第3話 ある一途な女の独白 (後編)
だから、少しかがんで自販機からカップを取り出そうとしているあの人の背後から、無言でアーミーナイフを突き立てたんです。
いえ、害虫に刺したのとは別のナイフです。
だって汚らわしいじゃないですか。
害虫の体内に突き刺し、体液にまみれたものを、あの人につきたてるのは。
だから計画した時にネット通販でアーミーナイフを2本購入したんです。
いえ、おなかじゃありません。首です。
首の横に突き立てたんです。
今度はそこからグリっと抉る感じじゃなく、グっと手前に引きました。
首にした理由ですか?
それはあの人の血液なら むしろ浴びたいと思ったからです。
プロ野球で優勝したチームがよくビールをかけあって、はしゃいでるじゃないですか、お互いを祝福して。
あんな感じであの人の血液を全身に浴びれたら幸せだろうなって――だって血液はその人の生命そのものですから。
そして期待通りに鮮血がほとばしりました。それもすごい勢いで。
あの人から出た鮮血が私に吹きかけられて、すぐにシャツがビシャビシャになりました。
私、とても幸せでした。
あの瞬間、私は世界で一番幸福だったかもしれません。
まるで祝福されてるみたいだって思ったら、頭の中で、ベートーヴェンの第9が高らかに鳴り響いたんです。だからアーミーナイフを指揮棒に見立てて指揮の真似事をしてたんです。至福の時間だったと思います。
でも、その至福の時間は長くは続きませんでした。
あの人は害虫みたいに呻くだけじゃなく、猛獣の咆哮のようにすごい叫び声を上げたので、すぐに何人もの人がリフレッシュルームに駆け込んできました。
残念ながら、それで第9は鳴り止んでしまいました。もっと聴いていたかったな。
鏡がなかったので自分がどんな姿だったのかわかりませんが、たぶん私は全身あの人の返り血で染まっていたと思います。
駆けつけた男の人は石像のように固まっていました。まるでメデューサに睨まれたみたいに。
女性は金切り声で叫びながら頭を抱いてしゃがみこんだり、倒れたりする人もいたように記憶しています。
それもそうですよね。いつも仕事を一緒にしている人間が一方は首から血を噴出して倒れ、もう一方は全身を返り血に染めて何故か指揮者の真似事をしてるんです。
ただ―――、正直なところ、私もその辺から頭がぼおっとしちゃってよく覚えてないんです。
でも、私はやり遂げたんだ――って思ったことだけは鮮明に覚えています
あの人から害虫を駆除し、あの人を清らかな状態に戻し、あの人の生命を清らかな状態で終わらせた。
つまりあの人は、もうけっして害虫どころかも何物にも毒されたりすることもなく永遠に清らからなわけです。
そして、私はそんなあの人を永遠に愛し続ける。
ええ、害虫とはいえ一応は人の形をしています。
法的には殺人となり、それも二人ということになりますね。
私、これでも国立大学の法学部を出てるんで、法律はそれなりに理解しています。どんな求刑になるかは、おおよそ、はい――。
ただ、もう法律とかそういう事はどうでもいいって思っています。
だって、今、私は余人には知りえない幸福の境地にいるのですから――。
はじめにも申しましたが、叶わぬ恋はけして不幸ではない。むしろ幸福だと――。
そして私は、永遠に叶わない恋を完全なる形で手に入れたんです。
ねえ刑事さん、それって素敵なことだと思いません?
(了)
ある一途な女の独白 雨月 @ugetu0902
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