エピローグ
虚飾のシキ
待ち合わせ時間までもう少しであることを確認し、私は鞄から箱を取り出して軽く開けてみた。太陽の光で、小箱に収められたネックレスが煌めいている。志弦と自分の為に用意したそれは、二つを合わせると蝶の形になるものだ。片羽同志が寄り添って、一つの形を作るのは、なんだか私達みたいだと思った。
ネックレスの羽は片方が桃色で、もう片方は青色だ。この青色の方を志弦に付けてもらいたい。彼は澄み渡った青藍が良く似合う。果てのない空のようで、底の見えない海のようで。溶けてしまったら消えてしまう、氷のようでもあった。
彼の胸中で揺らめいているのは、きっと青い炎。酸素の足りない中で声を上げ続ける彼に、私はもっと深呼吸をさせてあげたかった。
平気な顔をしていても、本人が気付いていなくても、悪意を向けられれば誰だって傷付く。小さな傷が積み重なって、気付いたら血塗れかもしれないのだ。そうなる前に、私は彼を癒す時間を作りたかった。
彼がいてくれる。それだけで幸せを感じ、日々勉学に励むことが出来ている私のように、清福をお返ししたかった。
そっとペアネックレスを撫で、蓋を閉じる。私は彼の青い蝶なのだ。彼を、幸せにしたい。仄日の明かりに呑まれてしまいそうな彼の手を、掴み続けていたい。
実際に彼の手に触れられるのは半年ぶりだ。彼のことを思い描いて喜色が込み上げる。冷たいけれど、握っていれば次第に暖かくなっていく細い手。あの優しい手を、早く握りたかった。
約束の時間になる。けれど、彼はまだ来ない。私は携帯電話を取り出して、『何かあった? 来れそう?』とメッセージを送った。
ふと顔を上げる。クリスマスが近いから、親し気な男女の姿が度々目についた。私も、志弦と笑い合いたい。そんなことを考えていれば、通りかかった女子高生の声が鼓膜を突いた。
「ねえ、このドラマの主演、志弦くんだって!」
「えっ、主演なんだ⁉」
「誰それ?」
「この人! 女の子だけど男役やってるの」
はしゃぎながら通り過ぎていく彼女達に、混ざりたくなってしまった。志弦が主演をやるなんて聞いていない。これからサプライズみたいに聞かされるのだろうかと考えて口端が緩んでしまった。
けれどやはり、彼の性別ははっきりと世間に伝わらないものなのだなと改めて思う。大抵の人は、女優なのに男の役を演じる役者だと認識している。それを好む人もいれば、ドラマでそんなことをしないでくれなんて声も上がっているようだ。彼が男だとはっきり口にしていることが雑誌に書かれていても、批判は見受けられた。『そういう心の病気を抱えているのなら、せめて身体の性別を変えてから役者をやってくれ』なんて、鋭利な刃物みたいな言葉を吐いている人もいる。それでも彼は、自分の生き方を変えなかった。
志弦の主演の話題は公開されたばかりなのか、通りかかる人が度々話題にしている。
「え、主人公、色野志弦なの?」
「確かに綺麗な人にやって欲しいとは思ったけど、やっぱちゃんと男の人にやってもらいたいよね」
志弦は、ちゃんと男の人だ。好きな容姿を纏っているだけで、ちゃんと男性だ。彼は役柄に合わせてサラシを巻いたりしているし、画面に映る際や舞台に立つ際はとても綺麗な男性の姿で役に臨んでいる。
とはいえ、作品内の志弦に惚れた人でも、普段の志弦の姿を見て『女があの役をやっていたのか』なんて軽視する人は、沢山いる。彼の理想が現実になる日は、私が思っているよりも遥かに遠いのだろう。
唇を結んで、私は携帯電話に目を落とした。返信はまだ、来ていない。手持無沙汰な中、志弦の姿が見たくて、主演をやるという情報をSNSで探し始めていた。
志弦の名前で検索してみると、志弦をどこで見かけたとか、この辺りに住んでいるのかもとか、そういった情報がちらちらと目に付く。芸能人は大変だなと眉を顰めながら画面をスクロールしていくと、目的の情報を認めた。どうやら今朝には公表されていたらしい。
ファンの間で月光と呼ばれているその作品の、主人公。ドラマの特設サイトへ飛んで見れば、志弦の写真が載せられていた。短い髪で男子制服を着こなしている彼に、微笑してしまう。凛とした表情も、写真でさえ分かるほどの長い睫毛も、とても綺麗だった。
