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 しばらく男は遠巻きに、こちらをチラチラと見ているだけだった。死角になる右舷側を見張るために降りてきた訳ではなく、目的は俺だったようだ。そして、右手を軽く耳にやってから、やっとこちらに歩みを向けた。


 俺はそれに気づかぬふりをしながら、漁船の高峰達を隠し撮りするためにタンクバッグの上に無防備を装って置いてあるカメラに、携帯コンロの保護に巻いていたタオルをレンズが隠れないようにして慎重に被せた。ふと、タンクバッグの底に仕舞い込んである、もう被ることのないであろうキャップのことを思い出した。キャップのうしろの調節部分からレンズを出せば……。しかし、そんな余裕はなさそうだ。


 「こんにちは。どっから来たの?」


 北海道訛りの声で初めて気がついたように俺は振り向いた。その5メートルぐらい先にはひょろりとした体躯の男が立っていた。柘榴色した安物で薄手のナイロンのパーカーに、下は灰色の履き古したスウェット、足元はくたびれくすんだ青のスニーカーを履いた、見るからに頼りなさそうな大学生ぐらいの若い男。そいつが引き攣った作り笑いを浮かべながら近づいてきていた。幼さが消えない顔つきには殺気よりも怯えが浮かんでいる。口の周りには黴のように見えるまだらな無精髭が生えていた。さっき手をやった右耳にはヘッドセットがついてあった。これで車の中にいる奴らと連絡をとっているのだろう。わざわざ俺に接触してきたのは、普通の旅行者なら右折して稚内方向へ向かう交差点を車のうしろにつくように左折したのと、俺のこの髪型で興味津々といったところか。相棒のナンバープレートを一瞥くれたはずなのにそう訊いてきた。つまり彼らには、俺を警戒しなければならない何かがあるということだ。素人丸出しだ。


 「滋賀から来てるんすよ。地元の方ですか?」


 「あ、ああ、まぁ」


 会話が続かない。俺がもっと若いと踏んでいたからか?それとも、上からの指示がないと動けない傀儡か?もしくは、自分の狭い空間の中にいる人間以外の他人と接触するのを避けてきたタイプか?男は歪な笑みを浮かべている。まったくもって威圧感がない。


 「利尻富士が綺麗に見えますねぇ。こんな綺麗な景色を毎日見れるなんて、すごく羨ましいですよ」


 本当に沼津の西浦辺りから見る富士山を思い出させる。俺は笑みを浮かべながら彼の答えを待った。


 「ここは有名なのかい?」


 「えっ、ここって有名なんですか?」


 頓珍漢な会話を仕掛けてやった。


 質問に質問で返した俺に対して、笑っていた男の目の奥が一瞬イラついた。正直な奴だった。やはり頼りなさは消えない。この若いのの動向を車の中から伺っているであろう奴らは、いったい何者なのだろうか?


 「それは知りませんでしたわ。ずっとオロロンラインを走ってきて、何処かいい景色を見ながらお茶したいなぁって思ってたんです。そしたら、目の前を車が何台かこっちに行ったから、何かええ景色でもあるんかなぁって思たんですわ。目の前を横切った車に感謝せなあきませんわ」


 俺は話しながら、今まで見てきた悪人達の分類リストを頭の中で開いてみたが、彼のようなタイプを偵察に使う犯罪集団など見当がつかなかった。ふと頭に浮かんだものがあったが、まさかと勝手に常識が打ち消した。


 男は途端に俺への興味を失ったようだった。俺の声が届いたヘッドセットの向こうから指令が届いたのだろう。車内の奴らは、俺のことを全くの旅行者、ソロバイカーだと認識したみたいだった。


 けれど、俺の中の好奇心は増々高まっていった。あのオンボロの白いワンボックス内にいる奴らが何者なのか、見当ぐらいは掴みたかった。


 「もしかして、ここの漁師さんですか?」


 「いや、漁師ではねぇ」


 俺と話すのが少し苦痛のようだった。それにしても、敬語というものを知らないらしい。昔なら直ぐにボコっているところだが、今の俺にはそんな無駄な労力を使えるほど余力はない。


