雨は降り続けた。


 その間、脳味噌までふやけるほど湯に浸かり、昼食は抜いてひたすら眠り、起きたらまた温泉へ。そして決まった時間がくれば飯を食う。そんな二泊三日を過ごした。


 ガラス越しに見える不甲斐無い景色でも、夜の膳には毛蟹が一杯ついていて北海道に来ているのだと実感出来た。だから、二晩目の道上の前に置かれた毛蟹のない膳はとても貧素に見えた。


 朝はビュッフェスタイルで、それほど種類が豊富なわけではなかったが、自家製イクラの醤油漬けが、よくある臭みもなく塩味も俺好みでとても旨かった。それにかけ放題なのも堪らなかった。この宿に泊まり続けている限り、毎朝イクラ丼を好きなだけ食べれて、見事痛風患者の出来上がりだろう。それほどに旨かった。


 道上とは別々のテーブルで食べる食事も、いい距離感だと俺は感じていた。それでも相変わらず風呂は一緒だった。


 事件はどう推移しているのだろうか?何んの進展も変化もないのか、それとも俺に情報が流れてこないだけなのか。


 「これで仕事をしているといえるのでしょうか?」


 昨夕、その日四回目の露天風呂に浸かりながら、苛まれた道上はそう言葉にしていた。何も会話も進まなかった。道上には事件の情報が下りてきていないのだ。これでは、何の為に同行を許したのかわからない。これから先も木偶の坊を連れて旅をすることになるのだ。やはり、仲野は抜け目ない。上手く取り込んで情報を得ようとも思ったのだが読まれていたようだ。道上は、ただ職務を忠実に勤めているだけなのだ。道上は悪くない。そう思いながら、昨朝から気になっていた道上自身のことを俺は訊ねた。北海道訛りの全くない道上は、埼玉で生まれ高校までを過ごし、大学で北海道に来てそのまま道警に入ったということだった。もっと地元の人間だったら……。ないものを求めても仕方のないことなのだ。


 今朝も出発する一時間前まで小雨が降っていた。出発時間をチェックアウトギリギリまで伸ばして正解だった。雨は止み雲の色は明るくなった。天気予報は曇り時々雨。路面の状況は、乾いた部分と濡れた部分が半々といったところか。ブーツやジーンズの裾が濡れるのは覚悟の上だ。


 たっぷりと休養に充てたお陰で、この旅で蓄積していた疲労は随分回復していた。今朝は踏み出す一歩一歩が、脚に羽根が生えたように軽く感じられるほどまでになっていた。あまりにも身体が軽すぎて、運転するのに腰が落ち着かなかった。


 国道239号線で紋別まで進んだ。雨は時々、シールドにポツリと水滴を垂らすぐらいで、降りつけることはなかった。


 渚滑町5丁目の交差点で国道273号線にぶつかる。俺しか走っていない山奥の道を懐かしく思い出していた。あれからもうひと月近くになるのだろうか。


 前に通った道を行くのは面白くなかった。交差点を左に曲がらずに直進して、道道305号線を行く。その方がホテルまで道なりに進むことが出来そうだった。


 途中、渚滑駅前の交差点があったが、昔、名寄線の駅があった場所らしかった。それらしき匂いはしたが、空虚な空間が物悲しかった。


 道道305号線は、国道239号線を越えて紋別の街に入る。前に来た時にも嗅いだ独特の匂いが風に乗って流れてくる。この街には、それが誇りとして染みついている気が俺はした。


 三泊予約したホテルは安かった。その理由はホテルに来てみてわかった。外装工事の真っ最中だったのだ。


 紋別の空は降りそうで降らない、そんな色をしていた。


 俺は紋別の街を探索するためにホテルに荷物を預けたが、道上はボックスにしまってあるのでその必要がなかった。雄武町のホテルでも、着替えの入ったスポーツメーカーのロゴが入った巾着袋を一つ降ろすだけだった。俺の旅とは随分違うのだなぁと思った。


