10
少し白が浮かんでいたが、快晴だった。
紋別から国道239号線を北上して興部町へ向かう。一人旅の再開だった。
もう少し走れば興部の街が現れる。その中で国道は左折して、あの暑かった山間部に入っていくのだ。
何か面白くなかった。同じ景色を見ながら走るよりかはと思って、←中藻興部の標識のある道道334号線に左折した。
曲がってしばらくの間、北海道にはよくある直線路を走って行く。その先には小気味好いカーブがあった。そしてまた直線路、飽きがくる頃にカーブになった。路面状態も悪くない。そのうちに道は山間部に入っていく。心地好いワインディングに牧場が点々としていた。 とても気持ちの良い道だ。
そんな道も道道137号線に突き当って終わる。右折し、西興部からは国道239号線で下川町へ向かう。
山の中で下川町の塔と万里の長城?のようなものが描かれたカントリーサインと出逢った。
あっという間に下川町は終わり、空が広くなった下で名寄市のカントリーサインに出逢う。
田舎慣れした俺には名寄の街は混み混みとしていて走りにくかった。
国道40号線を左折して、道の駅・もち米の里☆なよろへ向かう。
スタンプを押したあと、蒸しトウモロコシが売っていたので、初・北海道とうもろこしを朝食代わりに食べた。
一粒一粒パンと皮が張って輝いている。かぶりつくと柔らかく、口いっぱいにジューシーが広がり、隙間から滴り落ちた。それは、とても、とても甘くて、とても良い香りがした。
もう一本食べようかと思ったのだが、今日は出来るだけ急ぎ気味で動かないと予定消化出来そうになかった。先に進んだ。
国道40号線バイパスの名寄美深道路で美深町へ向かった。下道の国道は片側一車線で交通量が多かった。
ガラガラのバイパスを走り、チョウザメとキャビアが描かれた美深町のカントリーサインと出逢った。それをカメラに収めたかは秘密だ。
美深北まで乗って一般国道の40号線に下りる。
北へ少し走って道の駅・びふかでアーモンドミックスのソフトクリームをデザートに食べた。だが、名寄で食べたトウモロコシの甘さが蘇ってきて、もう一本食べればよかったと少し悔やんだ。
清水橋の標識の上に音威子府村のカントリーサインはあった。
国道40号線は天塩川沿いに走るつまらない道だった。トラックやダンプが行き交い、特に見るべき景色もないのだ。というよりも、もう普通の田舎の風景には、感動すら覚えなくなってしまっている、贅沢な俺なのだ。
音威子府の街に入り、国道40号線と、牛乳がとても美味しかったピンネシリのある中頓別へ向かう国道275号線との分岐の標識が現れて、少し進んだ先で、俺は警察官に駐車場のような空地に入るよう誘導された。
そこには交通安全の襷をかけた老若男女がズラリと立っていて、その啓発運動を取材するマスコミ連中も混ざっていた。
俺は小学生と中学生から交通安全の手作りお守りを手渡された。
嬉しいと思う俺が自然に存在していることに、俺はもう驚くことはなかった。
そして、その場面を地元のテレビ局のカメラと新聞社のカメラで撮られた。
「気をつけてね」と手を振ってくれる子供達に頭を下げて、俺は国道に戻った。
あんな可愛い子供達の未来を壊すような行為は、絶対に許せない。俺はそう思ったものの、何の役にも立たないことを再び自覚した。
道の駅・おといねっぷでスタンプを押して直ぐに音威子府駅に向かった。駅構内にある『音威子府そば』で天玉そばを食べるんだ。
ノスタルジックな駅舎に入り奥にある立ち食いに一直線に向かった。何人か出来上がるのを待っている。
少し待つと蕎麦は出てきた。飲み込む感じのボソボソ田舎蕎麦で、腹を満たすものという感じがしたのだが、何か旨かった。
