第27話【ゼロデイ】

 喫茶店に長々だらだらと居付き過ぎた。既に日もとっぷりと暮れてしまっている。いい加減退散しなければならないだろう。そもそも複数人の高校生男女が、喫茶店で夜まで時間を潰している、というシチュエーションを知り合いに見られたらなにかと面倒くさいものだし、退店間際の俺は店員に睨まれやしないかと戦々恐々だった。

 結局何事もなく店を出て、そして何事もなく解散の流れ。いつもの駅前で、それまでひとつのカタマリだったものが弾けて別々に歩き出していた。

 先に歩き出した国木田が、こちらを振り返りながら、

「じゃあ、キョン。また明日ね」

「おう」

 それぞれの歩調で、分岐した道を。カタマリとはもちろん俺たちのことで、歩き出すと言っても単に下校することでしかないが。

 女子はどうやら鶴屋さん宅の迎えの車が全員を拾って家に送ってくれるらしい。少し遅めの時間になってしまったから、あのお方の配慮にはありがたく思う。まァ、ハルヒや長門なら多少は大丈夫だと思うから、朝比奈さんだけでも送ってくださればありがたい。

 鶴屋さんの迎えの車が来る間、朝比奈さんがこっそりと俺に、

「明日、またそのマフラーを巻いてきてね……」

 と言ってくれた。ええ、もちろんですとも。その愛らしさは俺を極寒の地から南国の楽園に誘う勢いだ。

 その隣で、古泉が意味深な笑みを垂らしてふわりと熱で浮き上がる俺に氷水を差してくる。

「では、僕も失礼致します。くれぐれも——」

 くれぐれも、なんだ。

「いえ……。ではご自愛のほどを」

 そのまま踵を返して駅前の雑踏に消えた。ハルヒがハルヒなら、古泉も古泉だな。

 鶴屋さん宅のこれまたシックで格調高さを思わせる送迎車が到着した。呆気に取られていた俺に、ハルヒが寄ってくる。

「じゃあね、キョン。明日も見たげるから、ちゃんと復習しときなさいよ。定着は反復から。オーケー?」

 お前はいつの間に俺の専属家庭教師になったんだ。

「アンタの家庭教師なんてとても身がもたないわよ」

 それはこっちの台詞だ。俺は反射的に視線を逸らし、顎をマフラーに沈める。するとハルヒが不審がりながら言った。

「学校を出たときにも思ったけど、あんた、そんなマフラー持ってたっけ?」

 いまさらそこに触れてきた。素直に鶴屋さんと朝比奈さんから貰い受けたと言ってもいいが……さて。そこで一瞬だけ逡巡したとき、鶴屋さんが見計らったかのように助け舟をだしてきた。ハルヒの両肩をやんわりと掴み、

「ハルにゃん! もうそろそろ出発進行っ!」

「あ、うん! ごめんね、すぐ行く! ……じゃあキョン。また明日ね。本当にどっか具合悪くなったりしてないわよね?」

 お前まで何を言うんだ。まさかハルヒに体調を慮られる日が来るとはな。

「冗談で言ってんじゃないわよ。だって、あんたさっきは——」

 さっき? なんのことだ。

 ふいに、ハルヒが俺のマフラーを引っぱった。本人的には巻き直したつもりかもしれないが、ぎゅっと首を絞めつけられた心地だ。鶴屋さんに朝比奈さんに、ハルヒ。このマフラーはどうにも女子を呼び寄せる習性でもあるようだ。明日と言わずに春夏秋冬巻いていようか、などという誘惑にかられる。

「キョン。とにかく、今日はほどほどにして温かくして、早めに寝ときなさい」

 さっきは勉強しろと言っていたろうに。両方はできないぜ。そう言うとハルヒはふふんと鼻を鳴らして車に乗り込んでいった。

 鶴屋さんは、女子が全員車に乗ったことを確認するとこちらに手を振り、

「じゃあね、キョンくん!」

「ええ。また明日」

 そのまま車に乗り込もうとした。そのとき、俺の方に意味ありげな視線を送ってきた。マフラーを巻くジェスチャー付きで、だ。そして車に乗り、女子を連れて風のように去っていく。

 あれだけのジェスチャーで意味を察してしまった俺も俺だが、なんだか秘密を共有してしまったような心地で、それがどことなくこそばゆかった。


 さて、気がつけば俺ひとりだ。夜のいっそう冷めた風が呼んでもいないのに吹き寄せてくる。その風は俺の肌身を削ってくるようで、鬱陶しいことこの上なかった。月は曇天に隠れているらしく、街全体に影を落とすような夜が訪れている。

