第四章

キョショクの死期1

 退院した色野志弦は、あれから一週間程度学校を休んでいた。抜糸を終えるまでは家で安静にすることにしたようで、式野聖が彼と交わせたのは文面でのやりとりくらいだった。授業のノートを撮ってメールで送り、そのついでに雑談の応酬をする。それだけでも、聖は夢心地でいられた。彼という灯光に触れられなくとも、その存在が勇気を揺らめかせる為の火種となっていた。

 制服のリボンを結んだ聖は、鏡に映る自身を一瞥する。以前に比べて薄くなった化粧も、精彩を取り戻したような双眼も、本来の彼女を映し出しているようだった。

 自室から外へ出る為に色を正すのは、そこに母親がいるかもしれないからだ。

 ここ数日、聖は母親と相対する決意を固め続けた。彼女が目指す自分へ変わる為に、向き合わなければならない相手は母親だ。それゆえ日毎ほぞを固めていたが、元々顔を合わせる頻度が少ない母親には、未だ会えていなかった。


「あ……」


 今か今かと待ち懸けた対面だが、実際顔を合わせると、決意というものは簡単に欠けていく。聖は、リビングでグラスを傾けている母親と向き合って、すぐさま唇を震わせていた。清酒ひじりの香りが鼻先を掠める。気怠げな目に刺された聖の瞳孔は、他所へ向けられた。


「聖。昼代、置いてあるから」

「……うん」


 冷然としているようにも感じられる口吻へ、聖は小さく頷いた。笑って会話をしたのはいつが最後だっただろうか。そんなことを思議した口元は自嘲を具象していた。

 母親のことを好きかと問われたなら、聖は返答に窮するだろう。彼女にとって母親は、娘を責め立て、無価値であると呪詛を吐いた人間だ。それでも嫌忌を抱くことがないのは、優しかった母親を知っているからだ。暖かい体温を、愛おしむような声音を、縋り付きたくなるような喜色を、しかと記憶している。眠れない夜に撫でてくれたことも、風邪を引いた時に寄り添ってくれたことも、確かにあったのだ。彼女の胸懐には拭い去れぬ情が残り続けていた。

 対峙を恐れる理由は、自身の発言次第でその情さえも見えなくなるほど、嫌悪が塗られる可能性があるからだった。


「お母さん」


 思惟の後、聖はテーブルの前まで爪先を進ませた。生唾を飲み下し、張り詰めた糸のような目線で母親を射抜く。伝え方を間違えてはいけないと、熟考するほどに聖は冷汗を滲ませていく。


「何。それじゃ足りない? 悪いけどあんたにあげられるお金はないのよ」

「分かってる。いつもありがとう。あのね、私バイト始めたいと思ってる。五百円じゃ、やっぱ苦しいから。それに、お母さんは一人で頑張ってくれてるんだからもっと苦しいでしょ。私だってもう、お金稼げる歳だから。何もしないで、文句言うだけの子供のままでいるのは、嫌なの」


 口無のまま瞠若している母親に、聖は唇を一文字に引き結んだ。勢いに任せて紡ぎ切ったが、見当も付かない答えを待つ間、ひたすらに憂慮が胸を焦がす。踵を返したくなりながらも、凛然と向き合い続ける聖の前で、母親は小さな溜息を吐き出していた。


「好きにすれば」

「……うん」


 優しいわけでも、冷たいわけでもない雰囲気が、聖を苦笑させる。母親が何を思ったか感じ取ることが出来ず、聖は内心切歯した。気まずさを覚えたことで震えた手を伸ばし、五百円玉を握り込む。それを懐に仕舞い込むと、玄関へ向かい始めた。聖、と呼ばれたような気がして、彼女は足を止める。しかし数刻待っても二の句が紡がれることはなく、聞き間違えだったのだと結論付け、ドアノブに手を掛けた。薄い扉の向こうから沁み込んだ冷風が、真鍮を冷え切らせていた。

 扉を開けると旭日が光を放っている。眩しいな、なんて考えながら聖はそっと取手から手を離した。


「ごめんね」


 双肩が跳ね上がる。聖が振り向いた頃には、もう扉は閉まっていた。陽光に溶かされたたった一言が、聖の肺腑を抉り出す。再度ドアノブに触れたが、結局引き返すように開けることなど出来ないまま、その腕は垂下した。


「……いってきます」


 扉越しにささめいた言葉は母親に届かなかっただろう。今の聖は、それを直接伝えに行けるほど強くはなかった。互いの間にそびえ立っている壁を、注視しながら歩み寄る。そうしただけで、聖の気力は消耗されていた。

 汚れたコンクリートを革靴で踏みしめ、駅へと歩み出す。白光に打たれた双眸は、晴れ空を映す水面の如く輝いていた。

 虚飾という仮面を取り去った聖は、気付く。暗影を落とし続けていたのは、きっと継ぎ接ぎだらけの仮面だった。何にも覆われていない眼で道の先を眺め入る。歩道は、立ち並ぶ建物に蒼然とした影を落とされていた。

 けれども、日影は存外暗くないのだと、聖は苦笑した。

 

