キョショクの死期3
「っ……そうじゃないの」
聖が眺め入った黒目は、空気を包含した黒曜石を思わせる。光が差せば青く澄んでいる様を見て取れるようだった。角膜が灼かれそうな程まぶしい外光。志弦はただ静かに、聖の言葉を待ち受けていた。
さらりと流れる翡翠の
仮面を剥がれ、教室で泣きじゃくっていた聖を、夕焼けの中で認めてくれた彼。虚飾にそっと触れ、何にも飾られることのない聖を受け入れてくれた。綺麗事であしらうことなく、そのままで良いのだと、手を差し伸べてくれた。
聖は、彼の袖を引っ張りながら彼に詰め寄る。息がかかる程の距離で凝望した彼は、瑠璃のようだった。透き通った彼が陽光に消されてしまうような錯覚で胸が痛む。
聖が酸素を吸い込んだ音は、泣き出す直前の旋律と似ていた。
「ねぇ、よく聞いて。私、恋愛対象としてあんたが好きって言ってんの。友達よりもっと、もっと特別で好きだから、あんたを幸せにしてやりたいの……!」
初めこそ、後悔の字を脳裏に巡らせたこともある。偽らない己を曝け出したところで惨めにしかならないのだと、知っていたからだ。
本当の自分を殺さずに、偽らずに生きて、それで幸せになれる場所などありはしないのに、どうしてあの手を取ってしまったのだろう──肺腑で、そんな自問ばかり繰り返していた。それとはまた別の煩悶は、今も巡っている。
「……本気で、言ってる?」
あの日、友となった時のことは、後悔で染まらなかった。
聖の虹彩が、志弦を真っ直ぐに見つめている。情動に呼応して揺らぐ眼界で、茜空を映し合う。手を伸ばしたことを、なかったことにするつもりはなかった。
「本気に決まってるでしょ! でも志弦が男だって聞いたからじゃない、志弦が綺麗な女の子だからじゃない。あんたの心が、言葉が、生き方が、大好きだから言ってるの!」
「けど、僕は」
声を上げても尚、迷いが揺蕩う。双眸で揺らめく燭光があまりに美しく、触れることに躊躇してしまいそうだった。震えた息が喉奥で燻る。
志弦は思わず目を逸らそうとした。その赫焉に焦がされてしまいそうだったから。けれども、聖は彼を逃さない。聖の眼差しは志弦の瞳孔を刺し貫いたまま泳がなかった。
「好きになるのに、性別なんて関係ないわよ。だって、その人の心から吐き出されてる言葉が、暖かさが、ずっと近くにあって欲しいって、そういうのが好きになるってことじゃないの? 心も、言葉も、性格も、そこに性別も見た目も関係ないでしょ? 男らしい、女らしいなんて、そんなのその人の価値観で勝手に決められるもので、だから誰だって、好きなように考えて良いし、好きな言葉を言って良いし、好きな風に生きれば良いと思う。でもそれが難しいのもわかってる。だから、その難しいのに向かっていこうとしてる志弦の姿も、ずっと近くで見ていたいんだよ……! 志弦が幸せになるのを見届けなきゃ、私と出会ったことがあんたの幸せに繋がったかなんてわかんない! 見させてよ! あんたが幸せになれること、私の手を取ったから幸せになったってこと、証明させてよ! 証明するから! あんたの手を取って、私は幸せだったって!」
聖の頬を下った雫が、露光を溶かす。志弦は、柔らかに相好を崩していく。白磁の手は聖の指をそっと掬い上げた。
「見てて。幸せを証明するのは、僕の方だから」
まるで口付けでもするかのように、持ち上げられた手。その手は、指を絡められてそのまま下ろされた。巡り合う温度は、相手を染色しようとする。暖かさに、冷たさに、心地良さを感じていく。
窓から差し込む日影へ、聖は穏やかに目を細めてから、瞠目した。
「…………え、あ、その、付き合って、くれるの?」
信じられないと言わんばかりに大きくなっていく黒目を前に、志弦は首肯した。この人と自分は釣り合わないかもしれない、という思いが浮き沈みしている。互いに後ろ向きな真情を抱いてはいるものの、双方共に踵を返すつもりはないようだった。
「聖さえ良ければ、僕と、付き合ってくれるかな。一人じゃ歪にしか飛べないし、他の誰とでも飛ぶことは出来ないから。君に、いて欲しい」