 俺は無口でただひたすらに自転車を漕ぎ続けていた。道にぽつぽつと点いた街路灯のおかげもあり、行き交う人の顔くらいはかろうじて見えるくらいのおぼろげな帰り道を、自宅まで。しばらくすると、待ち遠しかった我が家が見えてくる。どうやら辿り着いたらしいな。

 俺はドアの向こうで手厚い出迎えがあることをうっすらと期待して、ドアノブを握る。重みのあるドアを引けば、

「あ、お帰りキョンくん」

 と、目の前にシャミセンを抱えた妹がいた。

「ああ、ただいま」

「ちょうど晩ごはんだよ」

 待っていてくれたのだろうかね。自宅の玄関で、ほのかな暖かみが身に染みる。

 俺は妹の頭を撫でつつ、靴をものぐさに脱ぎ捨てた。そのまま母親に帰宅の旨を伝え、自室へと直行する。制服を脱ぎ捨てて……というほどものぐさではないので、一応ハンガーに掛けておいた。ズボンも同様だが、まァ折り目正しく畳むほど几帳面でもないわけだ。

 そのまま居間へ降り、シャミセンとじゃれつく妹の相手をほどほどにしながら、親の期末試験に対する危惧の言葉を聞き流していた。俺を煽る為に用意したのかと思われるめくるめくセリフのバエリエーションに、それをまとめて語録にしてやろうかと思ったくらいだ。とりあえず、学校でも勉強しているからと言ってなんとか宥めようと試みる。そんな、ごくありふれた一家族の団欒風景を繰り広げていたのである。

 晩飯もそれなりに美味だった。いつもの家庭の味に納得しつつ、淡々と味わっていた俺を見て妹が、

「なんだかおじさんくさいよ」

 と宣う。

「そのうちわかる」

 と気もなく返した俺であった。

 晩飯を済ませた後の風呂で、じんわりと沁みる温かみにたっぷりと浸かってそのありがたみを思い知っているとき、妹の影が扉の傍に佇んでいることに気づく。少し戸を開け、湯舟に浸かる俺ををちらちらのぞき見ながら、うだうだと何か言っていた。

 一方、既に夢心地の俺はすっかり良い気分になっているわけで、

「おとなしく部屋で遊んでなさい」

 妹はのそのそと擦る様な音を立ててうごめいてから、足早に洗面所を後にした。

 それから俺は風呂を上がり、シャミセンと戯れる妹を横目に一杯の水を飲み下す。そしてもう寝ようかと思い立ったのだが、そんな俺の思惑の行き先にバリケードが降ってきたかのごとく、鞄の奥で控えていた国木田の参考書と目が合ってしまった。

 そのせいかはわからないし、ハルヒのワークショップの余韻が体内に残されていたせいかもしれない。俺は意外にも机に向かい、そのまま試験勉強を始めてしまう俺である。結局その余韻も余韻だけに決して長持ちはしなかったんだがな。集中力が切れてからは、時折来訪する妹からの鋭い蹴りを受け流したり、軽くあしらって部屋に押し返したりしていた。高校生にもなって情けない限りだが、勉強にも慣れない身だ。飽きたところで、俺は明日の準備を淡々とすませ、布団を徹底的に暖かくして、電気を消し、深い眠りにつくのである……。


 さて、問題は次の日からだ。

 もし時を巻き戻すことができれば、俺はこれから起こることを未然に防ぐことができただろうか。そんなこと、わかるわけがない。ないが、俺の周りにいた奴らが、各自で感じ取り示してくれたものを、俺は忘れてはならないだろう。

 長門が俺を分析するかの様にじっと見つめ、見せた行動。

 朝比奈さんが鶴屋さんの傍で、俺にかけてくれた言葉。

 古泉がこぼしていた、「兆し」の指す意味。

 そして、なぜ鶴屋さんが俺にマフラーを巻き直してくれたのかという、その本当の理由を。

「なぜ?」はわからない。「いつから?」と問われても、明確な答えを俺は持ち併せてない。ただ、明らかな変異が生じていることに気づけたのは、翌朝目が覚めてからなのである。

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冬風行進曲 ななくさつゆり @Tuyuri_N

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