 先ず、本宮直樹がやっている酔興亭を探した。地図に表示されていたとおりの、ホテルから徒歩五分以内の距離にあった。そのまま夜は飲み屋街になる通りを何本か流したあと住宅街の中を流した。流石に歩き回れる規模の街ではなかったし、バスが街中を細やかに走っていることもなかった。流氷展望台まで行って紋別の街を俯瞰で見た。走り回った道を追って、だいたいの街の形を覚えた。この街も足がないと生きられない街だった。そのあとまだ走っていない港を走り巡らせた。蓮臨丸が停泊していないか見て回ったが、停泊していた数少ない漁船の中にその名前はなかった。


 いよいよ三宅雅和の家の確認に向かった。三宅の家は、展望台から見えた野球場や運動公園のある丘の住宅地の外れにあった。


 ゆっくりと流しながら三宅の家を見つけた。ちょうど中から老齢の男が出てくるところだった。


 俺はハッとした。


 その男の顔が、昔、何者かの襲撃の末亡くなった恒星会の若頭で、恒星会系京都三乃組組長・三宅友幸に似ていたのだった。


 俺は表札をもう一度確認した。間違いなく三宅と表札がかかっていた。


 うしろからついて来ている道上をどうしようかと迷った。今、このまま突撃するよりも、一度体勢を立て直し、三宅友幸と三宅雅和の関係を知る余裕が欲しかった。


 三宅雅和がこちらに気づいて視線を向けた。


 俺は素知らぬふりしてその場で足をつきながらUターンを始めた。


 道上は元白バイ隊員らしく俺をやり過ごし、狭い道幅なのに器用にUターンを決めた。


 バックミラー越しに見た三宅雅和は、何事もなかったかのように家の門扉を開けて、俺達とは反対側の街の方へ歩いて行った。悲しいかな、老いが彼に纏わりついていた。


 俺は、来る途中に見つけた『とあんくる』で昼食を食べることにした。


 二人共ポークチャップを注文して、俺はトイレに向かった。道上はもうついては来なかった。


 トイレに入り、直ぐに徳永に電話をかけた。


 「もしもし、すまんが大至急調べてもらいたいことがある」


 ――三宅雅和と京都三乃組の組長だった三宅友幸のことだろ――


 「どうしてそれを……」


 ――この前、お前が言った丘崎が襲ったってのが気になってな。二人は、十歳離れている兄弟だ。三宅友幸の亡骸も兄の雅和が引き取っている。もう会ったのか?――


 「いや、まだ顔を拝んだだけだ」


 ――似てて驚いた。ってとこか――


 「そういうことや」


 ドアをノックする音が聞こえた。


 「ありがとう。また連絡する」


 もう巻き込む訳にはいかないと、丘崎襲撃事件のことは徳永には話さないことに決めたのだ。だから、それだけ言って電話を切ろうとした。


 ――ちょっと待て、丘崎に頼まれて、三宅を襲撃したと話す男がいたーー


 俺はノックを仕返した。それから耳に入って来る徳永の言葉を、キッチリと頭の中に叩き込んだ。


 形だけ水を流して外に出た。ドアの前には青い顔をしたサラリーマン風の男が立っていた。心の中で「ゴメンね」と声にした。


 テーブルに戻っても、まだポークチャップは運ばれてはいなかった。


 「獅子王さん、明後日、丘崎が退院するようです。京都から京都三乃組の組員が五人やって来ているそうです」


 「そうか」


 「上からは知らなくてもいいことだと言われましたが、この丘崎ってヤクザは何をしたのですか?」


 やっと、道上まで情報が降りてきた。しかし、俺の中では丘崎の退院のことなど、半分どうでも良くなっていた。それよりも、三宅雅和にどう当たるのかの方で頭がいっぱいになっていた。そして、徳永から得た情報を、何処まで話すのが供養になるのだろうか?と。