「やっぱ、好きだな……」
思わず、唇から零れ落ちている。容姿が好きで恋をしたわけではないけれど、彼の内面への好意が溢れれば溢れるほど、外面への好意も膨らんでいった。あの綺麗な顔も、優しい声も、彼しか紡いでくれない言葉も、全てが愛おしい。私が欲しい言辞を、いつでも持ち寄ってくれる。
彼は、私の夢を聞いたらどんな顔で笑うのだろう。ようやく夢を定めた私に、彼はどんな言葉で、励ましてくれるのだろう。彼がくれる言葉はなんだって宝石みたいで、どこか詩的で、輝いている。
早く、声が聞きたい。大好きな声で、私に言葉を紡いで欲しい。
画面に映る志弦の頬をそっとなぞる。空から落ちてきた六花が、その液晶に張り付いて、すぐさま溶けてしまった。雫で滲んだ画面をどうしてか拭く気にはなれず、そのままにして空を見上げた。
この雪はきっと積もらない。虚空を彩って、地面に染み込んで消えていく。手元に落ちた水滴さえ、拭わなくともそのうち消えてしまうのだ。だけど触れた冷たさだけは、残り続けるのかもしれない。
「さむ……」
冷えてきた手の甲を、自身の手で摩った。早く、あの暖かい熱に触れたかった。消えてしまいそうで、けれど揺らめき続けてくれている残燭に、手を伸ばしたい。
志弦のことを考えて、どれほどの時間が経過しただろう。茜色の空が濃藍に変わった頃、携帯電話が振動した。飛びつくように画面を見てみれば、志弦からの着信だった。待たせられたことに怒りなんてない。ただただ嬉しくて、声が聞きたくて、携帯電話を耳に押し当てていた。
「志弦?」
『あ……ごめんなさい、聖ちゃんよね? 志弦の母です』
え、と発した声は喉から出ていたか分からない。どうして志弦の母が電話を掛けて来たのか、どうして、志弦が話してくれないのか。彼女の声が泣き出しそうに震えているのは何故なのか。
胸騒ぎがして、拍動が早まっていた。
「志弦の、お母さん……どうか、したんですか……?」
『……志弦、今日は、会えないの。後で、ちゃんと連絡するわね。ごめんね。会わせてあげられなくて、ごめんね』
「ど、どうしてですか⁉ なんで……何があったんですか⁉ 志弦、大丈夫なんですか⁉」
『……さっき、亡くなったの。ごめんなさい』
また連絡をする、そう言って通話は切られた。寒さで冷え切った手は、氷みたいに固まっていた。硬直したまま、携帯電話を離せない。もう一方の手で掴んでいるネックレスの箱が、握りしめられて微かな音を立てていた。小さな悲鳴は、雑踏に呑まれてしまう。
亡くなった、という言葉を唇の裏で呟いてみた。無味乾燥な声は、現実感を伴ってくれない。信じられなかった。彼が、どうして亡くなるのだろう。まだ、私は彼を幸せに出来ていないのに。幸せを証明するって約束したのに。その前にいなくなるなんて、優しい彼はしないはずなのだ。
信じたくなくて、目を塞ぐ。けれど、震えない携帯電話が、志弦はもういないことを証しているみたいだった。どれほど待っても、彼の声はもう聞けないのかもしれない。
吐いた息が、白く染まる。口元を覆った私は、よろよろと歩き出していた。どこへ向かっているのかなんて分からない。どこへも向かっていないのかもしれない。駅の改札を抜けて、ホームまで降りる。
どこにいるか分からないが、志弦のところに行きたかった。志弦に、会いたい。ネックレスを、渡せていない。志弦が私に見つけさせてくれた夢を、伝えられていない。まだ彼と、したいことが沢山あった。自分らしく生きる志弦と、私も私らしく並んで生きたかった。
志弦の隣で、生きていたいのに。
駅のアナウンスが響いている。頬から雫が零れ落ちた。黄色い線を踏みつけて、前へ、進んでいた。両足が震える。嫌だと心で叫ぶのは何に対してだろう。眼前を、強い風が吹き抜けた。
扉が開く音が聞こえる。雑音じみた人の声も、重なり合う靴音も、私がここで生きていることを証明するみたいに、耳に流れ込んでいた。
やがて扉が閉まり、目の前で走り去っていく電車に目を細めた。肩が、震える。全身が、凍えていた。飛び込むつもりだったのに、飛び込めなかった。志弦がいないのに。この駅で待ち続けたところで志弦は迎えに来てくれないのに、私は飛び出せなかった。