 「あっ、そうなんですか。ごめんなさい。魚港におったから、てっきり漁師さんかと思って……」


 男の気持ちがあたふたしているのが手に取るようにわかった。しきりにスウェットの右後ろのポケットに手をやって、自分が運転していたオンボロの白いワンボックスと、高峰達が乗り込んだままの漁船の両方にチラチラと視線をやっている。それでもワンボックスの中の奴らはチャレンジャーだった。


 「今の時期はいいっしょ、バイク気持ちいいべ」


 俺を見ることもなく、興味もないのにバイク絡みの言葉をそう並べた。話し掛けたのに直ぐに立ち去るのは変に思われるとでも指示されたのだろう。そんな継接ぎのような会話をするぐらいなら、「気をつけてね」と一言投げ捨ててからこの場を離れればいいのにと思う。でも逃がすものか。


 「気持ちいいです。俺もね色々走って来たんですけど、北海道は格別ですわ。来て良かったです。北海道が大好きになりました。お兄さんは道産子でしょ?どんだけ素晴らしい景色でも、いつもの風景じゃ見慣れますよね」


 「ま、まあね。でも、滋賀県には琵琶湖があるっしょ。琵琶湖もいいんでないの?」


 高峰達が乗り込んだ漁船とワンボックスへ交互に視線を向けながらも、北海道を褒められて嬉しそうな顔つきになった男はそう言葉を続けた。


 「琵琶湖へ行かれたことあるんですか?」


 「い、いや、行ったことはないけど、滋賀県と言えば琵琶湖っしょ。間違いねぇべや」


 そんな話をしたい訳ではない。滋賀県へ引っ越した俺だって、滋賀県と言えば琵琶湖しかないのだ。そう思う。


 「そうですよねぇ。琵琶湖ですわ」そう俺が言うと、二人して笑った。気持ち悪い微妙な空気になった。


 「ところでお兄さん、お兄さんは稚内が地元なんでしょ、稚内で何処か旨いもの食わす店を知りませんかねぇ?色々調べたりしてるんですけどね、そこはやっぱり地元の人に聞くのが一番やなぁって。良かったら教えてくれませんか?」


 「いやぁ、地元といっても実家は旭川で、今は大学がヨコハ……」


 ワンボックスから喋り過ぎだと指示でも出たのだろう、途中で言葉を切った。“ヨコハ”とは横浜のことだろう。それに大学生らしい。益々疑問だ。


 「へぇー、学生さんですか。横浜の」


 大学生はバツの悪そうな顔をした。喋り過ぎを後悔しているようだ。


 もうこれ以上は引き出せなさそうだ。そう思った時にちょうど、船室から高峰と丘崎、そして漁船の持主であろう年配の男が姿を現せた。年配の男の方が力関係では上なのだろうか?ジャンバーのポケットに両手を突っ込んだまんま、方向を指すように何度も顎を挙げながら何か丘崎に話していた。


 「したら、気をつけて」


 大学生は慌ててワンボックスの方向へ早歩きで戻っていった。ひょこひょこと動く様は、やはり悪人にはなれないみたいだ。


 俺は素早くタオルの下の画面に指を触れRECのマークを点けた。そして、高峰達が大学生に気づかないことを祈った。


 そのワンボックスは静かなままだった。ここで襲うつもりがないことは明白になった。では、何のために高峰や丘崎を観察しているのだ?あの二人から何を得ようとしているのだ?何も浮かんでこなかった。