 運ばれてきたポークチャップにかかったデミグラスソースの香りが、俺の食欲を掻き立てた。無言のままフォークとナイフで切っていく。最初の一口目が堪らなく旨かった。ライスも旨い。しかし、鉄板の熱で、肉に火が入り過ぎそうだったので、俺は手早く切り分けて、ミックスベジタブルとブロッコリー、それとポテトフライの上に避難させた。


 フォーク一本でポークチャップとライスを、コーン一粒すら残さず平らげた。


 食べ終わってコップの水を喉にながして、やっと三宅雅和に当たる方法が固まった。その前に、甘いものでクールダウンだ。


 店を出て港に向かい、さっき見つけた『出塚』へ行って四つ葉ソフトクリームと、揚げ立てのホタテの「ほたほたあげ」を腹に収め、旨かったので手土産用に揚げ立ての揚げカマボコを大量に買ってホテルへ向かった。


 フロントにタンクバッグとヘルメット一式を預け、タクシーを一台呼んでもらった。


 都会では、道端に立って流しているタクシーに向けて手を挙げれば乗ることが出来るが、それ以外の土地では、タクシーは呼ばないと乗れない乗り物だということを、俺はこの旅で知った。


 タクシーが来るまで時間を使って、ホテル横のコンビニで一升瓶の酒と香典袋を買って、コンビニでペンを借りて香典袋に名前を書き、ATMで下ろした札の一枚を入れた。


 「何処へ行くつもりですか?」


 それまで黙ってついて来ていた道上が口を開けた。


 「昔の知人の仏前にな。道上君はその間どうする?」


 俺は答えを待つことなくコンビニを出てホテルの入口に向かった。


 道上はうしろを歩きながら、スマホで電話をかけて上の指示を仰いでいる。


 「そのお宅の近くで待っています」


 「なら、一緒にタクで行こか」


 丁度タクシーが車寄せに着くところだった。


 名前を告げて乗り込んだ。


 三宅の家の近くまで来ると、道上はどこの家に向かうのか理解出来た様子だった。しっかりと警察官としての素養は深めているようだった。そして俺は、三宅の家から出て道上と合流した途端に、仲野から連絡が来ることを予想出来た。


 下車する時に、俺は帰りの車を呼ぶための電話番号を聞いた。


 道上と別れて一人、三宅雅和の家の門扉にある呼び鈴を押した。揚げ立てだったカマボコは、まだ熱を持っていた。


 二度ボタンを押すと、俺と変わらない年頃の痩せた女性が顔を出した。全く三宅には似ていないが、娘だろうか?


 「すみません、こちら三宅雅和さんの家でしょうか?」


 「はい、そうですけど……」


 突然の金髪モヒカンが現れて驚いている様子だった。


 「私、昔、友幸さんにお世話になった者です。こちらに御仏壇があると聞きまして伺わせていただいた次第です」


 「ああ、叔父さんの。ちょっと待って下さいね」


 そう言い残して家の中へ女性は消えた。「お父さん、お父さん」と、雅和を呼ぶ声が聞こえる。やはり娘だろうか?それとも息子の嫁か?もっと詳しく家族構成を訊くべきだったと後悔した。玄関が開けっ放しなのが、迎え入れる気でいることの表れか。


 少し待ったあと、娘が門扉を開けて俺を中へ招き入れてくれた。


 「お邪魔します」と言って俺は家に上がり込んだ。


 仏壇がある居間に通された。そこには三宅雅和が胸を張ってしっかりと座っていた。さっき見た時よりかは生きる力があるように思えたが、俺という、死んだ弟の来客に対して精一杯の虚勢を張っているのだと理解した。


 「失礼します。私、獅子王と言います。少し前まで、大阪で商売をさせていただいていました。昔、京都三乃組の三宅若頭に、世話になったことがありまして、こちらの方へ足を運ぶ機会がありましたので、お邪魔かとは思いましたが、線香の一本でもと思い伺わせていただきました」


 「船本さんの代理の方ではないのですね?」


 船本?徳永が話していた奴と同じ名前が出てきた。同一人物だろうか?