嫌だった。真っ直ぐな目で夢を語った志弦が、私に全てをくれた。幸せを、生き方を、教えてくれた。
彼は、私にとっての青い蝶だったと、証明しなければならないのだ。こんな終わり方では、証明できない。彼に報いることが、出来ない。彼が生きていた証も、彼の生き様も、描けるのは私だけなのに、私まで終わってはいけなかった。
絵本作家になりたいなんて、叶うかも分からない夢。それでも、叶えなければならなかった。彼が真っ直ぐに立ち向かって、それでも尚伝えられなかったことを、伝えられる手がここにある。彼が見せてくれた光は、道の先にあるのだ。
それでも、涙は止まらない。私は欲しがりだから、志弦の体温が欲しかった。私は我侭だから、彼に抱きしめてもらえなければ、震えが止まりそうになかった。
もう一回だけ、と願ってしまう。もう一回、私の名前を呼んで欲しい。
私もあなたの名前を叫ぶから。声を、届けるから。聖、と、応えて欲しかった。
手を伸ばしてくれたあなたに名前を呼ばれるだけで、私は、幸せだった。
(一)
志弦がいなくなったことで空いた穴には、彼の夢と、彼の思い出を必死に詰め込んで、私はどうにか顔を上げていた。
あれから数日の間、世間は志弦の事件で騒いでいた。志弦を刺したという柚季の母親は逮捕されたみたいだ。志弦の両親は、志弦の為に出来ることは何かと考え、中学時代の遺書を公表したらしい。メディアによっては全文を取り上げているところもあり、彼の人生は人々の心を少なからず動かしていた。
皮肉なことに、生きていた彼がどれほど叫んでも届かなかった声は、遺言となってから反響を呼んでいる。芸能人の訃報は死を悼むためのものだと分かっていても、彼の生涯がドラマみたいだからと連日騒がれている雰囲気に、複雑な気持ちを抱いてしまう。
日頃何の気なしに悲しいニュースを眺めていたが、恋人が当事者になって、痛みを知った。
どうして、生きている時に彼を見てくれなかったの。どうして生きている時の彼を認めてくれなかったの。生きていた時の記事には、女が男役をやるななど、彼の性別を否定する言葉ばかり集まっていたのに。どうして命を落としてから『辛かったんだろうな』なんて言えるの。
そんな、八つ当たりじみた恨み言が溢れてしまう。
もう、誰の言葉も彼には届かないが、今では彼の生き様を称賛する声も多くなっていた。
自分らしく、好きな格好で生きる人を批難する人は以前より減ったように感じる。それでもまだ、男はこうあるべきだとか、女はこうあるべきだとか、そういった意見も色濃く残っている。人と違うことをして、異端とみなされていじめられる子供の自殺も、ニュースで度々話題になる。
子供の時から養った感覚を、大人になってから変えられる人と、変えられない人がいるのだと、私は思う。
だから、子供の時なにに触れて、何を知るかが、きっと大事だ。志弦が命を込めた声は、多くの大人にも届いた。今度は私が、子供達や、あわよくばその親にも、伝えたい。
生き方は、自分で決めて良いのだと。好きなように生きて、好きなように自分を貫くのが、誰より格好いいのだと。そしてそれが、批判されるものではないことを、知って欲しい。
真っ当に生きている人の生き方が、間違っているわけがない。その人の心が、個性が、歪められていいはずがない。
私は、筆を取る。まだ拙い筆遣いで、拙い言葉で、物語を
片方の羽がないことで、幾度も心無い言葉をかけられて、それでも飛び続ける。美しい蝶の話。
手元に目を落とすと、私の胸元で二つのネックレスが揺れていた。小さな金属音を立ててぶつかったそれが、一羽の蝶になる。それをなぞった指先で、安っぽい青色のマニキュアが艶めいた。
生き方なんて、そんなの分からない。さながら台詞のように重なった言葉が、懐かしい。
これが、私の生き方だ。本当の自分で、本当の心で、生きていく。
片羽を
地に落ちても舞い上がって、落ちそうに揺らぎながらも美しく生きた、片羽の蝶みたいに。
彼が生きてきた証。その暖かな炬燭は、私が四季を辿る為に、仄暗い道の先を明るく照らしていた。
キョショクのシキ 藍染三月 @parantica_sita
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