腹が減っていたから、隣の先客が半分程食べた頃に食べ終えた。汁まで飲み干そうかと思ったが、身体のことを考えて三分の一残した。やはりトウモロコシは一本で良かったのだと納得した。
国道40号線をまだまだ北上する。段々と雲が濃く厚みを増していく。
道の駅・なかがわでスタンプをゲットしたらすぐに折り返した。それ以上北の山には靄がかかっていた。中頓別の道の駅・ピンネシリを先日クリアーしておいて良かったと思った。もし今日進んでいれば、間違いなくカッパを着る羽目になっただろう。
音威子府の交通安全運動の啓蒙活動は終了していた。
ただ移動している。そんな気分で相棒を走らせた。ミッションの調子は相変わらず、信号待ちが億劫だ。
美深で国道40号線から国道275号線へ右折する。ひたすら山を行く。美深峠の木製看板の先で、-41.2の数字が書かれた幌加内町のカントリーサインに出逢った。
幌加内町は南北に長い。嫌になるほど長い。
朱鞠内湖が木々の隙間に一瞬開けたが、川のようだった。
丁字路の標識があった。右折は道道528号線。朱鞠内湖畔へ向かう道らしい。左が国道275号線。碧水、添牛内の文字。何処へ向かうのか全く理解出来なかった。見渡しても俺しかいなかったが、キッチリと一旦停止して左右を確かめた。安全第一だ。
山の中を何も考えぬままに相棒を走らせる。
国道239号線の分岐の標識に書かれた羽幌・苫前の文字がとうの昔のように感じられた。
道の駅・森と湖の里ほろかないは、長い町内を三分の二ほど走った政和にあった。
やっと着いたというのが正直なところだった。ところが、道の駅の建物にはスタンプしかなく、日付印は道を上った所にある温泉施設内にあるというのだ。俺は怒りが湧いた。あまりにもひどい集客のやり方だ。本当ならここで飯を食うかと思っていたのだが、すぐに日付印を押して来た道をUターンする。
途中の添牛内で見つけていた蕎麦屋『霧立亭』へ向かい、水が運ばれて来た時にメニューも見ずに、テーブルまでの動線にいた客が食べていた天もりの大盛を頼んだ。
蕎麦も旨かったが、やはり野菜が旨かった。北海道産野菜の旨さと感動を記憶した日になった。
満腹感で国道275号線から国道239号線へ進んだ。
下り坂の途中で、頭と四足が黒い羊が描かれた士別市のカントリーサインを見つけ、やっと幌加内が終わったとホッとした。
直ぐに坂が緩やかになると、一気に空が広くなった。
士別の街に入り、建物の密集を見た時に懐かしさを覚え、国道40号線を右折した。
車列のうしろをのんびりと走った。かなり疲れているのがわかったが、道の駅・絵本の里けんぶちで今日の道の駅は終了だと思うと、幾分気が楽になった。
道央自動車道の士別・剣淵ICの出入り口を過ぎたところに、本とカラスの剣淵町のカントリーサインはあった。
道の駅・絵本の里けんぶちでスタンプを押したあと、タンクバッグの中のお茶を取り出して少し休憩をとった。
あとは和寒町で道道99号線に入り、鷹栖町のカントリーサインを撮ってから旭川へ行くのだ。
鷹栖町には高速は通っていても国道が通っていなかった。旅の準備中に地図を見ていて思ったのだ。さて、何処にカントリーサインがあるのやらと。隈なくネット検索して、鷹栖町のカントリーサインを探すのに苦労したと書かれたページを偶然目にしたのだ。道道99号線には確実にカントリーサインがあるらしかった。もし、そのページに出会わなかったら、こんなにのんびりとしていられないことだろう。
疲れがドンドン増大していきそうに思えたので、重い腰を上げて相棒に火を入れた。
直ぐにトマトがスキーをしている和寒町のカントリーサインに出逢えた。あとは鷹栖町を残すのみだ。