 「いえ、その方は存じておりません。その方は……」


 「い、いえ。ここ五年ほど、毎年、命日にお参りに来てくれるんです。あっ、どうぞ、ありがとうございます。こちらですわ」


 三宅雅和は俺に釣られたのか、出身である関西の訛りで言った。


 俺は仏壇の前に座り、香典袋を供えて線香に火を点けた。


 仏壇横の低い箪笥の上には、もう少し若い三宅と娘、それに、娘によく似た三宅の妻らしき女性の三人が笑顔で収まった写真が、三つの写真立てに入れられて飾られていた。やはり親子のようだった。三宅に似なくて良かったと思った。


 鈴を打ち、三宅友幸の顔を思い浮かべながら手を合わせた。


 よく観察すると、二つ位牌があって、彫られた戒名から上の段にあるのが三宅の妻のもので、一段下に置かれている位牌が友幸のものだった。三宅友幸は、今日が命日だった。


 だとすると、船本が現れる。


 向き直ると、「ありがとう」と言った三宅の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


 「あと、これを」と言って俺は、先に座っていた場所に置いていた日本酒を三宅に、まだ温もりのあるカマボコをお茶を持って来た娘に渡した。丁寧に礼を言ったあと娘は、袋に手を当てて「温かい」と言った。


 「さっきは失礼しました」


 俺は三宅の前に座り直し、出されたお茶を一口頂いてから言った。


 キョトン顔した三宅にはわからないらしい。


 「いやぁ、お伺いする前に、場所だけ確かめとこうと思いましてね。先程、バイクでこちらへ来たんですけど……」


 そこまで話すと三宅の顔が明るくなった。


 「まだ、寄せてもらう準備も出来てなかったもんですから、声もかけずに去ってしまいました」


 「ああ、あのバイクの」


 「そうなんです。そしたら、お兄さんが家から出てきはったんですわ。どないしょっと思たんやけど、すみませんでした」


 「ああ、気にせんくてもええよ」


 「そう言うてもらうと助かりますわ。それより、家から出てきたお兄さんが、あまりにも三宅さんに似てたもんで、それに驚いたっちゅうんがホンマですけれどね。ハハハハッ」


 「そうでしょ、私も最初、修学旅行で京都に行って、そこで初めて会った時には、なまら驚いたのよ。アッハハハッ」 


 空のグラス三個と手土産のカマボコをのせた皿を持ってきて、いつの間にか横に座っていた娘が笑った。


 「やっぱり、そんなに似てるのかい?ハハハハハッツ」


 三宅は海の男らしく豪快に笑った。俺も負けじと声を大にして笑った。


 「お父さん、せっかく揚げたてのカマボコ頂いたから、ねっ」


 「恵美、まだ船本さんが来とらんのに酒呑んでたら……」


 「去年の十三回忌に来てくれたんだから、今年はもう来ないわよ。いつも来る時は、お昼前には来てるっしょ。さっきお父さんも、気になって見に行ってたじゃないのよ」


 なるほど、あの偶然の出会いは、船本という男がもたらしてくれたものなのか。しかし、船本に会えない可能性が出てきたのは残念だった。


 雅和も話し相手が欲しかったのか、娘の恵美を含めた三人で呑むことになった。勿論、それが俺の狙いだった。


 献杯し呑み始めると、雅和は俺のことを根掘り葉掘りと尋ねだした。


 俺は自分のことを話す前に、まだ京都三乃組との繋がりがあるのかを訊いてみた。


 「あんなとことは、もう何んも関係ねぇ。はんかくさい」と言い捨てたので、俺は突っ込んで訊く。


 「何か嫌なことでも?」


 「いっぱいあるで。友幸はあれでも一家の長やったんや。それやのに、死んで残ったんは借金だけやった。俺は、家内の親父から引き継いだ会社を縮小して、船も三隻売って金作ったんや。組の奴らは一周忌の時かって香典一つ、電話一本よこさんかったんや。それにアイツらヤクザの癖に、組長の友幸を殺した奴らを見つけも出来ずに、次に組長になった青柳を直ぐに引退させて幕引きや。悪い噂にゃあ、青柳に責任おっ被せて自分が組長になった丘崎が、友幸を襲う画策をしたんやって言いよるのもおるぐらいやった」


