キョショクの死期4

     (三)


 四季はゆるやかに巡っていった。同じ日々を繰り返すようで、けれど繰り返す度に見えてくるものも、どこか変わっていくものもある。

 志弦は、少しずつ物を食べられるようになったようだった。聖に好意を示され、自分自身への嫌悪感が薄れていく程に、彼の拒食の色は透き通って、やがて見えなくなった。長い間否定され続け、否定してしまった自分自身を肯定することに時間はかかったようだが、聖の存在が大きな輔翼となっていた。

 そして二年になった彼は、演劇部への入部を決める。もともと演じて生きてきた部分があるからか、芝居のセンスは備わっていたのかもしれない。或いは、舞台映えする容姿のせいか、早い段階で役を得ることが出来ていた。初めは課題だった腹式呼吸や鼻濁音、無声化といった、役者に必要な技術も次第に得ていく。その成果を聖に報告するのが彼の日課のようになっていたが、聖としてはその用語がどういうものか分からないことも多く、苦笑することも多々あった。

 とはいえ未経験者な上に、二年時からいきなり入部した志弦が毎度役を持っていくのは、他の部員からすれば面白くなかったようで、友達という友達は作れていない。陰口も多かったが、三年時には役柄の成長までも演じられるようになったものだから、文句を言う者は減っていった。場面転換の度に微かな声柄の変化で垣間見せる、心の成長。それによって生じる動作の変化も、指先の動きに至るまでその役らしさで染め上げていく。普通に観ていれば気付かないほどの変化を重ね、最後には確かに成長したことが分かる演じ方は、観客を唸らせるほどだった。運にも恵まれたのか、地区大会の際、志弦は芸能事務所から声を掛けられていた。

 聖はアルバイトを始め、志弦が部活動に専念している間、ひたすら働いてお金を稼いでいた。毎月の給料の半分を母に渡し、残りの給料は志弦と遊ぶ為や、貯金に回していた。聖は、結局未だに夢を見つけられていない。その夢を探すために、大学に行くのが第一目標だった。とはいえ、必死に貯めたとしても学費はどうしても足りない。母を頼ることも中々出来なかったが、三年生になった際、進路の悩みを打ち明けた。母も金銭的余裕はないものの、反対はせず、親身になってくれた。

 高校一年生だった二人の出会いから、四年が経つ。奨学金を借りて大学へ行った聖は二年生になり、手探りのまま前へ歩き続けていた。高校卒業後に芸能事務所へ所属した志弦は、徐々に目立つ役もやり始めている。

 彼の、女の身体だが男役がやりたいという要望は、事務所では面白いからという理由で受け入れられたが、共演者全てに受け入れられるわけでも、観客、視聴者の全てが寛容な目で見てくれるわけでもなかった。

 もとより覚悟の上であったため、誹謗中傷を目にしても志弦がそれを気にすることはなかった。脚本の上でも、日常生活の中でも、一人の男として歩んでいくだけだ。彼が出演作を増やしていくうちに、その生き様に興味を示す人も僅かながら増えてきている。

 志弦は呼吸を乱しながらも疾駆していた。目的を一つずつ果たしていくために。


「――お久しぶりです、伯母さん」


 アパートの一室の呼び鈴を鳴らした志弦は、扉を開けた女性に真剣な諸目を向けていた。伯母――柚季の母は一瞬の驚倒をすぐさま隠し、目顔に険を滲ませる。志弦の記憶よりも皺が増え、疲れきった相貌。時の流れと彼女の苦痛は目顔に現れていた。


「どうしてここが?」

「たまたま駅で貴女を見かけて、追いかけてきました。ずっと探していたんです。見失ったら、今度こそもう会えないと思った。だから急なことで、花も何も用意出来なかったんですけど……そんなものは結局、僕の自己満足にしか見えないでしょうから、無くてよかったかもしれません」


 苦笑を形作る志弦の拍動が早まる。不安が溢れかえっていた。伯母に対し、どういった表情をすれば良いのか、志弦自身分かっていなかった。向けられる軽蔑、憤然、怨嗟全てが刃となって突き刺さる。黒い眼を真っ向から見つめ、志弦は開口した。