道道48号線左の標識を見た時に小便がしたかったのを思い出した。さっきの道の駅で行こうと思っていたのだが、相棒を下りた時に感じた疲労感に忘れてしまっていたのだ。左にあったセコマに飛び込んで尿意を処理した。
ホッとしながら買った缶コーヒーを開けた。
何気なく空を見上げていると、稚内212㎞の文字が標識に書かれていた。頭の中で“三時間半で着くのか”と当たり前のように考えていた。
コーヒーを飲みながら地図を確認する。道道99号線は、この先の交差点を道道48号線に右折し、少し走ると二股になっている。それを左に進めば、それが99号線だ。
コーヒーを飲み干して店内のゴミ箱へ捨てに行った。
相棒に跨り火を入れて、ヘルメットを被る時に気合を入れた。
和寒駅前の交差点を右折すると、一見その先は行き止まりのように思えたのだが、二股の標識が掲げられていたので安心した。
道道48号線と99号線の二股は、複雑な交差点の形になっていた。正確には交差点の真ん中が広い五差路だった。
旭川まで39㎞とあった。一時間もかからずホテルに辿り着けるだろう。そう思うとまだまだ頑張って走れそうだった。
道道99号線は何度も角々と曲がっていて、その度に一旦停止があった。俺以外誰もいないのに滑稽な気持ちになったが、タンクバッグに大切に仕舞っている子供達に貰った手作りの交通安全のお守りが、こんな俺に交通ルールをしっかりと守らせた。
田園地帯の最後のカーブを曲がると、道は山へと続いていた。
山の中で、トマトとトマトジュースが描かれた鷹栖町のカントリーサインに出逢えた。
これで今日の予定は終了した。
明後日の朝、沼田町を走れば、この辺りで残るのは置戸町と訓子府町だけになる。道央をこなしながら考えることにしよう。
道道99号線は道道72号線に変り、途中の春光4条の突き当りには陸上自衛隊の旭川駐屯所があった。馬鹿げた革命話なんてナンセンスだと思う。いや、本気でそう思うほどに、この北海道を大切に思っているのかもしれない。俺は漠然とそう思えた。
ホテルはレンガ造りのジンギスカンビアホールの傍にあった。
背の高い色白の綺麗な女性がフロント業務で働いていた。俺は伽奈を思い出した。
疲れているのだが、彩香と伽奈のことが頭の中を埋め尽くした。
彩香にメールを打っても返事は直ぐには返ってこなかった。返ってきたのは俺が思い出の鳥串から戻ってきて、紋別で飲み残したウイスキーをラッパ飲みにしながら、マルッと空いた明日を丘馬鹿になって脳味噌を流動化させようと思った時だった。
仕事は一段落したそうで、ハートマークの連打のあと『マコチンが札幌にいる時に、休みが取れそうです』そう書いてあった。
明後日、札幌に着いたら髪を切りにいかなければと思った。
朝は早く目が覚めた。
背の高い色白の美人に見送られて、旭川のホテルを出発した。
昨日の疲れはとれたのか、とれなかったのかはわからないが、今日は丘馬鹿になると決めた。
空は曇り空で、走っていてもそれほど楽しくはなかった。
それでも、西神楽の駅を過ぎた辺りでは、青いなついろが空を覆い尽くしていた。
中富良野のラベンダー畑も高貴な色に染まっていて、俺は憧れの北海道に来ているのだと実感出来た。
くっきりとその姿を見せていた遠くの山並みが、ひと月ほど前に見た景色とは違ってスフマート技法で描かれたように霞んでいる。土色だった畑にも麦が伸びて、少し麦秋色を漂わせていた。何処をどう走っても見える景色は違うのだ。
新たな美瑛・富良野で、俺は益々馬鹿になっていく。彩香と見た景色も、今日はいっそう違った景色に見える。
飯も食わず丘を巡り、ジェットコースターの路の傍らでコーヒーを点てて、雄大な大雪山の景色と共に飲み干した。
ガラ携で時間を確認した時に、メールが来ているのに気がついた。
多くが迷惑メールだったが、その中にショートメールが混ざっていた。伽奈からのものだった。
