エレーナ

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!

エレーナ

「見つけた」


 声が聞こえた瞬間、思わず目を瞠った。


 その声が、あまりにも懐かしいものだったから。


「あなただったのね、『私達』のお墓に、ずっと花を供え続けてくれていた人は」


 顔を上げると、爽やかな風が髪を巻き上げていった。僕の手から離れた白百合の花束は、そんな僕を笑うかのように微かに花びらを揺らす。


「ひいおばあ様と約束を交わした、美しいバケモノというのは」


 朝日の降り注ぐ静謐な墓地を背景に、彼女はそよ風とともに立っていた。柔らかく揺れる栗色の髪と白いワンピース。挑むような瞳をしているのに、口元にはどこまでも優しい笑みが浮いていて。


 まるで……、まるで本当に、彼女が帰ってきたかのような。


「エ……」


 エレーナ、と記憶の中にいる人の名前を呼びそうになって、寸前で思い留まる。


 彼女であるはずがない。彼女はもう百年以上前にこの世を去ったのだから。


 僕は一度キュッと唇を引き結ぶと、彼女の笑みに応えるように笑みを浮かべた。きっと僕の笑みは、ほんのちょっぴり苦笑をはらんだ笑みになっただろう。


「初めまして。僕の名前は、聞いているかな?」

「『ラウル先生』と、母様から聞いているけれど」

「うん、そう。ラウルと呼んで。僕は君を何と呼べばいいかな?」

「あら、私達はみんな、あなたに『エレーナ』と呼ばれるんじゃないの?」

「違うよ」


 目を瞬かせる少女に向き直って、僕はしっかり彼女のことを見つめた。彼女の母も、その母もエレーナによく似てはいたけれど、今目の前に立つ彼女が一番よくエレーナに似ている気がする。……単純に時が経ちすぎて、僕がエレーナの細かい顔立ちを忘れてしまっただけかもしれないけれど。


「君達はエレーナの血を引いているというだけで、エレーナ自身ではないからね」

「あら。それをわきまえてくれる良識はあったんだ?」

「……君のお母さんは、僕のことをそんなに厄介な存在として君に伝えたのかな?」

「いいえ? 母様はあなたの悪口なんて何一つとして残さなかったわ。今の発言は私の勝手な妄想から出たものよ。謝るわ。ごめんなさいね」


 余りの言われように首を傾げると、彼女はサバサバとした口調で言い捨てた。……訂正しよう。彼女は外見だけなら一番エレーナに似ているけれど、中身は今までで一番似ていない。


「私の名前はアルヴィラ。アルヴィラ・『エレーナ』・イーサン」


 エレーナの血を引くイーサン家の新しい女主人は、堂々と名乗ると真っ直ぐに僕を見据えた。やっぱりこの眼差しはエレーナに似ている。この朝の空気のように透明で、強くて、吸い込まれるような美しい瞳。


「私は、ひいおばあ様があなたと交わした約束を守れそうにないの」


 その瞳を真っ直ぐに僕に据えたまま、エレーナの末はそんなことを口にした。


「ごめんなさい。私、あなたを独りにさせてしまうわ」




 僕は、いわゆる不老不死という存在であるらしい。気付いた時にはそういう生き物になっていた。一応人間の両親から生まれた記憶も、普通の子供として遊んで暮らした記憶もあるから、最初はただの人間だったのだと思う。


 それがどうしてこんな風になってしまったのかは分からない。ただ、周囲が年相応に老いを重ねていく中、僕だけは二十歳頃の若い外見のままでパタリと歳を取らなくなった。


 両親を見送り、友を見送り、その子供世代の成長を見届けた辺りで村にはいられなくなった。歳を取らない外見というのは、それだけで十分に異端であったから。


 それでもいずれは、僕も死ぬものだと思っていた。思えば僕は、生まれつき呑気な性格をしていたんだと思う。外見が変わらなくなる人間も時々は居よう、きっとこのままいつかパッタリ死ぬ時が来ると思っていたのだから。


 それが楽観的すぎる考えだったと気付いた時、僕は自分の年齢を数えるのをやめた。その時点ですでに八十は数えていたから、単に数を数えるのが面倒になっただけだったのかもしれない。