「柚季のこと、本当に申し訳ありませんでした」

「謝ってもあの子は戻ってこないのよ」

「分かっています。それでも、僕は謝ることくらいしか償いの形が分からないんです。なにか、求めるものがあるのなら言ってください」

「お金で解決しようとか思ってるの? あぁ、あなた、芸能人になったものね」


 下げた頭を持ち上げて、志弦は瞠然とした。嘲笑を孕んで歪められた伯母の顔は、どこか自嘲的でもあった。


「そんなことは思っていませんが……僕のこと、知っていたんですか?」

「テレビで見たのよ。見る度思い出していたわ。柚季のことも、あなたのことも、あなたの馬鹿げた作文も妄言も」

「……伯母さん、僕は貴女に、柚季の分まで罪悪感を覚えて欲しいとは思いません。それでも真実を受け入れて欲しいとは思うし、だけどその上で貴女には幸せになって欲しいと思います。僕も罪を受け入れて、それでも前に進んでいきたいからここに来たんです」


 言葉は返されない。それでも伯母の憤懣が志弦には伝わっていた。切歯している彼女に、志弦はメモ用紙を一枚差し出す。


「僕に出来ることがなにかあれば、電話をしてください。本当に、すみませんでした」


 番号の書かれた紙を受け取るなり、伯母は勢いよく扉を閉める。もう志弦の前で開くことはないだろう扉の前で、長息が吐き出されていた。詰まっていた呼吸を整えた志弦が爪先の方向を変える。面差しは険しく、血が滲むほど唇が噛み締められていた。

 贖罪の意思を見せに来たつもりが、結局は自己満足のようになってしまったことを悔いていた。どんな言葉を渡せば良かったのか、その正答が未だに彼の脳に浮かんでいなかった。けれども外へと足を踏み出したところで、どうにか気持ちを切り替えようとする。


「……雪、か」


 晩照で煌めきながら舞い落ちる瑞花を見上げる。無意識下で肩を抱いていることに気が付いて、志弦は苦笑した。

 通りかかる建物の何軒かはイルミネーションが施されている。クリスマスが近いことを実感しながら、再度駅へ向かい始めた。

 これから久しぶりに、聖に会うのだ。聖は試験で忙しく、彼は稽古でなかなか時間が取れず、およそ半年ぶりの逢瀬だった。聖のことを思案して、人知れず破顔する。仕事も安定してきた彼は、聖に同棲の話を持ちかけるつもりだった。そして、ようやく主演を務めることが出来るのだという報告も喉元で揺らいでいる。聖と会って口を開けば、すぐにのべつ幕なしに語ってしまいそうだった。

 志弦は、ここからだ、と気を引き締めるべく深呼吸をした。今しがた自分の罪と向き合い、懺悔をしたことで前進し始めていることを感じていた。

 あまり人気のない道で、歩道橋を見上げる。ゆっくりと階段を上り始めていく。ふと、視界で揺れる柳髪を意味もなく指先で撫ぜてから、肩の後ろへと払った。彼女が好きだと語ったそのままの姿で、志弦は息衝いていた。

 この姿で男だと語ることを、気持ち悪く思われることも、嘲笑されることも、未だなくならない。いつになってもなくならないかもしれない、ということは彼も分かっている。それでも、自身が堂々と真っ当に生きることで彼は高唱したかった。その為に、もっと声を上げなければならない。

 この身体で、この性別で、真っ直ぐに生きることは幸せなのだと。好きなように生きることは、何も間違いではないのだと。その全てを証明するために、舞台へ上がり続けなければならない。役ではなく、彼自身が発言出来る場も多く手に入れなければならない。

 何年かかるか分からない道のりに、決意を重ね続ける。

 階段を上り切った先で、志弦は落日を眺めた。炎を硝子に閉じ込めたような光の色に、聖の双眸を回視した。どうしてか夕映えを前にすると、志弦は時折彼女のことを思い浮かべていた。暖かくて力強い、燭光を揺らめかす彼女には、夕刻がよく似合う。そんなことを思惟し、彼女の待つ場所へ向かっていく。

 踏み出した刹那、視界が反転するように揺らいだ。背後から肩を引かれて、瞠若している内に力強く押されていた。


「……え」


 溢流した呻吟は、ひどく、掠れている。目の前が明滅する。熱を持った脇腹が、全身を焼き尽くすような酸痛を広げていく。皮下組織まで沈み込んだ刃が骨や臓腑さえも穿通しようとしていた。


「あなたが……あなたが悪いのよ……!」


 躊躇いもなく刃を引き抜かれ、片膝を突いた志弦は自身に影を落としている女性を見上げた。引き攣った吃驚を零せば、激痛が走る。痛みや一驚で震える度、傷口が開いて肺を抉るようだった。