 「へーっ、そんな話が。その、船本さんって人が言うてはったんですか?」


 未だ三宅の身体の内には、抑え難い怒りの炎が燻ったままでいるようだった。そしてそれが、今生きている支えにさえなっているのでは?そう俺は思えた。


 「いいえ。三回忌の頃までは、他の銀盛会の組の方々が来てくれてたんです。その時に、お酒呑んでる時に出た話だから、あんまり気にしないで。うちらはもう関係ないのよ」


 恵美がそう言った。


 「そうですか、すんません。変な話を聞いてもうて」


 そこからは、俺と友幸がどう関わりがあるのか、俺が何故旅をしているのか、二人にせがまれて胸の傷を見せると恵美がおっかなびっくりと触った。その後、北海道で見た景色や旨い食い物の話をして聞かせた。話の入りは、あたかも本当のように嘘で固めて、次は嘘と本当を混ぜ込んで、再び恵美に傷を触らせて「アーン」と変な声を出し、直ぐ一人ツッコミを見せ二人をウケさせて、最後は本当のことしか言わなかった。


 心が開いてくると雅和も恵美も口が滑らかで、雅和は、友幸と子供の頃に住んでいた京都府久世郡久御山町一口[いもあらい]の話を懐かしそうに話しだした。一口は、昔あった巨大な巨椋池の西畔に古くからある土地で、巨椋池は戦争の足音が聞こえる昭和十六年に干拓事業が終了し全て農地になったのだと、三宅は自慢気に言った。


 「またそんな面白くもない話して。お父さんが干拓した訳でねぇっしょ。もっと獅子王さんが楽しい話をしないと」


 「いえ、昔の話なんかは結構好きなんですよ」


 「本当?」


 「はい。でも、京都にいらっしゃったのに、何故紋別に?もしかして、奥様と電撃的な出会いがあったとかですか?」


 「それがね……」


 「恵美、恥ずかしいっこと言うでねぇよ」


 「いいでしょ。本当に愛の逃避行なんだから」


 恵美の話では、恵美の母・恵子はこの紋別で生まれ中学卒業まで暮らし、遠縁の伝手で札幌の高校へ進学した。恵子が高校三年になる前の春、高校を卒業して京都の染物工場に就職が決まっていた雅和が、友人と二人で卒業式から三月末の入社式までのひと月間、北海道をヒッピーよろしく旅をしたそうだ。そして、札幌の狸小路で男子学生にしつこくされていた恵子を助けたのが雅和だったという。そして、二人は恋に落ちた。一年間は文通で過ごしていたのだが、恵子は高校を卒業すると紋別に戻って父親の水産会社で働くことになっていた。そうなると厳しい父親の下、二人はもう付き合うことは出来なかった。だから恵子の卒業を待って迎えに来た雅和と二人、京都へ駆け落ちをしたそうなのだ。そして暑い夏の日に突然、二人が慎ましやかに暮らしていた京都の小さなアパートに恵子の両親が現れた。そして、強引に連れ去ろうとする父親に殴られ蹴られしながらも、引かずに許しを請うた雅和に男気を感じた父親は、紋別に来て漁師になるのならと、二人の結婚を許したそうだ。そして二人は直ぐに京都を引き払い、雅和は紋別で漁師となったのと言った。


 「けど今じゃこのとおりだ」


 「お父さんのせいじゃないよ。じいちゃんが保証人になって一度は傾いた会社を、持ち直したのはお父さんでしょ。その時は友幸おじさんも出張ってくれて、ありがたかったねぇ」