「……うん」
片羽が
頷いた聖の頭が、志弦の胸元に軽くぶつかる。そのまま顔を上げない彼女に微笑しながら、志弦はその頭を優しく撫でていた。
「君が僕を青い蝶だって言ってたから、僕も、君を幸せにしないとね」
「今すっごく幸せだから気にしなくて良いの」
聖の腕が志弦の背に回される。聖よりもやや背の高い彼は、とてもか細い体躯をしている。その儚さを抱きとめてしまって、聖は震えた睫毛を伏せた。強く、腕に力を込める。彼という存在が崩れてしまわないことを、確かめるように。
聖は、自身が虚飾を捨てられたように、拒食がなくなることを祈った。いつか彼と、美味しいものを食べて笑い合いたい。同じ味が好きだと知ったポップコーンを、二人で食べたい。
抱きしめ続けていると、その背は彼に、とんと小突かれていた。
「ところで、どうやらとっくにチャイムは鳴っていたみたいなんだけど、どうする?」
「……もう少し、志弦といる」
志弦から離れた聖が携帯電話を確認してみたら、確かに昼休みは終わっている。予鈴も本鈴も聞き逃すほど、志弦と話すことだけに意識が向いていたらしい。それを自覚した頬は朱を帯びていく。
洗面台に後ろ手を突いた志弦の隣で、聖も同じように流しへ寄りかかった。耳を澄ませば、校庭で体育の授業をしている生徒の声が聞こえてくる。本当に授業中なのだなと考えながら窓を見やった聖の視野に、志弦の横顔が映った。
「ねぇ、志弦はいつか体も男の子にする為に手術しようとか、考えてる?」
「考えたことはある。けど、僕はこのままで良いよ」
「……嫌じゃない?」
聖の問いに、志弦は嫌な顔一つ浮かべない。それは、聖の声柄に心配だけが包まれているからだろう。男の体になって欲しいと、聖に望まれているわけではないことを理解しているからこそ、志弦は微笑を湛えていた。
「今までは嫌だったけど、今は聖がいる。このままの僕を好きだって言ってくれる君がいるから、僕は誰にどう言われてもこのままで良い。堂々と、この姿のままで男として生きていくよ。体の性なんて僕には関係ない。だって、好きな服を着ているのと同じようなことでしょ? 好きな見た目をして、好きな自分のまま生きた方が、きっと楽しいよ。僕の好きな見た目は、君に好きって言ってもらえた今の体だから。変わらなくて良いんだ」
志弦は、初めて抱いた違和感を追思していた。不満を思い起こす。
決して、その身体が嫌だったわけではない。その身体でいることで、強制される事柄が嫌だったのだ。その身体で生まれてきたことや、男である心を持って生まれてきたことを悪だと定めるように、嘲謔を向けられることが嫌だったのだ。そして投げ続けられた否定の声に影響され、己の心身を厭悪したことにさえ、情けなさが込み上げる。
「ずっと……好きになりたかったんだよ。ずっと、そのままの僕を好きでいたかったんだ。自信を持って、これが僕だって、逃げずに言い続けていたかったんだ。だから、もう、逃げたくない。自分を誤魔化したくないんだ」
「志弦のそういうところ、格好いいよ」
目を瞑ることなく自身を見下ろし、前だけを見据えた彼の心に、聖は朗笑する。返事がないため聖が彼を仰いでみれば、彼はどうやら俯いているようだ。真っ直ぐに落ちた長い髪が、その面貌を覆い隠してしまっている。
照れているのだろうかと推考して、聖は口端を緩めたまま彼の肩へ頭を預けた。
互いに緘口しても、気まずさは不思議と浮かんでこない。緩やかな時の流れに落ち着いて、眠気さえ漂うようだ。聖は穏やかな目見で、先のことを考えてみていた。
「……そういえば志弦、進路決まってる?」
「やりたいことはあるけど、正確には決まってない。聖は、なりたいものとか見つかった?」
正面の壁を眺めながら、聖は想見する。画用紙を瞼の裏に映し、未来というものを思い描こうとする。けれども手にしている筆はただ濡れているだけで、色を纏ってはいなかった。