 歳を取らない。死にもしない。己で己を傷つけても、我に返った時には傷も癒えて元通りになっている。


 不老不死。


 その単語に行きつくまでに軽く一世紀はかかった。僕はきっと世界一、そして史上最も呑気な男だったのだろう。


「……初めまして。あなたが、新しい家庭教師の先生?」


 不老不死であっても腹は減った。一番最悪だと思ったのは、僕はどれだけお腹がすいても餓死しないということだった。気が狂いそうなくらい飢餓を感じているのに体はピンピンしているなんて、これ以上不公平なことが世の中にあるだろうか。


 とにかく、お腹を満たすためには金がいる。


 僕は旅をしながら、行く先々で家庭教師という職を務めた。伊達にボケずに長生きしてきたおかげで、知識は人並み以上に蓄えていたから、くいっぱぐれるということはなかった。その点ではこの不老不死にちょっと感謝してもいいだろうか。……いや、元々こんなハメに陥った元凶が不老不死にあるのだから、そこに感謝をしては本末転倒だろう。


「私の名前はエレーナ。エレーナ・イーサン」


 それに、不老不死さえなければ。


 僕はエレーナに囚われることもなかった。


「先生のお名前は?」


 柔らかく問いかけてきた彼女を、朝の爽やかな風が取り巻いていたことを、今でも覚えている。


「ラウル先生は、本当に物知りなのね。まるで見てきたかのように語るんだもの。引き込まれてしまうわ」


 エレーナは、スヴェーロの町の名主の娘だった。名主の子供は女のエレーナだけで、いずれイーサンの家はエレーナが婿を取って継ぐということが早い段階から決まっていたようだった。だからこそつけられた家庭教師であり、そのことをエレーナも自覚しているようだった。


 淑女でありながらエレーナは当時の同年代の娘達に比べてはるかに聡明であることを求められていたし、実際に彼女はとても聡明だった。当時の娘達はただ結婚して子供を産めば良いとされていた中、エレーナには男に負けない聡明さを求められていたのだから。


「実際に見ていたのだと言ったら、どうです?」


 エレーナは乾いたスポンジのようにあらゆる知識を吸収していき、やがて僕が教えることはほとんどなくなってしまった。


 そんな時、僕とエレーナはよく、テラスの机でお茶会をした。僕とエレーナだけの小さなサロン。僕が戯れに自分の不老不死を明かしたのは、そんないつかのサロンでの出来事だったと思う。


「先生がそう言うと冗談に聞こえないわ」

「実際、冗談ではありませんから」


 そううそぶく僕のことを、エレーナはいつもと同じ瞳で見つめていた。朝の空気のように透明で、それでいて強い光を放つ、吸い込まれそうな美しい瞳で。


「それは、随分と、寂しかったことでしょうね」


 その瞳で僕を見透かしたエレーナが発した言葉は、僕が今まで一度も考えたことがないようなものだった。


「寂しい?」


 楽観的過ぎたのか、頭のネジが何本か外れているのか、僕は一度もそんな感情を抱いたことはなかった。


 親を亡くした時。友を見送った時。確かに悲しさに涙を流したし、胸にぽっかり空いた寂しさを感じた。だけどそれは普通の反応であったはずで。僕が不老不死だから感じたものではなかったはずだ。


「一人世界から弾き出されて、世界を外から眺めることになったんでしょう? 寂しいじゃないですか」


 そう続けたエレーナは、少しだけ眉をひそめて何かを考えているようだった。


 僕は人よりも長くは生きているけれど、決して人の感情を読むことに長けているわけではない。僕がエレーナの思考を読めたことなんて結局エレーナの一生をかけてもなかったし、この瞬間だって読めなかった。


「ラウル先生は、その寂しささえ感じられないんですね?」


 確認の形で発された問いに、僕は素直に頷いた。それを見たエレーナは、クッキリと眉間に皺を刻んだと記憶している。


「ラウル先生は、多分まだ長い時を生きていくんですよね?」

「そうだろうね」

「人間と関わりながら、ですよね?」

「人と関わらずに生きていけるほど、僕は器用じゃないからね」

「ラウル先生が抱える歪みは、時をかけるごとに大きくなっていくはずです。その歪みはいずれ、ラウル先生を完全に世界から弾き出してしまうでしょう」


 私と一緒に生きませんか? と、エレーナは言った。その意味がよく分からなかった僕は、言葉では答えずに首を傾げたのだと思う。


「私を通して、人の世界を見てみませんか? 先生はあまりにも独りでありすぎた。このまま歪み続ければ、いずれ一時的にでも人と関わるこの営みさえできなくなる。……そうなる前に、私を通してもう一度世界と繋がるんです」