「伯母、さん……」

「柚季がいなくなってから、私が何を考えていたかわかる……? どうすれば柚季が報われるのか、ずっと考え続けたのよ! あなたに謝られても許せないの……! もうこうするしかないでしょう⁉」

「……これじゃ、駄目だ……」


 傷口を押さえながら伯母を見上げる。喚叫してしまいそうな程の疼痛を噛み殺そうとすると、噎せ返るほどの血の味が広がっていく。錆び付いた鉄に似た、鼻骨に徹る凄惨な臭い。汗ばんだ手の平を滑る生温い紅血。夕焼けよりも黒い、緋。耳鳴りがしていた。意識が血の泉に沈んでいくようで。浮かんでは弾ける血の泡が聴覚を狂わせていくようだった。

 どうにか自我を保ち、志弦は力なく首を左右に振る。声さえも、血液に呑まれていくようだった。


「駄目って、なにがよ! まだ幸せになりたかったとでも言うつもり⁉ ふざけないで! 初めからあなたが死ねば良かったのよ!」


 肺が、悲鳴を上げながら血煙を燻らせる。歪な音を立てて肋骨を削ったその切っ先は、確かに心臓を貫いた。喘鳴が零れる。強引に引き千切られた血管が、臓器が、赤黒い液体を夥しく溢れさせていた。押し退けられた身体は重苦のせいで簡単に倒れていく。冷たいコンクリートに頬を擦り付け、志弦は痙攣した手で左胸を押さえた。呼吸をすれば苦し気な吐息が風の音みたいに透き通っていく。訴えは、なにも届かない。どうして、と拳を握り、腕を震わせた。唇は、声を漏らしてくれなかった。


 ──駄目なんだ。これじゃあ、誰も救われない。


 力なく首を振ることでしか、志弦は真情を示せなかった。償わなければならないことは、よくわかっていた。だからこそ贖うつもりだった。それでも、伯母にまで罪を背負わせてしまうつもりなどなかった。

 待ち侘びた逢着の結果は、怨色に染まる。朱く、黒く、意識が混濁していく。何も吐露出来ぬまま、灯火だけが掻き消えていく。蝋が全て溶けてしまうのを、志弦は感取した。それと同時に、目の前が掻き曇る。体躯が磨り潰されるような痛みは遠のいていく。それなのに、眼差しだけはひたすらに熱かった。熱が失せない。眼球が溶けるほど炙られるような痛みに、彼の頬が濡れていた。


 ――幸せになりたいと願うことの、何がいけないのだろう。


 奪われ、奪い、それでも幸せを望むことは、これほどまでに許されない罪だったのだろうか。贖罪を終えるまで、自身を、聖を、好きになってはいけなかったというのだろうか。これが罰だというのなら、志弦はただ、どうしてと尋ねたかった。

 音が、遠い。志弦にはもう、伯母の声は届いていなかった。振り下ろされ、肩に突き刺さった剣尖の痛みすら、わからなかった。


 ――聖。


 息だけで象ったのは、彼女の名前。浅くなる呼吸に、音吐は伴われない。会いたい。そう紡いでも、彼女には届かない。それでも、願わずにはいられなかった。


 ――あと一度だけでいい。お願いだから、どうか。


 志弦の頬を伝い続けるのは、溶け出した硝子細工のようだった。まるで体の熱を、全て零していくかのようだった。その雫が枯れてしまえば、冷え切った身体は息さえ出来なくなる。酸素を嚥下することすら、拒むようになる。そうなる前に、と、焼け爛れた喉頸から、音を忘れた嗚咽を吐き出していく。


 ――彼女の声を、聞かせて欲しい。


 視界は暗幕に覆われる。何も見えない。寒さと、それすら溶かそうとする熱だけが、朧げな生を証していた。真っ暗なはずの目の前に、幾何学模様が映り込む。万華鏡のようなそれが、とても綺麗な蒼をしていた。

 その色は、なんの色だったか。明滅する燐光が回顧させてくるのは、何であったか。

 志弦は、炬燭の死期を悟って走馬灯を巡ろうとした。けれどその両目は何も映さない。なのに、愛おしい声が、聞こえたような気がしていた。

 ああ、と志弦は思う。まだ本心を、本当の証明を、終えていないことを想起する。


「……しあわせ、だったん、だ……き、みが」


 ――君がこの手を取ってくれた時から、ずっと。

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