 丘崎は年配の男と再び船室へと消えていった。高峰は、横付けされている漁船の海側を通って呑気に舳先へ行き、タバコに火を点けて美味そうに煙を吐き出した。ワンボックスからは、移動中の高峰は死角になっていたはずだ。こういうところも素人感を否めない。まだ、大学生をここに残しておいた方が良かったのに。もしかしたら、あの横浜の大学生以外に車を運転できる者がいないのか?余計にワンボックスの彼らが何者なのかがわからなくなってきた。もしかすると、高峰と丘崎が立派なヤクザだとは知らずにしている行動なのではないだろうか?そうなると、彼らの身が危ない。学生相手にタマを獲ることはないだろうが、彼らの親兄弟は随分辛い思いをすることになるだろう。


 さっきの大学生は無事にオンボロのワンボックスに辿り着き乗り込んだ。


 俺には関係のない大学生が無事に車まで辿り着いたことに、何故ホッとしたのか自分自身理解出来ていなかった。一方で、帯広で警察に俺をチクった多喜川の口から、金髪モヒカンの男の話が高峰に流れていないかが気になっていた。ああいう見た目だけの奴はちょっと脅されればベラベラと口を割る。吹聴されていれば面倒事になるかもしれない。けれども、そんな危険と俺の中で生まれた好奇心を秤にかけたが、どう考えても好奇心の方が重かった。


 横浜の大学生が運転するオンボロの白いワンボックスのブレーキランプが点いた。そして、Uターンして港を出た直ぐの場所で、ハザードを焚くことなく路肩に停車した。俺が座った位置からはバックドアの右端とテールランプだけが見えている。俺のことは部外者だとわかって、いつでも高峰達を追尾出来る態勢を整えたようだ。大学生は運転だけは上手いようだった。でも、その場所では、高峰の行動を把握することは出来ない。中の奴らも含め、本物の間抜けな集団だ。


 俺は残った湯を沸かし直して、もう一杯コーヒーを淹れた。ゴミはセコマの小さなビニール袋に入れる。対照的に、高峰は吸い終わって火のついたままのタバコを、指でポンと弾いて海に投げ入れた。


 俺も昔は高峰と同じだった。海を見て綺麗だと思っていても、そんなちっぽけなことが汚染の原因の一つになるなんて考えもしなかった。金儲けをするのが第一で、それに影響なければ環境だって人の心だってどうでもよかった。


 コーヒーを啜りながら、顔は利尻富士の方向を、サングラスの奥の視線は下の漁船に向けていた。


 飽きたのか、高峰は一人で漁船を降りて車の助手席に乗り込んだ。何も手に持っていなかった。高峰は閉めたドアをまた開けて、またタバコをふかし始めたようだった。車の向こうで紫煙が立ち昇っているのが見えたのだ。


 丘崎が船室から姿を現した。続いて出てきた年配の男の丘崎に対する対応がさっきとは違っていた。何か脅されたのか、それとも金でも貰ったのか、さっきとは打って変わって、ペコペコと頭を小刻みに下げながら船を降りた丘崎を車まで見送った。高峰も丘崎も何も手に持っていなかった。何かあるなら今夜だろうか?それにしても二人は何を取引しようとしているのだろうか?


 俺がカメラの録画を止めると、高峰達が乗った車は直ぐに向きを変えて港から出ていった。二人共俺の方には見向きもしないでだ。


 横浜の大学生が運転するオンボロの白いワンボックスは、丘崎が運転するレンタカーが通り過ぎて五秒後に発進した。


 残された年配の男はまだ腰を折り、頭を下げていた。そして、頭を上げるとブツクサと言いながらこちらに歩いてきた。


 「ろくったらもんじゃねぇっぺ」


 俺には目もくれないで、じいさんは念仏を唱えるように何度もその言葉を呟いていた。丘崎から脅迫を受けたらしい。


 俺はコーヒーセットを片付けてタンクバッグにしまい、しっかりとタンクバッグを相棒にセットし直した。


 相棒に跨りながら、俺はさっき撮った映像を確認した。


 丘崎もだいぶと老けた。高峰も丘崎も何も持たずに船から降りている。とすると、あの漁船の持主のじいさんは運び屋で、仕事はこれからか?いったい何を運び込むつもりだ?それにあの学生達がどう関わっている?