 「でも最後はロシアに拿捕されて、漁師は止めにした」


 やっと俺の知りたい方向へ話を持っていけそうだった。


 「拿捕?」


 「そうなのよ、五年前にね。あの時は、びっくりして心臓が止まるかと思ったわよ」


 「あれ?五年前に拿捕?よくある話なんですか?私、小樽でもそんな話聞きましたよ?」


 「小樽?だったら、サブちゃんじゃない」


 「ああ、サブだろ。愛想のない奴だったろ?」


 篠原三郎は元々愛想がない奴だということがわかった。


 「確かにありませんでした。けど、何や拿捕されてロシアの奴と仲良うなったとか言うてましたわ」


 「やっぱりアイツは、あのロシアとツルんどるんか」


 「と言いますと?」


 「拿捕された時に、日本語をよう喋る一人のロシア人が俺に近寄って来て、『私達の貿易の手伝いをしないか?』って言ってきたんだ。で、何を貿易するの?って訊いたら笑いながら、『とてもお金になるものです』って言いよった。だから、俺はやらんって言ったのよ。したら、いつの間にかサブが仲良くなっていたんだわ。和幸のこともあったから、つまらんことに巻き込まれるのはもうゴメンだと思ったから、解放されてこっちに戻る途中でサブの奴を問い詰めたのよ。けど、『何も、何も』って言うだけで、元々愛想がない奴だったし、自分で船持ってるわけでもなかったからそのままに」


 「で、サブって人はいつ辞めたんですか?」


 「直ぐよ。まだ蟹の漁期中なのに、戻って来てから直ぐ。もうロシアに捕まるのは嫌だって言って辞めたのさ」


 「恵美さんは、サブさんと仲が良かったんですか?」


 「良くはないわよ。だって、ぜんぜん喋んないんだもん。何を考えてるのかもわからないわよ。私が偶々事務をやっていたから、向こうが辞めたいって言ってきたから訳を訊いたのさ。ちょうど船も会社も含めて、涼森さんが買いたいって時だったから、従業員の意向も聞かなきゃダメだったし、だから、捕まった迷惑料込みの退職金持たせて辞めてもらったのよ」


 「なるほど。でも、小樽で船を持って漁師になった」


 「それがおかしいんや。拿捕されたんが嫌やって言うとった奴が、捕まった海域で俺の仲間に目撃されとる。釣り糸一本垂らしてへんのや。それでこっちに気づいたらピュッと逃げたらしいわ。小っせい船やのになまら速ええんよ。こっちに戻ってきた奴が言うとった。『あれはおかしいぞ』って」


 つまりは、篠原三郎がロシアとの繋がり自体を把持しているということだ。そして、日本の窓口の中の一つが、高峰の友人とされる北岸昇の北岸商会だというだけなのだ。丘崎は何処からを自分のものにしようとしているのだろうか?サブちゃんが消えるのか?高峰の友人、北岸が消えるのか?どちらが消えようが俺の良心は痛まなさそうだった。だが、北海道独立などという馬鹿げた狂想のために、大量殺人化学兵器によって関係のない人々が死ぬのは、絶対に許せなかった。


 不意にチャイムが鳴った。「はーい」と声を出しながら恵美が玄関に向かった。


 「あん時、俺が欲掻いてなかったら……。サブには悪いことをした」


 ボソッと三宅が口にした。船乗り思いの良い船長だったのだろうと俺は思った。そして、篠原三郎にも何か事情があって今の生き方をしている。その理由を三宅自身が知っていて語れないだけなのではないかとも思えた。


 「どうぞ、どうぞ。お父さん、船本さんが来てくれたわよ」


 恵美の嬉しそうな言葉のあとに顔を出したのは、安物の吊るしのスーツに身を包んだ、短髪の胡麻塩頭をした六十に近い痩せこけた男だった。瞳の動きが明らかにシャブ中だった。間違いない。徳永から聞いた船本と、今、俺の目の前にいる船本は同一人物だ。