『元気ですか?走っていますか? まだ日程は決まりませんか?』
たった二行のメールだった。
俺は返事を打った。『次の土日、場所は札幌で』一行だけのメールだ。
返信を待たずに俺は相棒に跨った。
脳味噌が耳の穴から漏れ出てきそうなぐらいまで、俺は俺自身を呆けさせた。今日は腹が減らない。たまにこんな日があるのだ。その代わりと言っちゃあ何だが、ソフトクリームだけはいくらでも胃に収まった。夏だった。
帰りに、二人の女の人生が交錯していた東川の街を流して旭川へ戻った。そういえばこの町も、国道は通っていなかった。
宿に近づくにつれ、疲れがぶり返してきていることを自覚した。明日の札幌行きの為にコンビニ弁当といつものを二本買い込んで、今夜は早く床に就こうと思った。
しかし、伽奈の返事はOKで、彩香と伽奈とやり取りを繰り返し、途中で札幌の美容室に数件電話を入れてカットの予約を取った。伽奈は北区に住む親戚の家に泊ると言い、彩香は俺と一緒に泊ると言うので、日曜日の昼に札幌駅で待ち合わせることになった。
結局、眠ったのは日が変わるあたりだった。
今日も快晴だった。
タンカースジャケットはクリーニングのビニール袋に入ったまま、荷物の一番上に括りつけられている。
先ずはカントリーサインを撮りに沼田町へ向かった。
一条通を走り国道12号線に出る。美瑛川と合流した忠別川に架かる旭川大橋を渡る。忠別川はこの橋の先で石狩川と合流する。
一つ目の交差点で右折して環状一号線・道道90号線で沼田へ向かう。車なら、もう少し標識が手前にないと、右折レーンには並べないと思った。
旭川新道の国道12号線を越えると道道98号線へと勝手に変わる。街を離れると交通量がドンドン減っていき、そのうちに俺の貸し切り道路になった。
快調に快晴の下を快適に進む。
快、ばっかりだ。
それぐらいこの道は気持ちが良かった。
沼田町まで信号にも引っ掛からずに走れた。それも良かった。
道はまた勝手に国道275号線に変っていた。
雨竜川に架かる橋を越えると、尻を光らせた蛍の画が描かれた沼田町のカントリーサインはあった。
Uターンして多度志のセコマで朝飯を食った。食いながら、このあとどう進むかを考える。向日葵が咲き誇っていない今、北竜町を通って札幌へ向かう気にはなれないし、交通量の多い日本一長い直線国道を走っていくのもストレスが溜まりそうだ。一度燃料を入れてから考えよう。そう思った。
近くのホクレンのガソリンスタンドで燃料を入れた。
店員に、「ここは道北になりますか?」と聞くと、「道央の赤いフラッグですよ」と言ったので、俺はホクレンフラッグを買った。
シーシーバーの背面に括り付けられたまんまのバッグの口を開いて、それを他の二本と同じように押し入れた。あとは道南一本だ。
俺は買ってから一度も、フラッグを開いたことはなかった。それどころか、このバッグから出したことがないのだ。旗なのにはためくこともなく、ビニール袋の中で丸められていた。
旗を見て、黄色いハンカチがはためいているであろう場所に行ってみようと思った。
道道281号線を走り、途中の山中で標識どおりに右折し国道233号線に出て、秩父別ICから高速に乗った。
交通量の多い市街地を走るなんて馬鹿馬鹿しいと感じたが、それほどいい景色が流れる訳でもなくて、とてもつまらないと思った。
岩見沢ICで高速を出て道道38号線、30号線、749号線で栗山町へ入り、道道3号線を左折して夕張市へ向かった。
道道749号線の途中にあった麦畑がとても綺麗で、道端に相棒を停めてしばし休憩した。
入場料金を払って健さんのいた世界に足を踏み入れた。
撮影で使われた長屋の建物が立っていて、その奥に、幾枚もの黄色いハンカチがはためいていた。