 兎に角、今はこれ以上打つ手はない。俺の好奇心もここで打ち止めだ。そう思いながら相棒のエンジンをかけた。


 そこで一つ閃いた。ブツクサと呟いていたじいさんから何か訊き出せないだろうか?


 じいさんはもう随分と遠くを歩いていて、いくつか人家らしき建物が密集している方向へ向かっていた。


 あまり大きな排気音で驚かしたくはない。のんびりムードを装いながら俺はじいさんの向かう方向へ相棒を進めた。


 じいさんは右に曲がり集落に入った。俺も直ぐにあとに続いて、じいさんの横に停まって声をかけた。


 「すみません。少しお尋ねしてもいいですか?」


 俺は標準語を使った。関西弁で話し掛けてもあしらわれるような気がしたのだ。


 じいさんは訝し気に俺を見た。


 俺はキルスイッチでエンジンを切った。


 「すみません。この辺で何か食べられるお店はないですかね?」


 「店?」


 じいさんはぶっきら棒に答えた。


 「俺はここのもんじゃねぇから」


 じいさんがそう言った時に、一軒先の民家のドアが開いて、目の前にいるじいさんと同じようなじいさんが出てきた。


 「シノチャン、どしたのさ?」


 「何だ、食いもん屋はねぇのかって聞くのさ」


 「そんなもんは、稚内まで行けばいっぱいあるよ。あんたどっから来てるの?」


 シノチャンと呼ばれた漁船のじいさんと民家からしゃしゃり出て来てくれたじいさんとの会話になった。「どこから来ている?」は、今の俺には嫌な問いかけだった。ナンバープレートがある以上嘘は吐けない。


 「滋賀県からです。ひと月前にフェリーで来て旅をしています」


 「でも、訛りがないなぁ」


 漁船のシノチャンだ。


 「ええ、東京生まれの東京育ちで、去年の秋に滋賀県に転勤になって引っ越したんですよ」


 「仕事は何をしてるの?」


 漁船のシノチャンは、さっきまでいたヤクザ達と同じ関西から来ているということで警戒しているようだ。


 「それが、恥ずかしながら四月にクビになりまして……」


 「なぁにぃ、クビになったんだぁ」


 しゃしゃり出てきたじいさんが呑気に言う。「何をした?」と訊かれる前に俺は言葉を重ねる。


 「そうなんですよ。だから転職前に思い切って、ずっと来てみたかった北海道を満喫しようと思ってそれで。あのう、この辺りには食事が出来るお店はないのですね?」


 「うん、ねぇ。したっけ稚内まで行けばいいさ。したらなんぼでも食えるところはある。シノチャンに聞いてもダメだぁ。シノチャンは小樽の漁師だからわかんねぇべや。はははっ」


 そう言ってしゃしゃり出てきたじいさんは豪快に笑った。


 「小樽って、随分遠い所から漁に来られてるんですね?」


 「シノチャンは金持ちの客を何人も抱えてっから、年に何回か、客がここで釣りたいって言ったら何処へでもだねぇ」


 「ああ、釣り船の船長さんなのですか。へぇー」


 「漁師もやってるから、二刀流だ。なぁ、シノチャン」


 漁船のシノチャンはブスッとしたまま、しゃしゃり出てきたじいさんが出てきた家に無言で入っていった。


 「まぁ、稚内まで行ったら。三十分ぐらいで着くから」


 そう言い残して、しゃしゃり出てきたじいさんも家に戻っていった。


 「ありがとうございました。稚内へ行ってみます」


 俺は心からしゃしゃり出てきたじいさんの背中に礼を言った。知りたかった情報を、こちらから聞きもしないのにベラベラと並べ立ててくれたんだ。


 漁船のじいさん・シノチャンは小樽の漁師で、金持ち相手の釣りのチャーターも請け負っている。しかしまぁ、本当のところは密輸入品の運び屋だ。海上でブツの受け渡しを行うのだろう。そのブツが何なのかはわからないが。