 エレーナは、名主の一人娘。いずれは親の決めた男と結婚し、女当主としてイーサンの家を盛り立てていかなければならない。


 プロポーズのような言葉に思えても、エレーナにそんな感情は一切なかっただろう。


 ただ、エレーナは哀れんだのだ。ごく普通の人間としての感性を持ち得なかった、時の流れから外れて生きる化け物のことを。


「私の傍で私を見つめて、私の生涯を学ぶんです。私が先生の先生になります」


 僕はあの時、エレーナの言葉に何と答えたのだろう。記憶は割とどこも鮮明なのに、僕はその瞬間のことだけは覚えていない。


 ただ結果として僕はエレーナの言葉を受け入れ、エレーナの傍に留まる道を選んだ。そのことだけは間違いない。


 僕はスヴェーロに留まり、エレーナの教師として、良き相談相手として、頻繁にエレーナと顔を合わせた。エレーナが婿を取って結婚し、子供が生まれ、その子供が出会った頃のエレーナそっくりの年恰好になってもずっと、僕とエレーナの交流は続いた。


「先生って、本当に老けないのね。うらやましいわ」


 そして最後の瞬間がやってくる。


「最初にそう言ったじゃないですか」


 夫を見送り、娘に当主としての責務を譲ったエレーナは、自分が眠るベッドの横に僕を呼んだ。布団に埋もれるように横になっていたエレーナはすっかり小さな老婆になっているというのに、エレーナの瞳に映り込む僕の姿はエレーナと出会った時から……いや、それ以前の姿から、何一つとして変わっていなかった。


「私があの時言ったことを、少しは分かるようになったかしら?」


 僕はその言葉に首を傾げた。エレーナの言葉の意味が分からなかったからではない。


『私を通して、人の世界を見てみませんか? 先生はあまりにも独りでありすぎた。このまま歪み続ければ、いずれ一時的にでも人と関わるこの営みさえできなくなる。……そうなる前に、私を通してもう一度世界と繋がるんです』


 エレーナがその言葉を指してそう言っているのだということは分かっていた。


 ただ僕は、その言葉に対する答えを見つけられていなかった。


 エレーナのことは、ずっとつぶさに見続けてきた。家庭教師として初めて出会った幼い頃から、天に召されようとしているこの瞬間まで、僕はエレーナの人生をアルバムを眺めるような鮮明さで思い返すことができる。だけどそのことがどう人の世界を見ることに繋がるのか、どう世界と繋がることになるのか、僕にはさっぱり分からなかった。


「あら、困ったこと……。ラウル先生は、私が考えていたよりも、ずっと鈍かったのね」

「鈍くない人間は、不老不死なんてやっていけませんよ」


 そう答えると、エレーナはコロコロと鈴を転がすように笑った。臨終の淵にある老女とは思えない柔らかさで。


「では、宿題は引き続き考えてもらわなくては」

「でもあなたは、もう生きてはいられないでしょう?」

「私の娘の人生を引き続き見守るというのはどうかしら?」

「娘さんの人生が終わる時までにも答えが見つからなかったら?」

「その子供の、さらに孫の、ひ孫まで見守っていればいいわ。そこまで行けば、答えも見つかるでしょうから」

「随分と先の長い宿題だ」

「答えを見つければ、そこまで見守らなくても終わりますよ」


 それがエレーナの最期の言葉だった。コロコロと、少女の頃から変わらない柔らかな声を残して、エレーナは天へ旅立っていった。


 エレーナに出された宿題を残された僕は、エレーナがいなくなったスヴェーロの町に留まり続けた。さすがに姿形を変えないまま町中に居座ることは難しかったから、町外れの森の中に住み、時折町へ出かけるという形を取った。時々長期で旅に出て町の人達の印象を薄めたり、息子と名乗って人々の中で代替わりをしてみたりして、僕は長い間、エレーナの血縁達を見守ってきた。


