キョショクの四季8

     *

 

 色野志弦はさながら懺悔をするように物語った。まばゆい程だった夕映えは明度を弱め、橙の空は藍鉄に塗られ始めていた。聖はただ、黙って彼の話を受け止めていた。


「その後、柚季は亡くなった。僕は骨折したくらいで生きていた。けど、記憶が混濁していた。自分が分からなかった。僕は自分の存在を理解するまでに少し時間がかかったし、思い出していく記憶も曖昧でね。この身体の持ち主が僕じゃないということを思い出して、『彼女』は眠っていると判断した。けれど本当はどこかで分かっていたから、この身体はひたすらに食べ物を拒絶し、男性を拒んだ。そうして今に至る、って感じかな」

「……そ、っか」

「ちなみに僕の名前と遺書のことは伏せられたまま事故として記事にもなったし、報道番組でも少し取り上げられたみたいでね。遺書を見た僕の両親と、それ見せられた柚季の両親は喧嘩をした後に縁を切って、それ含め色々あってそこには住めなくなって、ほんの少しだけ遠くに引っ越した。今僕は柚季と同じ高校に通っているから、本当にほんの少し。なんでって思うかもしれないけど、柚季の高校のことは記憶になかったし、偏差値の関係で。母には本当に良いのか聞かれたけど、なんでそう聞かれたかすら僕は分からないまま頷いた。今は思い出したけど、気にしていないよ」


 聖は、高校の四階が閉鎖されている理由を推知した。噂では何年か前に飛び降り自殺があったということだったが、志弦の話によると昨年のことになる。

 静穏を纏ったまま柔和な笑みを浮かべていた志弦が、聖の眼を見つめた。傷だらけの硝子玉が、互いを映し合う。志弦のそれがあまりに痛ましくて、聖は下唇を噛みしめていた。


「ごめんね、聖。僕は、話したように男だし、人殺しだ」

「どうして謝るの。志弦は、何も悪くないじゃん。男の子でもいいよ。従兄のこと、志弦のせいじゃないよ」


 哭する直前のような聖の震え声に、志弦は一驚し、そっと長い睫毛を伏せていく。そうしてそのまま、小夜の暗色に消えてしまいそうな、儚い相貌を俯かせていた。


「僕は、法を犯したわけでも人を傷付けたわけでもなかったのに、どうして、否定されなければならなかったのかな」

「……志弦……」

「ずっと、分かってたんだ。僕を否定していいのは僕自身だけだって。目に映る形しか見ようとしない人間が他人を否定するなって。……それでも否定されるのは痛くてさ、潰されるしかなかったよ」


 それは、記憶と共に隠されていた弱音なのだろう。声柄さえも罅割れているようだった。幾度も裂かれた彼の心は、細い糸だけでどうにか繋ぎ留められているだけのようだった。

 痩せ細った己の手を睨む彼。打ち守ったのは拳固ではなく、追想だ。射干玉ぬばたまの虹彩は確かな怨みを包含していた。それはどこか、自罰的でもあった。


「僕は、何を間違えたと思う? 普通を演じられなかったこと? 自分を殺さなかったこと? そもそも、こんな体で生まれてきたことが間違いだった? それとも、こんな心を持ってしまったことが――」

「間違ってなんか、ない。なにも、間違えてなんかないでしょ。やめてよ。私はあんたを否定しないし誰にも否定して欲しくない。だから、あんたまで自分を否定しないでよ!」


 自分は間違ってなどいない。自分のような人間もいるのだと、あの日志弦は命懸けで声を上げた。その声は両親を心配性にしただけで、大きな変化をもたらすことはなかった。柚季の両親は、ひたすらに志弦を罵った。間違っていないことを証してくれた人は、彼の周囲にいなかった。

 聖に手を握られて、彼は嗚咽を漏らしかける。冷え切った手に伝わる体温が、彼の肺腑まで伝うほど酷く熱かったのだ。優しさというものを、彼はよく知っている。それが無常のものでないことも、よく知っていた。

 それなのに彼は信じたくて堪らなかった。この手にある熱は、目の前にいる聖は、彼にとって確かな一炬だった。いつか消える檠灯かもしれない。それでも構わないと思うほど、優しい熱が満ちていく。


「こんな体、なんてものじゃないよ。志弦の体だよ。綺麗で、優しい手を持ってる、志弦だけのものだよ。男の子だからって関係ない、私は志弦が好き。女の子だったからじゃない、あんただったから。志弦だったから、友達になりたかったの。志弦だから、どんな形でも、どんな姿でも、今生きていてくれていることがすごく嬉しいの。生きていてくれて、ありがとうって私は思うよ」


 生まれてきたこと、生きていることに、志弦は幾度となく葛藤した。柚季を死なせてしまったことを回顧してからは尚更、どうして自身は生きているのだろうと懊悩ばかりしていた。

 だからこそ聖の言葉が彼の睫毛を濡らしていく。潤んだ聖の眼で、彼は月の雫を零していく。

 存在を認めてもらえた事実は、まるで『生まれてしまったこと』という罪を許されたかのようだった。見失い欠けていた自分という正答を、差し出された。

 彼は、遺書のことを思い起していた。その内容を知らない聖に、声が届いているみたいだと、思わず桜唇で繊月を描いていた。


「ありがとう、聖」


 寒空の下にいるように、その声は震えている。人肌の温もりを求めるその手が、聖の掌に触れて、絡めた指をゆるやかに握り込む。

 秒針の音が寂静を埋めていた。涙の音はまだ止まない。玻璃の向こうで、明星が夜を飾り立てる。星屑が舞い落ちるように明滅していて、どこか鱗粉を思わせる。聖は涙が乾いたばかりの頬を綻ばせた。