     (一)

 

 落葉が褪せるのは早いものだ。先週はまだ花のような色彩を宿していた枯葉が、今や乾ききって茶褐色に染まっていた。革靴に踏まれたそれは葉脈すら簡単に崩れていく。その破片を靴底に絡ませながら、聖は昇降口を潜った。上履きに履き替え、廊下を踏み鳴らしていく足取りは軽快だ。彼女が相好を崩すのは、今日から志弦が登校してくることを知っているからだった。

 しかし、階段を上るや否や、聖は渋面を象りそうになる。鉢合わせたのは彩夏だった。

 刹那的に絡んだ視線を、一弾指の間を置いて先に逸らしたのは聖だ。志弦のいない一週間、聖は彩夏と挨拶すら交わしていない。当然歓談をする機会もなく、わだかまりが互いを隔てていた。

 立ち止まる彩夏の横を通り抜ける。だが、その聖の腕は彼女に引っ張られていた。


「待って。噂で聞いたけど、一組の色野さん今日来てるんでしょ? 案内しなさいよ。私、謝らなきゃいけないから」


 聖は瞠然として彩夏を見つめた。偉そうな物言いに反して、彩夏の面体からは不安が覗いている。初めこそ研がれた刃物のような目線を聖に向けていたが、聖が呆然と噤口していると、彼女は顔を逸らしてしまっていた。居心地が悪いとでも言いたげな顰め面を前にして、聖はふっと笑声を零す。


「わかった。あんたが志弦に何するかわかんないしね、付いてってあげる」

「別に、謝るだけだってば」


 四組の教室前から踵を返し、一組の教室を目指す二人に、日輪が耿々と差し込む。聖は廊下の窓を何気なく見やった。硝子の向こうには、雲一つない碧落が広がっていた。曇ることのない虹彩を前へ向ける。開け放たれたままの扉に手を突くと教室内を覗き込んだ。

 聖は、志弦の座席がどこにあるのかを知らない。思えば、教室にいる彼の姿を見たことがなかった。クラスメートと話している姿は、聖の頭に浮かんでこない。

 見つけた彼は窓側の前から二番目の座席で、女子生徒と話をしていた。その周囲では、話しかけるか否か、様子を窺うような素振りを見せている生徒もいる。彼が階段から落ちた日に、他クラスまで噂が広まるほど話題になっていたのだ。注目は浴びるだろう。

 それでも、初対面時に話し相手がいないと言っていた彼が誰かと談笑をしているのは、聖にとって意外な姿だったようで、揺らぐような心緒を自覚して唇を噛んでいた。

 彩夏の隣で志弦を探すフリをしながら聖は冷静になっていく。一度教室内を見回してから、再度彼の方へ向き直り、「志弦」と呼び掛けた。

 彼は柳髪を靡かせて聖の方へ顔を向けた。細められた眼差しが喜色を湛えており、それを気取った聖は咄嗟に顔を逸らしてしまう。笑ってもらえた嬉しさに緩んでいく面貌を、彼に直視されたくなかったのだ。


「聖、おはよう」

「ん、おはよ志弦。傷は大丈夫そうね」

「もう治ったようなものだよ」


 二人が顔を合わせるのは、病院で会って以来だ。互いに穏和な相貌で向かい合い、そのまま閑談を交えそうな雰囲気になる。しかし志弦の眼が彩夏に向いたことで、聖は咳払いの後に色を正していた。


「志弦、こいつ、彩夏」

「あぁ……初めまして」

「あ、うん、はじめ、まして」


 志弦の微笑に、彩夏は引き攣った笑みを返していた。たじろいでいる様子を見て取った聖が、彼女の心境を推考して苦笑する。元凶が誰であるか志弦が知っていることを、彼女は分かっているのだろう。それなのに優しく微笑まれ、吃驚したのだと聖は看取した。


「君、聖と仲直りしたんだね?」

「してない!」


 出し抜けに質されて、反射的に返したのは双方だ。重なった二人の声に、志弦はくすくすと笑っていた。


「仲良しじゃないか」

「っ志弦、揶揄わないでよ!」

「……そっちは、仲良しなのね。私なにも知らなかった」


 微かな笑みを形作りながらも、彩夏の顔気色はどこか複雑そうに見える。志弦は気抜けしたように目を丸めてから、廊下の壁まで歩き出す。壁を背にした彼は、聖を一瞥してから玉唇をしならせた。


「仲良くなってからそんなに長くはないよね。数週間? くらい」

「ふうん……」


 相槌を打つ彩夏の隣で、曖昧に頷いた聖は思案に浸り始めていた。彼と出会ってから、とても長い時間が経過しているような錯覚を覚えていたのだ。とはいえ、実際の時間は彼の言うように数週間。聖は人知れず朗笑する。短い期間で大切な存在になっている彼への、紛れもない憧憬を自覚していた。