何度か見た記憶がある程度の知識だったが、実際の劇中車や写真なんかもたくさんあって、沢木が好きだった健さんを少し感じることが出来た。
道道3号線で栗山、由仁と走り国道234号線へ。南下して国道274号線を右折して、道の駅・マオイの丘公園でスタンプをゲット。
暑くて暑くて堪らない。白い恋人ソフトで身体を冷やした。
北広島市のカントリーサインに出逢い札幌に入る頃には、ここが本当に北海道なのかと思うぐらい、道には熱風が吹いていた。
予約した時間よりも随分早かったが、俺はバイク屋に相棒を入れた。
丁度空きが出て、直ぐに対応が出来ると言うのでありがたかった。
一時間近くを店内でやり過ごし、暑過ぎてすみれの味噌ラーメンは食う気にはなれず、ハンバーグにしようと思い豊平区の『カリー軒』へ向かった。
大体の見当で走っていたので、白石まで行って戻る形で月寒にある店の前に着いた。すると、女性店員が出て来て「今から食べられます?」と声をかけられた。何でも、昼の営業のオーダーストップになるのだという。俺は普通のハンバーグにライス大盛を、ヘルメットをミラーにかけながらその店員に注文した。
前に来た時に、次は添えられているサラダから食べて、流れ出る肉汁が薄まらないようにしようと決めたはずなのに、空腹に負けた馬鹿な俺は、そんなことも忘れてナイフを突き刺してしまった。流れ出る肉汁を見て思い出すのだ。胸を裂かれて以来、俺はこんなに落ちぶれてしまったんだ。
少し落ち込みながら、カットしたハンバーグを口に入れる。半端ない旨さが口中に広がった。こんな気分でも旨いハンバーグは、最高に旨いハンバーグなのだと実感した。
満足感でいっぱいになった俺は、ゆっくりと札幌の定宿になりつつあるホテルへ相棒を走らせた。もう地図を見なくても大丈夫だった。
荷物を降ろし、急ぎ早にシャワーを浴びて身体を乾かす間にPCで北24条にある美容室までの移動時間を調べ、そのついでに天気予報を調べた。
雨の日がズレていた。
俺はフロントへ連絡して、もう三泊延泊出来るかどうか確認した。
返事はフロントで聞くことにした。
ロンTにアロハを羽織って、俺は部屋を出た。
延泊は大丈夫だったが、出費がかさむ。
帰りは雨になるかもしれないので傘を借りた。ホテルのネームも入っていない、普通に売っている安物の軽い透明なビニール傘だ。気分的に楽に扱える。
真駒内までホテルのシャトルバスで行き、地下鉄で北24条までは一本だ。
少し時間が早かったのでドーナッツ屋で時間を潰し、ようやく美容室へ。
カットしてもらいながら、この季節なら何処へ行けば良いのか色々と話を聞いた。カリー軒のおねぇさんと同様、夏は積丹がいいらしい。
兎に角、彩香の独占欲と雨の合間を縫って、道央を巡らねばならない。
最後にドライヤーで乾かしてもらっている時に、浦見恭平に連絡しなければならないことを思い出した。双生児の弟・正平には釧路では随分と好くしてもらった。思い返せば、あれほど波と水音のない、風が木々を揺らす葉音と鳥や動物の声や動く音しかない川下りを経験したことがなかった。貴重な経験をさせてもらった。それに、正平の素面の時と酒を呑んだ時のギャップが非常に面白かった。
格好良く鶏冠をジェルで整えてもらったあとに、店の缶バッジを旅の記念に貰って店を出た。
旅は人を豊かにする。と、誰かが言った。俺の濁った心にも、他者からの優しさを素直に受け入れることが出来る下地を作りだしていた。
地下鉄北24条の駅に下りる前に、浦見恭平に電話を入れた。残念ながら留守番電話が嫌味のない口調でメッセージをどうぞと言った。
どう完結に言葉を残せばいいのか戸惑ったが、名前を言ったあと、しばらく札幌にいるので、平日に会えるのを楽しみにしているとだけを残した。