「私、志弦って蝶みたいだと思ってたの。ルリボシカミキリみたいな青色で、片方の羽がないんだけど、とっても綺麗な蝶々」

「そんなこと思ってたんだ?」

「うん」

「でも、僕にとっての青い蝶は聖だよ」


 穏やかな、それでいてどこか譫言じみた声音に、聖は首を傾ける。聖は、自分と志弦は正反対だろうと思っていた。それゆえ志弦に似合うと感じたものを自身に宛がってみても、違和感しか抱けない。


「私青っぽくもないし蝶も似合わなくない?」

「似合わないものなんて、きっとないと思う。それにそういうことじゃなくてね。オオルリアゲハって知ってる?」

「わかんない、蝶々?」

「そう。出会うと、幸せになれる青い蝶だ」


 聖は志弦の言葉を唇の裏で呟いた。ふ、と笑声を吹き零したのは、聖なりの照れ隠しだ。嬉しかった、という理由も勿論そこにある。ありがとうと返す代わりに頷いて、聖はそっと椅子から立ち上がった。


「そうね、私、あんたのこと幸せにしてあげる。一緒に、自分探しするって言ったでしょ。志弦だけ立ち止まるなんて許さないから。二人で、生き方を探すんだから」

「そうだね、進める限りは進み続けたい。倒れそうになっても、君がいれば真っ直ぐ立って、歩けそうな気がする」

「私も、全く同じこと思ってた」


 短針が一歩、長針に近付いた。聖は鞄を肩に提げる。志弦は聖に渡されたノートを、指先でなぞっていた。

 控えめに手を振る聖に、彼は朗色で色付けた明眸を綻ばせる。とても、綺麗な笑い方だった。


「聖。僕と、出逢ってくれてありがとう」

「それは私の台詞よ。ありがとね」


 涼風がふわりと舞い込んだ。木枯らしの暗香が混ざっているような気がして、志弦は窓を閉めた。

 四季は巡る。蝶は、花信風を求めて虚空を泳いでいく。

 

     *

 

 僕が抱えていたことは、全て明かしました。それでも、女の体なのに男だと主張する僕が気持ち悪いのなら、柚季の行為が罪に問われないのなら、僕はやはり生まれてきたことが間違いだったのでしょう。

 でも、間違って生まれる人間なんているのでしょうか? 好きなように生きて、好きなように振る舞うことが、どうして他人に「おかしい」と笑われなければならないのでしょうか? 産まれる体は選べないけれど、どう生きるか、どう歩むか、選べるものを好きに選ぶことはそれほどまでに許されない罪なのでしょうか?

 僕は、僕であることをやめたくなかったんです。僕らしく生き続けたかった。僕らしく生きることを笑われたくなかったし、あんな風に僕を否定されたくなかった。この体が女であると思い知らされても、それでも僕は、僕であることをやめられなかった。諦めて生きた方が良いなんて、思えるわけもなかった。僕は僕として生まれてきたのだから、自分で自分を殺したくはなかった。他人に心を殺されるのも辛いけれど、自分で心を殺す選択をする方が、ずっと辛い。感情を押さえ付けられて、他人に信じてもらえない中で、自分まで自分を信じられなくなったら、僕がどうして生きているのか本当に分からなくなってしまう。

 だから、怖かったのです。僕まで心を殺してしまう前に、全て忘れようなんて思ってしまう前に、僕が生きていたことを全部、伝えなければならなかったのです。

 きっと、死を選ぶ人の中には、死ぬ事で自分の思いが届いてくれるかもしれない、死ぬ事で自分が間違っていなかったと主張してくれる人が現れるかもしれない、と祈っている方もいると思います。

 どうか、僕達の声から耳を塞がないでください。僕達の生き方を、否定しないでください。僕達は生きているんです。何かを切り落とされても、奪われても、どうにか息衝いているんです。

 全てをわかってもらおうとは思いません。でもこの悲しみも、苦しみも、誰もが知っている感情です。おかしいものなんかではなくて、形や大きさが違ったとしても、あなたが抱いたことのある悲しみや苦しみと同じ色をしているものなんです。

 僕が抱えた苦痛が大きいものだったのか、それともそれを受け止める器があまりに小さすぎたのか、どちらかは分かりません。けれど、器に罅を入れ、零れ出してしまうほどの痛みだったことは確かです。僕はもう、これを抱えきれません。

 話したいことは全て書き連ねました。真実を明かすという報復の全てをこの手紙に任せて、僕は幕を閉じようと思います。

 出来ることなら、生きている時の声を受け止めて欲しかった。でももう、構いません。この遺書を、なかったことにだけはしないでください。これはきっと、両親にとっては呪いになるのでしょう。捨てたいほど、嫌なものになると思います。だから、ごめんなさい。でも、忘れて欲しくないんです。僕が生きていたことも、僕達が言葉の交わし方を間違えたことも。

 こんなふうにしか伝えられなくてごめんなさい。孝行も出来なくて、ごめんなさい。

 僕を生んでくれてありがとう。僕を否定しないでくれて、ありがとう。大好きでした。

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