「色野さん。あの、本当にごめん。怪我、大丈夫?」

「大丈夫。ちなみに、僕を落とした彼もさっき謝りに来たよ」

「え、あぁ、裕也……そうなんだ」

「僕はもう何も気にしてないけど、こういうの、もうやめた方が良い。もし僕が死んでたら、きっと辛かったのは君達の方だと思うから」


 それはとても、臓腑まで沈み込むほどの質量を伴った、声遣いだった。聖は志弦と病院で話したことを追想し、軽く睫毛を伏せていく。

 柚季が亡くなったことを己の罪だと定め、自身を人殺しであると語った彼のことが、聖の脳室に浮かぶ。彼は今でも、罪を心に沈めているのだろう。その唇から零される死という言葉が、聖には同年代の少年が放ったものとは思えなかった。

 聖の目の端で、彩夏が俯くように首肯していた。


「……わかってる。ねぇ、あなた転校生とか?」

「え、なんで?」

「だって、一度見たら忘れなさそうなくらい美人なのに、初めて見た」


 褒め言葉に薄く笑む志弦は西洋人形のようだ。けれどもその目見には、僅かな苦笑いが滲んでいた。


「ああ、いつもマスクしてるから、かな。煩わしくて取っちゃった。マスクがないだけで結構印象って変わるんだね、クラスの子にも言われたよ」


 空笑いじみた微笑を、志弦は虚空へ投げかける。聖とも彩夏とも目を合わせぬまま、自身の教室の方へと踏み出していた。一度だけ聖のことを振り仰いだ彼は、柔らかに片手を振っていた。


「それじゃ、僕は失礼するね。ノートのコピー取ってくれてた子、来たみたいだし。お礼言ってこないと」

「うん。またね志弦」


 聖も控えめに手を振ると、彩夏と顔を合わせた。目的を果たしてしまえば気まずさが蔓延し始める。もうじきホームルームの時間だ。それゆえそのまま教室に戻れば良いのだが、聖も彩夏も歩き出そうとはしなかった。

 志弦が言っていた、仲直りという単語が聖の喉から飛び出しそうになる。聖はそれを呑み込んで、何気なく壁に寄りかかっていた。合わせるように、彩夏がその隣に並び立つ。顔を覗き込もうとした聖へ、彩夏は溜息混じりに吐き出した。


「聖。私がしたことって、犯罪なんでしょ。盗撮も、色野さん突き落としたのも」

 暗く重たい響きは彩夏に似合わない。聖は目を見張りながらも首を傾けた。

「誰かに言われたの?」

「この前、担任と、保健室の先生と話した時。聖にしたこと担任知ってたみたいだから。自分の手で自分の人生台無しにするなって、そんな悲しい生き方したらダメだって。……そんなん綺麗事だと思ったよ。大人は子供の気持ちなんて何も考えてないくせに、綺麗事ばっかり言うって。だってムカついたらやり返したいし、滅茶苦茶にしてやりたい、立ち上がれなくしてやりたいじゃん。でも、もし色野さんが死んでたり、あんたが死んでたらって考えたら、確かに私耐えきれなかったと思う。一回試してみなきゃわかんないんだよ。ほんと馬鹿でしょ」


 ああ、と聖は納得する。志弦のことで聖が責めた時、彩夏が涕泣しそうなほど取り乱していた訳をようやく味解した。

 自分の言葉が原因で誰かが死んでしまったなら。その先で抱くであろう感情を、聖は想像することしか出来ないが、彩夏と同じように『自分は悪くない』と否定を連ねるのだろう。

 それは、死という大きなものでなくとも同じことだ。聖は回顧する。ありもしない噂を流した自分と、後に転校してしまった彩夏。彼女が転校したのは自分のせいではないと、そう思い込んでいたかったことを想起していた。些細な言葉をいつまでも悔やむ気持ちは、聖もよく知っていた。


「……そんなものよ。私も馬鹿だったもん。みんな一歩目は間違えるよ。でも間違えたってことに気付けなきゃ、答えもわかんない」

「……ねぇ、聖。答え合わせしてよ」

「は? なんの?」

「あんた私と仲直りしたいんだよね」


 悪戯っぽい笑みに、聖は唇を尖らせていく。彩夏はおかしそうに吐息を転がしていた。仄暗かった空気が明度を上げていく。聖が眉を顰めるも、そこに苛立ちの類が滲んでいないことを彩夏は分かっているようだった。

 塗られたリップクリームで艶めく聖の唇が、大息を吐き出した。


「……その聞き方ズルい。なんで私だけ勇気出さなきゃいけないわけ?」

「めんどくさいなぁあんたって。私は、あんたが良いなら仲直りしたいの」


 差し出された手の平は、敵意が欠片もない純粋なものだ。それに応える聖の言笑は、一片の曇りもない。


「いいよ。でも私、志弦との時間は、あんた達にはあげられないから。付き合い悪くても怒んないでよ」

「ずっと一緒にいてもウザいだけだから、そのくらいで良いわ」

「ウザいってなによ」


 怒るように拳を掲げながらも、聖は笑っていた。ふざけ合う二人に、鐘の音が降りかかる。慌てて駆け出した彩夏に続いて、聖も急いで教室へ向かい始めた。

 旭日に目を細めながらも、聖は笑う。成り立たなくなった虚飾の式は、丸めて捨てられたみたいだった。

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