって(いわゆる5W1H=where, who, when, what, why, how)……といった描写から始めて「前節とは状況がまったく変わったんだよ」と報告するわけです。
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(例文4_改2)
プロ野球選手のデイヴは、病室の前に立った。自分の大ファンで重病の少年に何をしてやれるか思案し、バットとボールとグローブを抱えている。これらを使いこなすには病気を克服するしかないと少年に伝え、闘病の意欲をかきたてるのが一番だと考えたからだ。典型的なプレゼントである色紙やサインボールでは駄目だろう。飾るための品ではハッピーにしてやれない、というのが彼の思惑だ。
*
その日も少年は病室のベッドにいた。症状が重く、立ち上がることが叶わない。テレビの野球中継が唯一の気晴らしで、家族に選手のグッズをねだってばかりいるから、窓際にはプロマイドや人形がずらりと並んでいる。その中にしか存在しえない偶像の中の偶像、それがデイヴ。病室を出られない境遇の彼にとって、この品々は狭くて退屈な世界を彩ってくれる宝物だ。コレクションに欠けているのは、デイヴのサイン——誰かが色紙かサインボールをプレゼントしてくれたら、最高にハッピーだと思う。
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(3)個性的な語りを混ぜる
さらに、新たな視点人物の「心の声」を個性的に記しておけば完璧です。「心の声が聞こえるのはカメラが寄り添っている人物のみ」というルールを逆手にとり、どの人物の傍にカメラがあるのか、読者に知らしめるというわけです。
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(例文4_改3)
プロ野球選手のデイヴは、病室の前に立った。自分の大ファンで重病の少年に何をしてやれるか思案し、バットとボールとグローブを抱えている。これらを使いこなすには病気を克服するしかないと少年に伝え、闘病の意欲をかきたてるのが一番だと考えたからだ。典型的なプレゼントである色紙やサインボールでは駄目だろう。飾るための品ではハッピーにしてやれない、というのが彼の思惑だ。
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その日も少年は病室のベッドにいた。症状が重く、立ち上がることが叶わない。しかも昼に運ばれた病院食の味が薄く感じられて、残してしまったのがうしろめたい。看護士たちとは毎日顔を合わせるし、できれば見映えよく振る舞いたいが、格好悪いところばかりが目立つので鬱々としてしまう。
唯一の気晴らしが、テレビの野球中継だ。家族に選手のグッズをねだってばかりいるから、窓際にはプロマイドや人形がずらりと並んでいる。その中にしか存在しえない偶像の中の偶像、それがデイヴ。病室を出られない境遇の彼にとって、この品々は狭くて退屈な世界を彩ってくれる宝物であった。コレクションに欠けているのは、デイヴのサイン——誰かが色紙かサインボールをプレゼントしてくれたら、最高にハッピーだと思う。
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この3つをプレルーティーンと呼ぶことにします。おわかりだと思いますが、プレルーティーンはいずれも小説にとって冗長さを追加する作業となり、結果として作品は長くなるばかりです。そもそも視点の移動自体、読者にとってはストレス。プレルーティーン以前の努力として移動の回数を減らす工夫は不可欠といえるでしょう。
そういった理由から「節や章の中では視点人物を変更しない」といったルールを自ら課している作家も多いようです。こうした暗黙の制約は、長い年月をかけ文章芸術が獲得したノウハウだといえますから、逸脱してもいっこうに構いませんが、素直に恩恵をうける価値は十分にあるでしょう。
▶視点の移動をあきらめる
シナリオから小説へ変換を行う際、一つのシーンで複数の視点が必要になるケースがあります。たとえば、こういうシナリオです。
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(例文5)
〇病室
デイヴが紙袋を手に、ドアを開けて中へ入る。
ベッドに横たわる少年、計測器や点滴につながっている。
デイヴ「ヘイ! ブラザー」
デイヴ(心の声)「少年の両親から病状を聞かされ、私の気分は曇っていたが、あえて明るく振る舞うべきだと思っていた」
少年「わぁ!? デ、デイヴだ。デイヴ=ルーズだ!」
デイヴ「お土産があるんだぞ」
デイヴ、紙袋から新品のバットとボール、グローブを出してみせる。
少年「す、凄いっ」
デイヴ「早く元気になって、使いこなすんだ。約束だぞ」
少年「わかったよ。あのさぁ、頼みがあるんだ」
デイヴ「何だい」
少年「今度の試合で、ホームランを打ってほしいんだ。僕のために」
デイヴ「……わかった。約束しよう」
デイヴ、笑顔で出て行く。
ドアが閉じる。少年、紙袋をたぐりよせて中身をみる。
少年「ちぇっ。値打ち物のサインボールとかが欲しかったのになぁ」
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冒頭にデイヴの心情が説明されますので、素直に考えればデイヴの背後にカメラを置きたくなります。しかし、ドアを閉じた後の少年の一言はデイヴにくっついたカメラでは見聞きできません。この台詞が重要ならば、少年の側にカメラを置くべきです。さて、どうしましょう。
前述したプレルーティーンを加え、視点移動を試みたくもなりますが、最後の数行のみ独立した節として扱うのはやや短すぎますね……
こういう場合は、ずばり「デイヴの心情」か「少年の本音」のどちらかを切り捨てます。デイヴの背後にカメラを置くと決めた場合は、ドアを閉じた後の一言はカット。逆に、少年側にカメラをセットすると決めたら、ドアを閉じた後の描写を入れて、代わりに途中ではさまるデイヴの心情をカット。
私は映像畑の出身ですが、趣味で小説を書き始めた当初、こういったケースにおいて(人物視点やカメラ視点ででは)上手くやりくりできないのが極めて窮屈に感じられたものです。しかし、今はむしろその窮屈さこそ「小説らしさ」の源泉だろうと考えるようになりました。それらしい表現でまとめてやれば、その奥にある企図がストレートに読者まで伝わるはずだし、逆に、小説から映像へ変換される際、心情描写の多くはカットされてしまうわけですから(映画において登場人物の「独白」はなるべく使わないのが基本)、メディアには一長一短があるというだけ。そう割り切って考えるべきだと思います。
なぜ小説で作品を綴るのか。どうしてマンガや映像にしないのか(……できない、という事情もありますが)? シナリオはコンテンツの「青写真」ですが、映像にする際は映像の、小説の場合は小説の長所と短所を把握しつつ、各メディアの中で最適化するのが大事。むしろプレルーティーンこそ小説らしさの源泉という言い方ができるかもしれません。
●●●●コラム:地の文は減らすべきか
ライトノベル系の作家志望者は、アニメの影響が強いせいか、「会話文を増やして地の文を減らす」ことが目的化しているように感じられます。章や節を会話で始めたい、という動機については理解できなくもありません。しかし、結局はプレルーティーンを意識して書かれている小説の方が読みやすく、読み進めていく上で「安心感」が文体から感じられるのも事実です。地の文は「安心」を、台詞は「刺激」を提供する。両者のハーモニーこそ小説、と考えてみてはどうでしょうか。●●●●
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