 これが船本か。小綺麗な普通の格好はしているが、匂いは未だチンピラそのものだった。今のこのご時世、上がり目に乗れなかったヤクザが足を洗ったとしても、真っ当に生きていける場所など何処にも存在しない。それを体現してるのだと思う。精神的にどころか、身体まで悪いのだろうか?それらから逃れるために、仕方がなくシャブに手を出している。その部類だった。


 「遅うなってすんません」


 そう言いながら入って来た足取りはシャンとしていた。仏前に座り、スーツの裏から香典を取り出して俺の香典の横に並べて置いた。鈴を打って、長い間手を合わせて、何やらブツクサと唱えていた。


 よほど後悔の念に苛まれているようだ。十三年前に殴り殺した三宅友幸が夜な夜な夢枕にでも立つのだろう。そして、それが影響を来たし身体を悪くした。もう自分の命の残り火が少ないことを悟った船本は、背負い切れなくなった昔の悪行を自ら告発し出したのだと思った。


 五分ほど仏前の船本以外、誰も口を開かなかった。


 「だいぶ、悪なってるのと違うんか?」


 三宅が小声で、拝み終わった船本に尋ねた。それが、三宅が一年振りに会った船本にかけた第一声だった。


 立ち上がり、恵美が進めた座布団に座った船本は、薄っすらと笑みを浮かべただけだった。


 「はじめまして、獅子王といいます。昔、若頭さんに助けてもろうたことがありまして、やっと北海道に来れたんで、初めて仏前にお参りさしてもろたんですわ」


 「へーっ、そうかいな。船本といいます」


 若頭という音に警戒心を見せた船本だったが、直ぐにそれを力無く緩めた。テーブルに手をついたカッターシャツの袖口から、よれたインナーの袖口が見えていた。


 「船本さん、お昼はもうお済ですか?」


 恵美がお茶を出しながら舟木に訊いた。


 「ありがとう。もう食べてきたんやわ」


 「ほな、一杯どうですか?若頭に献杯を」


 「それなら」


 船本が素直に俺の提案を受け入れたので、四人で献杯し直した。


 俺はこの場で丘崎の件を出す気にはなれなかった。どうしても三宅の中に燻る怒りの炎が気になっていた。


 三宅の口から流れ出る友幸の昔を聞いている途中、何度か船本が口を挟もうとモゴモゴとさせた。しかし、気持ち良く酔い出した三宅には気づかれず、船本は諦めたのか、そのあと一度も口を挟もうとはしなかった。


 小一時間ほどで三宅親子が話す生前の友幸の話が一段落した時、船本が「そろそろ」と言うので、俺も同調しタクシーを一台呼んだ。なんと船本も同じホテルに宿を取っていたのだ。


 俺は、丁寧に礼を言う恵美に、何処かいい店はないかと尋ねると、本宮直樹がやっている酔興亭の名前を挙げた。けれど、今日は臨時休業だから明日にならないと開かないと言った。確かにネットには不定休と書かれていた。これで今夜の店を探す羽目になった。ここは船本が行く店で話を訊けばいい。


 「明日、一緒にどうですか?私と一緒なら、絶対に安くなりますよ。したら、明後日の晩も安くなります」


 そうケラケラと言った。


 三宅と船本は、最後の別れとばかりに念入りに礼を言い合っていた。


 玄関で三宅と別れ、表の門扉で恵美と別れた。


 タクシーに乗り込み窓を降ろすと、「船本さん、来年も待ってますからね」と言ってから、「獅子王さん、明日六時にね」と言って見送ってくれた。


 タクシーが出発して一本目の筋を越えるところで恵美の姿は消えた。船本は俺の右横にチョコンと座り目を閉じていた。そして二本目の筋の交差点には道上が立っていて、タクシーが通る時に合わせて右手を挙げた。


