キョショクの四季7

 最良の時期はいつなのか探りながら、私は一年と数ヵ月、彼と親しい関係を築き続けた。

 その中で何度も、挫けそうになった。想定以上に私は、彼に戦慄を抱いているようだった。彼がいないところでも、彼にされたことを想起するだけで気が狂いそうなほど心は脆弱になっていた。そのせいで幾度となく声を上げそうになった。彼に対してではない、彼の両親に。

 けれど、やはり母の言ったように言うべきではないのだ。疲労に染まっていた私を心配してくれた父に、思わず「ねえ、もし柚季が私を無理矢理抱いていたとしたらどう思う?」と零してしまったことがある。冗談でもそんなことを言うなと、頬を叩かれた。優しい父が真偽を確認しようともせずそうするほど、言ってはいけないことだったらしい。

 母なら知っているからと、父が居ない時に慰めの言葉が欲しくて声を掛けてみたが、知らないフリをされた。

 募った憤懣は、全て柚季へ復讐する為の牙となっていた。

 柚季はどうやら、教師になりたいらしい。その為に勉強に精を出していた。四季は巡り巡って、彼は大学入試の願書を出して、夢を近くに見据えている。

 季節は秋。木々が朱に、或いは山吹色に綾取られた頃だ。とはいえその日の気温はやけに低くて、時折風花が視界をちらつくものだから不愉快だった。

 彼の高校で行われる文化祭に、私はセーラー服を纏って訪れていた。私の手を引く彼に案内されながら、立ち並ぶ木々の間を抜けていく。右手側にはテニスコートとグラウンドがあった。そちらを眺めていたら、左手側へ引っ張られる。


「柚季、すごい大きさだね、あれ」

「志弦はウチの文化祭来るの初めてだもんね」


 昇降口の前に飾られているのは、大きなモザイクアートだ。今はまだ布が掛けられていて、どのような絵が描かれているかは見て取れない。柚季の学校は毎年モザイクアートを展示しているらしい。そして、これを目当てに地元の記者やテレビ局の人間が訪れる。もうじき行われる除幕式や、アレを作った美術部員へのインタビューが目当てらしい。

 だから、彼らが帰ってしまわぬ前に、私は事を終えなければならなかった。


「俺も選択授業美術だから授業で少しやったんだけど……志弦、どうかした?」

「結構、人多いから……人混みに酔った、かも」

「少し休もうか。四階は荷物置き場として使ってるだけだから、今の時間は誰もいないよ。階段上るけど……大丈夫?」

「大丈夫。静かな所で柚季と少し話したい」


 屋上は立ち入り禁止らしく、四階が荷物置き場になるのは数日前柚季から聞いて知っていた。雑談に勝手に織り交ぜてくれたものだから聞き出すまでもなかった。

 階段を上っていく。ショルダーバッグの中に、そっと手を忍ばせた。そこには私の刃がある。敵として定めた彼の背を人知れず睨めつけた。階段を上っていけば喧騒から遠ざかる。四階には確かに誰もいないらしく、粛然としていた。


「教室適当に入ろうか、座れた方が休めるだろうから」

「ああ……そこでいいよ」


 適当に入って、窓際を陣取る。階段を上ったら暑くなった、と適当なことを言ってから、窓を開けた。何気なく外を見下ろす。真下には何もない。やや右へ視点をずらしたら、昇降口前の大きなモザイクアートがあった。

 ちょうど良い位置だ、と私はほくそ笑んだ。


「四階だから、良い眺めだろ?」

「そうだね。……ねえ、柚季」


 私はショルダーバッグから純白の便箋を引き抜いた。それはこの日の為に、数日前に認めたものだ。私の生涯の痛苦と怨嗟と、悔恨と哀傷と、愛情と。名伏しきれないほどの情感が詰められたそれは、表に遺書と書かれている。

 窓枠に乗り上げた私に、彼は慌てて駆け寄った。


「志弦、危ないから降りて……」

「これ、なんだと思う?」

「何言っ……『遺書』……? え、なんだよそれ……」

「ここには、あんたにされたことが全て書いてある。私は……いや、はこれを持ったまま自殺する。落ちた僕と遺書が発見されるのと、お前が下まで駆け下りて遺書を回収するの、どっちが早いと思う?」


 秋風が長い髪を鬱陶しく揺らす。僕は片手でそれを押さえて遺書をはためかせた。

 演じるのは終わりだ。自分さえ騙すように風付きを変えるのは骨が折れた。僕は眠っていない、私は僕だ。私を形成し続ける中で眠り続けていた僕は、復仇を果たす為に今ここにいる。


「なに、それ、なんの冗談……」

「冗談だと思う? 他人おまえの人生を狂わす覚悟も、自分ぼくの人生を捨てる覚悟も、出来ているから今日ここに来たんだ」


 憎しみを視線の切っ先に乗せる。僕の眼目に、彼は確かに怯んだ。今ここで僕が遺書を持ったまま落ちればどうなるか、聡明な彼には分かったのだろう。

 この遺書が明らかになれば彼は教師になどなれない。もうじき除幕式が行われる。そのアナウンスが響いている。下では記者や保護者、教師までもが撮影の準備を終えていた。

 蒼褪めていく貌に、不思議と笑みは浮かばない。これから自分が死ぬことに、畏怖は湧いてこない。

 怖いのは、この遺書に書き連ねた僕の声が、誰にも届かぬまま消えてしまうことだ。

 唇で、弧を描いた。どうか、とこいねがう。どうか僕の声が、届きますように。

 最期の願いは、口吻の裏側に溶かした。


「おやすみ柚季。お前の夢が、悪夢になることを祈っているよ」


 落ちようとした。一抹の躊躇もなく、落ちていくつもりだった。やめろと叫んだ彼が僕の手を引っ張った。勢いが付きすぎていたのか、彼も窓の桟に乗り上げてくる。

 揉み合った時間は、きっと眇たるものだった。

 これが悪夢なら、どれほど良かっただろう。夢語りは出来ない。窓枠の冷たさが、現実感を伴って僕を刺していた。

 除幕が行われるカウントダウンの中で、柚季は確かに落ちて行った。誰もが、気付いたのだと思う。一瞬の静けさに呑まれた直後、悲鳴が響き渡っていたから。


「なんで」


 頬が、引き攣った。眼下にあるのは、歪な形で倒れ伏した彼と、猩紅に染まりきった朽葉。僕の全身は硬直して、震えた頸を動かすことすら叶わない。

 違う。違うのだ。僕は彼を殺したかったわけではない。彼の目の前で死んでやるつもりだった。それなのにどうしてこうなる? 罪の意識に苛まれれば良い、そう願ったはずの呪いは僕に返ってきていた。

 周りの声なんて聞こえない。彼の姿しか見えなくなる。破綻した報復は僕の足にまとわりついて、前にも後にも進ませてはくれなかった。開いた口からは嗚咽だけが溢れた。握りしめた遺書が皺を作る。笑声が、零れた。或いはそれは、泣き声だったのかもしれない。

 僕は、意を決して飛び降りる。

 初めからこうしていれば良かったのだ。今日の話ではない、違和感を抱いた時から、こうしていれば良かった。いや、もっと前から。

 僕は、生まれてこなければ良かった。

 風が冷たい。距離感が分からない。双眸を覆っていた曇り硝子が、やがて砕けた。

 ああ、死ぬんだなと思った。感情とは複雑なものだ。何が本心か分からない。

 僕は、生きていたかった。

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