 エレーナの娘や孫、その子孫にひっそりと僕のことが伝えられていることは知っていたけれど、エレーナの死を境に彼らに直接会いに行ったことはない。姿形が変わらない僕が名主の屋敷に出入りするのは色々と問題があるだろうと思ったからだ。


 その代わり、エレーナ達の墓にひっそりと花を手向けることが僕の日課になった。穢れのない、無垢な白百合の花束を。花が咲かないシーズンは花束を作ることは難しかったけれど、それでも長い時を生きてきた知識を使って花束を作ってはエレーナ達の墓所に花を手向け続けてきた。


 だから、本当に久しぶりのことだった。『エレーナ』と直接口をきいたのは。


「……約束を守れないっていうのは、どういうことかな?僕がエレーナからもらったのは『宿題』なんだけども」

「宿題?」

「そう。エレーナの血縁を見守りながら、その答えを見つけなきゃいけないんだ。……君で最後ならば、君が生きている間に答えを出さなきゃいけないってことになるね」


 困ったな、と呟くと、エレーナの末は困惑したように眉間に皺を寄せた。


「私が聞いていた話と違うわ。ひいおばあ様は、あなたと約束を交わしたんじゃなの?」

「約束?」

「そう。あなたを独りにしないという約束よ」


 その言葉に、今度は僕が眉間に皺を寄せた。


 そんな約束をエレーナと交わした記憶はない。相変わらず僕の記憶はどこも鮮明で、エレーナとの日々のことは今でもアルバムをめくるかのように思い出すことができる。


 だから、間違いなんてない。僕がエレーナからもらったのは宿題だ。答えがずっと出ない宿題。約束などではない。


「僕がエレーナからもらったのは『エレーナを通してもう一度世界と繋がる』という宿題です。そんな約束は交わしてなんて……」

「あら、それならイーサンの家に伝わるひいおばあ様のお言葉は間違っていないじゃない」


 だというのにエレーナの末は、合点がいったというかのように愁眉を開いた。そんな表情の変化が、いやがおうにも僕が家庭教師を務めていた頃のエレーナを思い出させる。


「世界と繋がるためには、私達一族という鍵がいるんでしょう? あなたは答えを見つけようと私達一族のことを見守り続ける。私達は、ひいおばあ様からの話を引き継いであなたのことを知り続けていく。あなたはずっと私達を見守っているから、私達のことを知っているわよね? ……この世界で、あなたが知って知られる関係にあるのは、もう私達だけなんじゃない? 私達がいなかったら、あなたはもう、世界の誰からも知られていないし、世界の誰のことも知らない。そうなんじゃない?」


 そう言われて初めて、僕はそのことに気付いた。


 家族も、友人も、不老不死のことを唯一話したエレーナも、もうこの世界にはいない。僕のことを知っている人は、もう世界のどこにもいない。長い時を生きる中でエレーナ以上に関わった人間もいないから、僕に知り合いと言える人もいない。


 ……そうか、これがエレーナの言っていた『世界から弾き出される』ということなんだ。


「でも、私達が命を繋いで次代にあなたのことを託していく限り、イーサンの人間だけはあなたのことを知り続けていく。……その予定だった。ねぇ、これって、例えあなたの傍にいなくても『あなたを独りにしない』ってことなんじゃない?」


 そしてこれが、エレーナの言っていた『世界と繋がる』ということなのか。


 確かに僕は、エレーナの言葉がなければ再び世界をさまよって、流されて生きていくことになっただろう。鈍くて楽天的な僕はきっと世間のことに関心なんて抱かないから、世界なんて見向きもしなかっただろう。エレーナの末を見守ることで、エレーナの末を通すことで、僕はずっと世界というものを見続けてきた。


「でもそれって、ある意味残酷なことなのかもね」


 そんな血を引く娘が、エレーナと同じ透き通った瞳で僕を真っ直ぐに見つめて、エレーナとは違う言葉を紡ぐ。


「あなたを私達に縛り付けているってことでしょう? ひいおばあ様の言葉がなければあなたは、以前と変わることなくさすらっていけたのに。私達を通して世界を見つめて、独りじゃないことを知ってしまったあなたが、前と変わらないままでいられるなんて思えないもの」