 「止まってもらえますか」


 運転手は「はい」のあとに疑問符がつくように言ってから車を停めた。


 助手席を開けて道上が乗り込んだ。


 「待ちましたよ。うわっ、もう酒呑んでるんすか?あっ、こんにちは、道上です」


 俺に愚痴を言ったあと、目を開けた船本にそう言った。


 隣の船本は身を固くして、どう虚勢を張ればいいのかわからずじまいでいた。


 「すみません。私、今、警察にキッチリとマークされていまして」


 そう船本の耳元へ囁いた。


 いっそう船本の身体が固まって、額には脂汗が染み出てテカっていった。


 「大丈夫です。シャブで痛み殺してるんは黙っときますから」


 痩せこけた顔が引き攣って、何か怖いものでも見たのだろうか?これでもかというぐらいに目を大きく開けて瞳を揺らし、血色の悪い薄い半開きの唇が、プルプルと小刻みに震えていた。


 無言の車内が続いた。船本はずっと自分の右手の窓の外を眺めていた。


 ふと思ったのだが、船本はどんな移動手段を使って、この紋別の街に来ているのだろうか?この身体での長距離運転は無謀だろう。体力面から考えると新幹線と鉄道、そして長距離バスを使うのも無理がある。やはり、飛行機に乗って、紋別空港からはバスを使う。それ以外の移動手段がないように思えた。


 何故こんな身体で、船本は今年も、この辺境の紋別まで来たのだろうか?もしかすると、余命宣告でも受けたのではないだろうか?だとすると、三宅に罪の告白をしに来たのではないのか?


 俺は左側の窓の外を見ながらそんなことを考えていると、タクシーは直ぐにホテルに着いた。


 俺が運転手に礼を言って料金を支払おうとすると、「行きは獅子王さんが出したので帰りは私が」そう言って道上が料金を支払い、領収書をもらった。「北海道警、道上でお願いします」と、道上が運転手に言うのを聞いた船本の顔が、先程より一層青白くなったのを俺は見ていた。


 運転手が領収書にもたついている間に、俺は降りると素早く車の反対側に回り込んで、船本側のドアを開け、船本の身体を支えながらタクシーから降ろした。


 船本は、「ありがとう」と言って素直に俺の手を借りた。得体の知れない者にでも手を借りたいほどに、さっき俺が吐いた言葉にショックを受けているのだ。そして、船本のスピードに合わせてゆっくりとホテルの中へ向かった。タクシーから降りて、自分のバイクから荷物を手にして来た道上も、俺の反対側に付き添って何かあれば手を差し伸べる態勢で歩いた。


 船本はチェックインをもう済ませていた。俺達の部屋も船本と同じ階にあった。


 俺はカートに載せられていた自分の荷物を押して、道上は肩から下げた自分の荷物とゆっくり歩む船本を補助しながらエレベーターに乗り込み、俺は箱の奥から歪な関係の二人の背中を眺めた。シャブ中の元ヤクザを若い現役警察官がサポートしている。俺はその微笑ましい光景が可笑しくて仕方がなかったが、グッと堪えて如何すべきかを考えていた。


 エレベーターホールから一番近いのが道上の部屋で、二つ挟んで俺の部屋。そして二つ斜め前が船本の部屋だった。


 俺はカートを自分の部屋に放り込むと、「あとは俺が」そう言って道上に代わって船本の補助についた。


 船本の部屋からは、俺が越えて来た山々が薄っすらと見えていた。


 「すまんなぁ」


 ベッドに腰を下ろしながら船本は吐き出した。


 俺は冷蔵庫を開けて中を確認した。


 「水とお茶、どっちがいいですか?」


 「酒がええ」


 「それは勿論」


 「そしたら、水を」


 「わかりました。二時間後ぐらいに寄してもらいますわ」


 「わかった」


 「ゆっくり休んで下さい」


 俺は、そう言って部屋を出た。船本の口から全部訊いておかないと、訊く機会がないように思えた。




 






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