大通を過ぎてすすきので下車した。
この街のことは、まだまだ理解出来ないでいる。以前、昼間歩いた感じでは、飲・食・性の区切りはある程度あるようだったが、少ない日数では、この街を満喫するには至らないと答えは出ていた。
スープカレーは酒に合わない。夜の大通公園のビアガーデンや一人ジンギスカンは、旨さよりも虚しさが残る。寿司は予約しないと難しい。フラリと入れる札幌でしか食えない物が、風来坊の俺には浮かばなかったのだ。だから、五坪に行って厚岸の牡蠣と国稀で、ホテルへのバスの時間までをやり過ごした。
缶ビール片手にバスに乗り込むと雨が降り出した。
ホテルへのシャトルバスの中、豊平川通の東岸からミュンヘン橋を渡っている時にガラ携が震えた。浦見恭平からだった。直ぐにマナーモードのボタンを押して留守電に変えた。
横に座っていた若いカップルの、中の下の顔をした女が、「ガラ携って。ウケル~」と小さく指差して言ったのを、その隣にいた彼氏が、その差した指を手で制して、「馬鹿」と言い、チラリと見た俺に軽く頭を下げた。
若くてものを知らない馬鹿な女と、少しだけ知恵があり危機管理出来る男のカップルだった。
本当に賢い男は、こんな女を選ばない。ちゃんとTPOで言葉を選べない人間は馬鹿なのだ。年端を重ねてもなお、言葉を選べない人間は、相手に殺されても文句の言えない人種なのだと俺は思う。
使いようによって言葉は、人を傷付け、人の心を殺す。実際に死ぬことだってある。
俺も何人も殺してきたのだと、自分自身で認識している。全ては金の為、全ては自分がいる世界で俺が生きるためだった。そいつらの死は、金というものを生んだり、誰かの得になったりしたものだ。
傘は借りたまんま部屋に戻って、浦見恭平に電話をかけた。
――もしもし、なぁに、札幌に来てんの?いつまでいるの?――
言葉が忙しない。まだ仕事中のようだった。
「あっ、あと一週間ぐらいはいます」
――そう。したら、火曜日はどうよ?――
いとも簡単だった。俺も大事なひと仕事を終えてワンクッションあった方が気は楽だ。
「わかりました。火曜日で。すみません仕事中に」
――なんもなんも。じゃ、月曜に電話するからね――
そう言って電話を切られた。もしかすると迷惑だったのではと感じた。
その夜深くなって浦見正平から電話があった。
口調が滑らかだったので、正平は酒を呑んでいるのだと理解した。
――恭平、今週末締めの仕事で忙しくしているらしい。あんたが気を悪くしていないか心配してた――
なるほど、そういうことだったか。
「大丈夫です。楽しみにしていますよ」
――良かった。俺も、アイツは、ほったら細かいこと言う奴でねぇって言ったんだ。素面の俺の相手を平気な顔でしてたからなぁ――
確かに、前日の公園で呑んで意気投合した人間が、次の日は不機嫌そうに黙りこくったまんま、午後の一日を過ごしたのだ。
「釧路ではお世話になりました。あの体験は、貴重なものになりそうです」
――あっ、そうだ。嫁が礼を言っとけって言ってた――
世話になったお礼に、正平に焼き菓子を持たせたのだ。
何だかホワッとしてくる。こんな会話など、もう何十年も昔にした以来だった。
その夜はぐっすりと眠れた。
朝風呂にホテルの温泉に入った。
誰もいないと思っていたのに、露天風呂には昨日の若いカップルの片割れがいた。俺の顔を見て軽く頭を下げたあと、胸の傷を見てギョッとした。
雨は九時頃止んだが、空から雲は消えなかった。
何処か走れそうな所はないかとマップを検索した。しかし、降水確率は軒並み高く、そのうちに窓にも雨粒が当たる音が聞こえてきた。
十一時になったので、地図とPCを持って近くのハンバーガー屋へ移動した。そこで時間を潰し、部屋に戻ると、ピンと張られたシーツが気持ちよく俺を迎えてくれた。