 僕にそのことを思い知らせた人間は、同じ口でそんなことを言った。


 エレーナによく似ているけれどエレーナと全く違う彼女は、やっぱりエレーナと同じくらい残酷だった。


「そう思ったから、あなたをここで待っていたの。直接謝りたかったから。……私はね、子供を産めない体らしいの。この歳になっても、月のものが来ないんですもの。……エレーナの血筋は、私が末。婿を迎え、養子を迎えてイーサンの家は続くかもしれないわ。だけど、エレーナの血筋は、あなたと約束を交わした血筋は、私で絶えるの」


 その言葉に僕は、答える言葉を持たなかった。エレーナの出した宿題にさえついさっき答えを見つけたばかりだったのに、それ以上彼女の言葉に何と答えるのが正解だったのだろう。


 言葉を発しようとしない僕に何を思ったのだろう。エレーナの末は最初に見せたのとはまた色の違う笑みを僕に向けた。


「私のお墓に、花束はいらないわ。あなたは、自由になっていいんだもの。でも、本音を言うとね。……花束をもらえる先代達が、私は少しうらやましかったわ」


 そう残して、彼女は墓所を去っていった。




 ……そんな彼女が亡くなったと聞いたのは、一体どれほどの時間が経った後のことだったのだろう。長くはなかったはずだ。なぜなら彼女は、結婚することも養子を迎えることもなく亡くなってしまったのだから。


 流行病だったと、町の人々が噂するのが聞こえた。元々彼女は生まれつき体が強くはなかったことを僕は知っている。ずっと遠くから見守っていたのだから。


 僕はいつもより大きく作った白百合の花束を抱えて、彼女と会話を交わした墓地に立った。『エレーナ』達は皆、同じ墓に葬られる。


 どうしてそんな形を取っているのかは分からない。僕との約束に関係があるのか、はたまた違う理由があるのか。もう答えを知っている人間は世界のどこにもいないだろう。


「……これで、うらやましくなんてないだろう?」


 墓標に新たに刻まれた名前を指でなぞりながら、僕は抱えてきた花束を下した。早朝の爽やかな風はいつもと変わらず白百合と戯れるように吹き抜けていく。エレーナが、そしてエレーナの末が纏っていたのと同じ風だ。


「……あなたが言っていた通りになってしまいましたね。僕はもう、世界と何一つ接点を持っていない。……今から人と関わろうと思うには、僕は少々、時を経すぎた」


 エレーナと過ごした時を思い返す。そしてエレーナの末が置いていった言葉を。


「僕は、あなたに縛られていたんですね、エレーナ。そして今、解放された。宿題の答えも見つかりました。僕をここに縛る理由は、もう何もない」


 僕は何にも縛られない。世界にも、時の流れにも接点を持たないということは、世界にも、時の流れにも縛られないということだ。どこへでも、いくらでも、自由に流れていくことができる。


 それは、なんて。


「……寂しい、ことなんでしょうね」


 掻き毟りたくなるような寂しさと、大地から足が浮いているような悲しさ。


 その両方を、僕は今、初めて噛みしめる。


『それは、随分と、寂しかったことでしょうね』


 寂しかったんじゃない。寂しくなったのは今だ。


 君がこの感情を置いていったんだ。この感情で、僕をこの世界に縛り付けていったんだ。


 エレーナ。君を通して見る世界は。


「なんて美しくて、鮮烈で、残酷なんだろう」


 パタリと、雫が墓標に降った。おかしいな。今日も空は澄んでいて、一日の平穏を約束するような青空が広がっているというのに。


「……今日は変な天気だね」


 無理矢理言葉をひねり出して立ち上がる。


 縛り付ける物がなくなっても、僕はまた明日もここに来るだろう。飽きることなく、白百合の花束を抱えて。僕という存在が消える、その日まで。


「おやすみなさい、『エレーナ』」


 僕の声に、また白百合の花が揺れる。


 それはまるで、僕の声にエレーナが柔らかく手を振り返したかのようだった。


【END】

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