キョショクの死期2

     (二)


 彩夏と和解した後、教室内での聖は元通り仲良し四人組の内の一人、という立ち位置になっていた。琴音と美智は聖に対して大きな不満はなかったようで、彩夏から仲直りしたと聞いたらすんなり受け入れた。変わったことと言えば、聖が節約にこだわりすぎることが揶揄われたり、恋人に関する話題は特に上がらなくなったりと、その程度だった。

 騙る必要も繕う必要もない関係は、息がしやすい。聖は、新鮮な空気を取り込むように自席で深呼吸をした。四限が終わると同時に席を立ち、鞄を肩に提げると、彩夏が机を叩いてくる。


「ね、昼はどうせぼっち飯してたんでしょ? 普通に私らと食べれば良くない?」

「あー、初めはぼっち満喫してたわよ。今は志弦と食べてんの。だからごめん」

「あぁ、そういうこと。あんたさ」


 机上に手を突き、立ち上がった彩夏が聖に詰め寄る。真剣な面様に聖が息を飲んでいれば、彼女は急所を突いてきた。


「色野さんのこと、好きなの?」


 どこまでも一直線な問いかけは聖の拍動を一瞬だけ制止させる。照れ隠しのように後ろ髪を掻く聖は、口籠った。

 志弦へ抱いている思いを、聖は自覚している。彼と顔を合わせる度に思い知らされている。それゆえ正答は心底に収められていた。言葉に出せないのは、彩夏がそれをどう受け取るか分からないからだろう。お陰で絞り出された呻吟は曖昧な響きだった。


「……志弦、かっこいいじゃん」

「え、ガチなやつ?」

「人柄が、タイプ」

「それほんとに本気なやつだね?」


 苦笑気味に返され、聖は小さく頷いた。その肩へ、彩夏の手がそっと乗せられる。それは聖を励ますものだった。


「頑張りなよ」

「……引かないのね、彩夏は引くと思ってた」

「そりゃ、顔が好きだとか言い出したら、うわー面食いーって思うけど。内面好きになったんなら良いんじゃない? 話が合う人とか、意外といないもんだよ。私は同性と付き合うとか御免だけどね、他人が誰と付き合おうが別に何も思わないわ」


 彩夏は、じゃあまた、と涼やかに告げると美智たちの座席へ歩いていく。その背を眺めた後、聖は双肩から力を抜いた。

 いつも通り、人に見つからぬよう傾注しながら、四階へと上って行く。階段を一段上がるごとに喧騒から遠ざかっていく。寂然とした四階は、ほんの少しだけ埃っぽく思えた。窓際で舞っている塵が日輪で光っている。鱗粉じみたそれを後目で映し取ってから、聖は女子トイレへ向かう。

 洗面台に寄りかかっていた志弦が、聖を暖かく迎え入れた。


「聖と食事をするのは久しぶりだね」

「あんたが学校来るのが久しぶりなせいでしょ」


 鞄を床へ投げながら、聖はふと、洗面台に置かれている弁当箱に黒目を引き止められる。物を食べられない彼に似合わず、大きめの弁当箱だった。


「志弦、お弁当いつもより多くない? 二段になってる、なにそれ、そのうち重箱になんの?」

「ねぇ、僕が突っ込む隙を一秒くらい与えてくれない?」

「ごめん、びっくりして」


 頬笑を交わしていると、志弦がその弁当箱を二つに分けていく。聖はコンビニで買った菓子パンを鞄から引っ張り出していた。


「母さんが作ったご飯、食べたくなってさ。まだあんまり食べられないけど作って欲しいって頼んだんだ。昨日は夜ご飯もみんなで食べた。二口くらいしか、食べられなかったけど」

「そう、なんだ」


 食べ物を食べられない、という症状は、簡単に霧消してくれるようなものではないのだと聖は知った。気持ちだけではどうにもならないものなのだろう。寂しげな彼の外貌から、思わず目を逸らしていた。


「久々に団欒をしたよ。お昼、友達と食べてることを話したんだ。その子いつもパン一つだけなんだよとか、この前遊びに行った時も財布と睨めっこしてて可愛くてって笑って話してたら、今朝二段作ってた。分けてあげてってさ」

「え……じゃあ一段私の分⁉ くれるの⁉」

「そ。ほら、中身同じだからどっちでも良いよね。あげる」

「やった……! わっ、美味しい!」


 差し出された弁当箱を嬉々として受け取り、聖は透かさず唐揚げを食べていた。頬いっぱいに詰めて破顔している様に、志弦も微かに笑んでいく。


「本当? ……うん。そうだね」


 志弦が口腔に含んだのは卵焼きだ。一口大に切られているものを更に半分に分け、咀嚼していた。箸を持ったままの手が、考え事でもするかのように唇を覆う。そうして聖に背を向けると、洗面台に片手を突いて項垂れる。


「志弦?」

「……ごめん、聖。これ、ちゃんと食べ切りたい。だから、廊下出てて欲しい」

「え?」


 聖が打ち守る先で、志弦の背が痙攣するように跳ねてから前方へ傾いていく。泡が弾けるような音に、嗚咽が伴われ始めた。聖は弁当箱を足元に置いて立ち上がる。近寄って良いのか、踏み込んで良いのか、躊躇うあまり、彼に近付く足取りはよろめいていた。

 恐る恐る覗き込むと、志弦は乱れた呼吸に食べ物を絡め、無理矢理咽喉へと押し込んでいた。先刻吐き出したせいで唾液が顎へと伝っている中、それでも彼は咀嚼をしていた。時折瞠目しながら、時折口元を手の平で覆いながら、彼はひたすら顎を動かしていた。