 町の外れ、オロロンラインの手前で相棒を停めて、ヒップバッグの中の高岡ちゃんから借りているスマホを確認した。まだ何も変化はなかった。徳永も色々と忙しい身だ。俺からの安い依頼よりかは金儲けだ。


 あと俺に出来ることはもうなかった。ノシャップ岬を目指す。


 さっきまで見ていた利尻富士を左のバックミラー越しに見ながら、また呆ける道を行く。そしてまた利尻富士が徐々に左手に並ぶ。一瞬不思議に思ったが、道が大きく左に弧を描いているのだと気がついた。


 道道106号線から左折して道道254号線を進む。ノシャップ岬まで道は一本だ。


 さっきまでドロドロした昔のような感覚に沸き上がっていた体内は、ノシャップへ近づくにつれて清らかな凪のように静まって、身体中から昂りが抜けていった。馬鹿馬鹿しいとさえ思うように変わった。


 ノシャップ岬に着いたのは十六時半に近かった。景色を堪能するよりも今夜の宿を探す方が先決だった。


 荷を解いてPCを出して検索した。「ん?」調子が悪いのか、稚内の宿がまったく表示されない。二度、三度とやってみても同じだった。少し範囲を広げてみると、一番近くて豊富温泉の温泉宿が二軒だけに空室があった。四の五の言っても始まらない。ちゃんと部屋にトイレとバスがついていることを確認してから直ぐに、素泊まり出来る一軒を押さえた。もう一軒は二食付きで値段も結構高かった。錬金術を失くした俺は、代わりに楽な判断基準を手に入れたのだ。随分と疲れが出ていることに気がついた。


 心配になってその場で明日の稚内のホテルを検索した。稚内から島に渡らないと、179市町村のカントリーサインが集まらないのだ。運良く明日、明後日とホテルを確保出来た。道北の天気も明日から三日間は良さそうだ。今日綺麗に見えた利尻富士のある利尻島と礼文島へは明後日に向かうことになった。けれど、その次の日は雨予報だった。


 初めての稚内は、防波堤ドームをチラ見することもなくただ街中を進み、豊富町まで国道40号線とそのバイパスをひたすら走り抜け、豊富サロベツICから道道84号線で宿へ向かった。空の広さは相変わらずだった。


 一時間程で辿り着いた宿にチェックインして、すぐさま部屋に荷物を降ろし、ひと息吐く暇も作らず晩飯の買い出しに出掛けた。そうしないと溜まっている疲労が一気にそこらじゅうから噴き出して、一歩も動きたくなくなる気がしてならなかったんだ。無論、今日の港での出来事など思い返す余裕すらなかった。


 さっき降りたばかりのバイパスのICを通り過ぎ、国道40号線に出て、相棒に燃料を入れてからセコマに向かった。いつもの二缶と国稀の四合瓶、それとサラダとカツ丼、ペットボトルのお茶一本と翌朝飲む無糖のカフェオレと、北海道に来てから気にいっている筋子の醤油漬けが入ったおにぎりを買って戻った。


 宿に戻ってここの温泉地特有の石油臭い黒い湯に浸かった。


 やはり疲れが溢れそうなほどに溜まっている。旅をしていなければ疲労困憊と、一週間ほど横になっていたい気分だった。不思議なことに、そんな疲れが黒い湯に溶け出している感じを覚えた。感覚ではなかった。感じだった。