「まだ、ないけど……小説家、とかどうだろう。私、あんたとの思い出を書き留めて、自慢してみたい」
「なにそれ、やめてよ恥ずかしい。絵本作家とかは? 可愛かったよ、ノートに描いてた猫」
「わ、忘れてよ、もうっ。志弦のやりたいことってなんなの?」
聖の筆とは違い、志弦のものには色が付けられているのだろう。聖は彼を覗き見た。彼が思い描く先は、聖には予想すら出来ない。
どこか朱さを増したように思える白光に、聖は少しだけ諸目を細めた。夕刻にはまだ早く、斜陽よりも熱くはない。それでも、少しずつ陽が傾いていることはそれとなく感じていく。その眩さを意に介さず、彼は少しだけ上を向いた。真っ直ぐに届く光を柔らかに浴びる横顔は、まるで絵画のようだった。
「無理かもしれない、というか、無理な可能性の方が大きいんだけど……俳優になりたい。この体のまま、男として、役者になりたい」
陽だまりに明澄な響きが染み渡る。鍵盤を一つ押し込んで、その余韻が自然と消えていくのを傾聴しているみたいだった。
舞台に立つ彼を、見てみたいと聖は思う。だが心配が唾液から滲んでくるようだった。
「……志弦なら、なるんだろうなって思う。でも、そうしたら嫌なこと、増えるんじゃない?」
「良いんだ。嫌なことがあっても、聖がそれを忘れさせてくれるでしょ? 僕はどうやら、まだ諦めきれてないみたいでね」
「諦めきれてない、って?」
「僕みたいな人間が当たり前に存在していることを、この体と心で証すこと。認められるまで、笑い者にされても構わない。僕は少しでも、世間の目を変えたい。自分らしく、堂々と生きたいから」
道化となる道を見据える彼は、針のような強さを持っていた。彼は無意識下で分かっているのかもしれない。開幕、幕間、そして閉幕で、観客の意識を華麗に攫うのは、道化の役目でもある。
嘲笑を向けられるのは、興味を持たれることと同義だ。彼は悪意でさえ利用し、押し潰されぬよう前だけを正視して、堂々と生きる覚悟を決めていた。
聖は、そんな彼に微笑した。台に突かれている彼の手の平に、何気なく自身の手を重ねる。それに気付いた彼は、名花の如く唇を左右に引いていた。
「それと、夢とは違うけどしなきゃならないこともある、かな」
「え、なに?」
「柚季の両親に謝りに行きたいんだ。人の命は何にも代えられないものだし、謝っても、何を渡しても許されないことはわかってる。けど、謝らなきゃいけない。柚季は僕から心を奪ったけど、彼の両親はただ、僕に家族を奪われただけだから」
志弦に心が傾いている聖としては、複雑な心境だった。何故彼が罪科を抱え、贖罪をしなければならないのか、納得がいかなかった。それでも、彼がしたいと望むことを止めるような真似は出来ない。部外者である自身が土足で踏み込んではいけないと、聖は真情を沈めた。
柚季の両親に会うことで、彼は苦しむかもしれない。けれども、柚季の死を自身の罪だと認識している彼としては、贖わなければ前へ進めないのかもしれない。聖は答えを探して、思い回していた。
「……いつ、いくの? 付いていこうか?」
「一人で行かなきゃ、駄目だよ。それに彼らも引っ越していたみたいでね。ウチの両親と縁を切った後のことだから、どこに住んでいるかわからないみたいなんだ。少しずつ、探し始めたい」
「そっか、見つかるといいわね」
「うん」
頷いてから顔を上げた志弦は、青を失くし始めている空を静観する。四階の高さから見える景色は、罪を浴びた日とあまり変わらない。しかし目を凝らしても、見知った建物は見えそうになかった。
志弦は、聖と手を握る。縋るように、その暖かな人肌を、冷え切った手に伝播させていく。
この手が在り続けてくれるのなら、飛ぶことは怖くない。歪な飛び方でも、嗤笑を向けられても、地へ落ちそうになっても飛んでいける。
羽のない半身を支えてくれるのは、空でさえ描けない青さを持つ、幸福の蝶なのだから。
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