 やがて細い喉頸が上下する。念入りに磨り潰したにも拘わらず、やはり呑み込めなかったらしい。悲鳴じみた息を微かに漏らした直後、彼は口元を押さえたまま下を向いた。絹糸のような柳髪が流れ落ちて彼の顏を隠す。唇に宛がわれた手の平の隙間から、呑み込めなかった異物が落ちてゆく様は、聖の位置からでは窺えなかった。しかし彼が吐出したことは分かったみたいだ。苦し気な背を摩ろうと近付くも、再び昼食へ箸を伸ばす彼の諸目を見たら動けなくなってしまう。

 凛乎とした明眸は折れ曲がることを知らない金属のようだった。けれども熱せられて溶け出していく。濡れた眼をそのままに、彼は唐揚げを口の中へ入れる。咀嚼し、吐き出していく。繰り返される度に嗚咽さえも枯れていくものだから、聖は耐え切れなくなってその肩を引いていた。骨の形が分かるような、痩せ細った肩だった。


「っ志弦、そのくらいに……」

「駄目だよ。駄目なんだ。僕だって、変われないままは嫌なんだ。こんなに美味しいのに、大好きな味なのに、食べられないなんて……嫌だ」


 食べ物を舌の上に乗せた時、志弦は確かにその味を深く噛みしめていた。冷めていてもそれは母が拵えてくれたものなのだと、彼にはよく分かる。だからこそ、柔らかな旧懐ごと呑み込みたかった。彼にとって特別な味を孕んでいるそれなら、食べることが出来ると信じたかったのだろう。

 次こそは。その気持ちで再度箸を持ち上げた彼の手は、聖に引き止められていた。


「変われるよ。変われるから。少しずつ、変わっていけるんだよ。焦んなくて良いじゃん……!」

「……大丈夫。無理は、しないから。せめて、全部ちゃんと味わいたい。聖、廊下に出てて」


 弱り切った声柄は、しかし芯を持っていた。灯光が消えたとしても、蝋はまだ残っているのだ。止められたとしても、志弦はそこへ火を灯し続ける。諦念を覗かせない双眼を前に、聖は引き下がることしか出来なかった。


「…………うん」


 遠のいていく足音へ、志弦はゆっくりと睫毛を下げて転瞬した。メトロノームのような靴の音が鳴り止んだ頃、開口した彼は固形物を舌先へ押しやった。咀嚼している彼の喉からは焦慮が競り上がってくる。彼が望んでいない拒絶が、脳から流れ出して気道を狭めていくみたいだった。それ以上噛む意味もないほどに磨り潰した食べ物を、必死に嚥下しようとする。けれど結果は同じだ。果然と、嘔気に襲われていた。

 それでも飲み下すべく口元を覆って顎を持ち上げる。唇の裏側を抉るように噛み、開口しないよう必死だった。息さえも止めてしまいそうな抵抗。だが充溢した哀哭が高い金属音じみた悲鳴を漏らす。堪えきれなくなったように、俯いた彼は吐き出した。乱れた呼吸は喘鳴のようだ。自身の耳を劈く呻き声が限界を告げてくる。早鐘を打つ胸を自ら苦しめているのだと分かっていても、彼は眼前だけを注視していた。

 もう一度、具材を唇の前まで運んでいく。震えた息に、それを絡ませて噛み砕いていく。彼は、瞬きをする度に両親の姿を回顧していた。

 息子の為に作ってくれたものを、食べずに捨てられた時、母はどんな気持ちだったのだろう。両親に対する批難も混じった遺書を読んだ時、彼らは何を思ったのだろう。真っ当に生きられないこの様を見た時、彼らは、どれほど失望したのだろう。

 黙考の後に、嘔吐した。

 何回も、それを繰り返す。無駄に終わることが分かっていても、喉が切り裂かれたように痛んでも、目の前が霞んでも、弁当箱が空になるまで続けていた。


「……美味しかった。……ごめんなさい」


 己の体に残ったのは、情性だけだ。感謝の気持ちと、罪悪感と、数え切れぬほど溢れてくる情感。訳も分からず泣いてしまいそうな中、それさえも水音で溶かそうとした。

 蛇口を捻り、口元を漱ぐ。水は出したままだ。しかしその音よりも自身の声音の方が大きい。水声を縫いながら流されていく吐息に、志弦は眉根を寄せていた。


「志弦、大丈夫?」


 控えめに投げかけられ、志弦は静かに水を止めた。綻びのない笑みを湛えて振り返ろうとした彼だったが、その微笑は自覚出来るほどに引き攣っていた。


「大丈夫。ごめん、聖」


 志弦の背中側、奥にある窓から白日の光が差し込んでいる。それを真っ向から受けた聖は、落涙してしまいそうな虹彩を揺らして、微笑みかけていた。

 血管が透けて見えそうなほどに色を失くしている志弦の肌は、陶器のようだ。瞳には暗影が落とされており、その風付きはさながら廃人だった。目を離したら窓から飛び立って、そのまま消えてしまいそうな儚ささえ纏っている。だから、聖は彼の袖を引いていた。


「やっぱり、まだ、食べられないんだ……?」

「食べることに、慣れていかないと駄目なんだと思う。まだ、この体への嫌悪感が残ってるのかもしれないし」

「……志弦がその体を嫌ってても、私はその体も含めて、あんたが好き」

「……ありがとう」


 袖を摘まんだままの指先へ力が込められる。優しいけれど、聞き流すような言辞に、聖は口端を歪めていた。世辞や気休めの類として受け取られることが、聖に不安を抱かせる。聖は、心配だけに染まっているわけではないことを伝えてしまいたかった。

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