 湯に身体が馴染んでくると、念願だったオロロンラインを走破出来た充実感が押し寄せてきた。残るは三国峠だけになった。スノーシェッドを過ぎてから先の、アスファルトの道しかないあの壮大なる抜け感の中を走った記憶。脳味噌が蕩けて黒い湯の中に流れ出てしまいそうだった。壮観な利尻富士も美しかった。今朝小樽を出発した俺が……。うわっ。港での出来事を思い出してしまった。そうなると、そっちの方に意識がすべて持っていかれてしまう。高峰と丘崎という、俺からすれば不似合いな二人がコンビを組んで動いているのは、上の銀盛会が二つに割れたことによる融合なのだろうが、目的は金か武器以外に考えられない。けれども、抑止力のある特定抗争指定区域をかけられればドンパチなどやっている場合ではなくなる。武器を集めたところで邪魔になることぐらい丘崎なら知っているはずだ。とすれば金だ。しかし、金を作るには売るための物と、それを買う者が存在しなければならない。捌くのに時間がかかる物だとは思えない。二人は何を手に入れて捌き、金を手に入れるつもりだろうか?


 どう思考を巡らせてみてもアイツらと大学生の接点が見えてこなかった。考えてもわからないと断念した。しかし、頭の何処かで何かが居座っている感覚があったが、もうそれについては考えないことにした。


 ただボーッと湯の浮力に任せて、身も心も漂わせることに没頭した。


 脱衣所で身体を乾かしながら、温泉宿に素泊まりして一番困るのは、買ってきた弁当が温泉に浸かっている間に冷めることだなぁと思った。


 部屋に戻っていつものを喉に流し込む。サラダをツマミにひと缶があっという間に消えた。


 石油臭いまま、冷めたカツ丼をアテに国稀を呑んだ。


 呑みながらPCを開き徳永からの返事が来ているかを確認した。


 オンボロの白いワンボックスの持主は五十川隆俊、五十六歳。旭川で五十川興産という不動産業を営んでいる。住所は旭川市春光。家族構成は妻と二男一女の家族。妻の真菜は四十九歳、専業主婦。子供は三人で、長男の英俊、二十七歳はもう結婚していて、大企業の丸住グループの中核、丸住株式会社名古屋支店に勤務。今は名古屋市熱田区にある五十川興産所有のビルのペントハウスに住んでいる。子供はいない。長女の有紗、二十三歳は、地元旭川の観光ホテル『旭光園』勤務。実家暮らし。次男の彰俊、二十一歳は、現在、横浜外国語大学二年生で桜木町にある五十川興産所有のマンションで一人暮らし。高峰と丘崎との関係性は不明。


 高峰と丘崎が何故そこにいるのかはまだ不明。


 そう書かれていた。


 俺はすべてを消去してから、高峰と丘崎、五十川彰俊の名前を打ち込んで、そのあとは『瑛篠丸』という漁船のことも調べるように依頼し、撮った映像を貼り付けた。




 そこまでが俺が覚えている昨夜のことだった。


 時刻は午前五時八分。


 昨日感じた疲労感は、随分と解消されている気がした。けれどもやはり、昔のようにはいかないのだと実感する。


 冷蔵庫の中には、新品のいつものがひと缶だけ残っていた。


 歯磨き直後の筋子のおにぎりはいまいちだ。ペットボトルのお茶はもうなくなっていた。無糖のカフェオレで流し込んだ。歯磨き直後はカフェオレも不味かった。


 石油臭い露天風呂で一時間程過ごしながら、昨夜のシノチャンは、海上取引を無事に済ませたのだろうか?


 五十川彰俊らは関西の二人のヤクザと、どんな関係性にあるのだろうか?


 500のビールをタンクバッグに入れたまま走っても爆発したりしないのだろうか?