明日からのために疲れを取ることに専念した。
彩香は昼前に到着した。
車寄せの屋根の下に停まったブルーのジムニーの車体には、水滴が無数に引っ付いていた。
助手席に乗り込んで、甘い薫のする彩香の唇に軽くキスをした。
夜はいい店を予約出来たので、昼はカフェでワンプレートランチを食べて、彩香の希望で白い恋人パークへ行った。
流石に土曜日で、駐車場に入るまでにもかなりの時間を費やしたが、会えなかった時間を話すにはちょうど良かった。
彩香は事細かに訊いてきたが、話せない話が多過ぎるのも辛かった。
家族連れとカップルと団体客しかいない園内は、俺一人では来ることなどない世界だった。無邪気に楽しむ彩香に手を引かれるようにして歩き、初めてチョコレートを作ったりした。こんななりしたこの俺がだ。
この前、道の駅・マオイの丘公園でも食べた白い恋人ソフトをまた食べた。
「ソフトクリーム好き?」
「あ、うん」
「可愛い」
そう言って彩香は笑った。
俺には、可愛いなどと言われた記憶がまるでなかった。今までの女達も言葉にしたことがない。昔の俺は、女を溜まった欲望を吐き出すための物としか見ていなかったのだ。心を寄せたことなどないに等しい。それなのに今は、目を輝かせながらクッキーの製造ラインに見入っている横顔を見るだけで、俺の心は穏やかな凪のようになり、きつく抱きしめたくなってしまう。やはり変わってしまったのだ俺は。
夕刻になっても雨は止まなかった。
ホテルに戻って彩香のチェックインを済ませ部屋へ向かう。
温泉から戻る老夫婦とエレベーターに乗り込みドアが閉まった。彩香は握る手を強めた。
部屋に入るとお互いの感情が一気に溢れ出し、求め合った。久し振りの温もりと快感に二人共没頭した。二つ折りにした彩香の一番奥に俺は吐き出した。
彩香は俺の下で、ピクリとも動かなくなった。俺は汗の滲んだ額に口付けをした。
しばらくして俺が離れようと動くと、彩香は下から手足を巻き付けた。
「抜いちゃダメ。まだこうしてて」
そう呟くような小声で言った。
店の人が言ったとおり、夕暮れから夜になると藻岩山から見える札幌の夜景が綺麗だった。これで雨に煙っていなければと思うのはしかたのないことだった。
赤ワインとコース料理のディナータイムはあっという間で、ロープウェイが麓に着くと、彩香は少し淋し気な顔をした。
呼んでいたタクシーに乗り込みホテルへ戻った。
俺も彩香も明日のことは一切口にしなかった。俺が口にしなかったのは、会った時から彩香が微妙に緊張しているのがわかっていたからだった。
彩香はその緊張を忘れるために俺を求め、何度も何度も身体を震わせ、気絶するように眠りについた。
俺は起こさないようにスルリとベッドから抜け出して、ガラ携で目覚ましをセットして、冷蔵庫から買い置きしてあるいつものを取り出して半分ほど喉に流し込んだ。
PCを開きニュースをチェックしたが、高峰の続報はあれから一度も目にすることはなく、他に俺が気になるような記事もなかった。
もう俺の手から離れたのだ。俺には関係がないことなのだ。丘崎も京都に戻ったことだろう。五十川彰俊が所属しているJ-Rowanという学生グループがぶち上げた狂った幻想は、もうすでに仲野達が闇に葬ったのだろう。そうに違いない。船本も東京へ帰り、三宅雅和も今の暮らしを続けていく。徳永だって平穏を取り戻し、俺だって自分の旅を続ける。
一缶飲み干して、静かに彩香の隣に潜り込んだ。
柔らかな肌の感触と、彩香の醸し出す香りに触れながら、俺はゆっくりと瞳を閉じた。
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