 そんなことを思った。


 荷物を相棒に積んでいると、宿の主人が見送りに出て来た。


 「浜は霧だから気をつけて」


 「えっ」


 「こんな天気の時はいつもそうだ」


 「そうなんですか。ありがとうございます」


 何だ、今日はあの絶景が見えないのか。そう思うとテンションが少し下がった状態で走り出した。


 豊富の街中は霧には覆われていなかったが、雲が頭上を隙間なく覆っていた。


 道道444号線でサロベツ原野に向かう。


 もう直線道路には感動しなくなっていた。人家が少なくなってくると、薄っすらと靄がかかってきた。


 サロベツ原野に入ったらしい。霞は風に乗って動いていた。海から来ているのだ。幻想的ではあったが、道東の北太平洋シーサイドラインでの経験から、もう白しかない世界は懲り懲りだった。


 昨日、快晴の下走ったオロロンラインに出た。もうこれは靄ではなく霧だった。強い海風に乗って、ドンドンと海から這い上って来る様は、俺の心の奥底へ得体の知れない恐怖心を呼び覚ました。自然とは大いなるものなのだ。アイヌの民や宗教が伝来する以前の日本人が崇め奉ったわけだ。そう俺は感じた。


 前方が少し明るくなると、しばらくしてフォグランプを点灯させた対向車が白の中から現れる。バックミラーの確認も怠らない。


 信仰心などない俺だが、宗教自体を否定している訳ではなかった。それで救われている人間も知っていたし、高徳な宗教家にも出会ったことがあった。けれども、夜の祇園でスケベ心丸出しにして呑んでいる坊主達や、宗教を信者から金を巻き上げるための道具としてしか見ていない宗教家達を見る度に、宗教という形に疑問を持ってしまう。


 今度はダンプカーの車列が現れた。


 俺が死んだら、俺は何処へ行くのだろうか?天国か?いやいや、地獄だな。悪党だったこの俺が天国になど行ける筈もない。それとも何ものかに転生するのだろうか?


 稚内市に入って霧が薄くなっていったが、風は相変わらず強く吹いていた。


 綺麗に姿を見せていた利尻富士があった左手も、今日は押し寄せる白しかなかった。


 こうほねの家まで来ると、その先はまた霧が深くなっていた。


 嫌になってきたので、ここで休憩をとることにした。


 建物の裏には池があって、畔ではハマナスの花が強風に負けずに咲き誇っていた。


 二階の屋上展望台から霧と靄に包まれた景色を眺めた。車はそれほど走っていなかった。昨日なら絶景を見ることが出来たのにと少し思ったが、昨日の俺はこの道を止まらずに、ただ、ただ、走っていたかったんだ。


 湿った強風の中にいると、流石に身体が冷えてきた。建物の中に入って暖をとった。サングラスが一瞬で曇るぐらい湿った暖かさだった。


 三十分ほど梶井基次郎の『檸檬』を読み返した。覚える気などサラサラないので、何度読んでも新鮮だ。いや、それは嘘だ。ストーリーの流れはわかっている。使われている表現が新鮮なだけだった。


 飽きたので外に出た。風は相変わらず強かったが、霞み具合が薄れてきていた。


 再び暖機してから相棒を走らせた。霞のかかった空にはお天道様がまん丸く見えていた。


 霞が晴れたら直ぐに昨日の港に辿り着いた。迷わず左折して、何隻も停泊している漁船の中を探す。シノチャンの瑛篠丸の姿は無かったし、利尻富士の姿もそこになかった。


 ノシャップ岬へ近づくにつれ霞はなくなり、右手に低く連なる蒼があった。ここももう夏に入るのだと感じた。


 もう少しで岬に出る手前の住宅地の草むらに、十頭ほどのエゾジカの群れが草を食んでいた。相棒のエンジン音も気にならないようで、牡鹿には立派なトロフィーが生えていた。


 俺はこんな間近でエゾジカに出逢えたことに感動し、写真を何枚も撮った。撮り終えてから、ここが畑なら害獣になるのか。


 昨日、宿探しに熱中して写真を撮り忘れたノシャップ岬に着いた。こんな場所だったのかと改めて思った。


 不思議だ。昨日来ているはずなのに新鮮だった。


 写真を撮り始めて、昨日の方が空も海も綺麗だったと悔やんでみた。








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