キョショクの四季6

 目を覚ました『私』は、暁の空に揺蕩う煙月を眺望して、思考する。私は、従兄の柚季に裏切られた。回想すればするほど、煮え立つ憎悪に心が染め上げられていく。

 冷静になった頭で、母がなぜ告げ口を許さなかったのか理解していた。父の姉である伯母夫婦に、あなたの息子がウチの娘を犯しましたなんて言えば、激しい衝突を避けられない。母自身責められたくもないのだろう。柚季が否定した際、確かに罵られるのは私の方なのだ。昔から柚季に良くしてもらっている私が、女であることを利用して卑劣な嘘を吐いたなどと言われるかもしれない。その方が、私は艱難に苛まれる。母はそれを避けるべく忘れろと言ったに過ぎない。

 だが、黙然を貫いてやる気はない。

 私は制服を引っ張り出して身に纏う。セーラー服のスカーフを整え、長い髪をそのままにして家を出る準備をした。今日は休日だ。だから、向かうのは学校ではない。

 私が制服姿でリビングに行ったら、そこにいた母も父も、驚いたような顔で私を見ていた。母が煩慮を滲ませているのは、昨日のことを気にしているからだろう。


「志弦、どうしたの? 今日は土曜日よ?」

「おはよう、母さん。ちょっと、柚季の所に行ってこようと思って。制服姿見たいって前から言われてたんだけど、そういえば見せたことなかったから」


 嫣然としてスカートを軽く摘まんで見せた私に、両親が怪訝そうな、それでいて吃驚している顔を浮かべていた。くす、と笑ってみる。女の子らしく出来ているかは分からない。でも私は女なのだから大丈夫だ。


「もう、大丈夫なのか? なら、ご飯食べて行くか?」

「う、ん。食べられるかは分からないから、無理だったら、ごめんね。トーストとスープだけ貰うよ」


 今は眠らせている『彼』が、嚥下出来なかった固形物。それを今の私が食べられるかは分からない。私はこの身体が脂肪を付けても気にしないが、心奥に残っているかもしれない嫌悪感が拒む可能性はあった。

 席に着いて暖かいオニオンスープを喉に通す。塩味は確かに食欲を沸かせてくるが、食べたくても食べられない時があることをこの身体は嫌というほど知っている。出来立ての、マーガリンが塗られたトーストを一口咥えた。固形物を咀嚼して呑み込もうとするのはいつ以来だろう。初めは母に恩を返したい一心で食べたくて、食べては吐き出していた。ここ最近は食べることさえ諦めていたから、食事が久しぶりに思えた。

 意を決して、まるで毒見でもするかのような面持ちで呑み込む。異物が食道を下り落ちていく感覚。私は酸味を覚える前にもう一口かぶりつく。噛み砕いて呑み込もうとした刹那、脳に浮いてきたのは確かに拒絶の呪詛だった。

 たった二口。それだけを噛みしめて、トーストを皿へ置いた。


「ごめん……まだちょっと、無理かも」

「少し食べられたじゃないか! やったな志弦、少しずつで良いからな」


 父が思いがけず褒めてくるものだから目を丸めてしまう。顔を上げたら朗笑している彼がいて、なんだか嬉しくなってしまった。両親の、険を孕んだ顔は確かに見たくない。優しさに甘えて思わず吐露しそうになった心根を、スープに絡めて飲み下す。そうして私は立ち上がった。


「志弦、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫。柚季と少し話してくるだけだから」

「なにかあったのか?」

「ちょっと喧嘩してただけ。だから仲直りしてきたくて」


 微笑だけを携えた私に、父はそうかと笑い返してくる。母は色々と懸念しているのだろう、いつまでも眉尻を下げていた。それに喜色を湛えてから、私はダッフルコートを羽織って家から出た。

 家の庭にも、道路にも、雪が積もっている。革靴でそっと叩いてみたそれは氷のようだった。白んだ景色を見回す。吐き出した息は紫煙のように揺らいでいた。私は前へ、足を踏み出した。

 最寄り駅まで歩き、電車で一駅先の目的地へ降りる。そこから徒歩十分圏内に柚季の家はある。柔らかな微笑を貼り付けたまま、一軒家のインターホンを鳴らしたら柚季本人が応じた。


『はい』

「志弦だけど。柚季、話したいことがあるから上げてくれる?」


 名前を聞いて、または声を聞いて、彼が吃音を漏らしていた。それもそうだろう、私の母とどういう会話を交わしたかは知らないが、昨夜組み伏せた相手が会いに来たら誰だって周章するはずだ。


「寒いから、入れて欲しいんだけど。伯母さんとかいるなら柚季の部屋でいいよ」

『志弦は、いいんだ?』

「良いから、来たんだ」


 少しして、開錠の音が響く。扉を開けた柚季が私の恰好に目を瞠っていた。釦を留めていないダッフルコートからはセーラー服が垣間見えている。彼がそれに戸惑っていることを察しながらも、私は気にしないフリをして困ったように笑った。


「ありがと、柚季」

「いや……。上がって、風邪引いたら良くないから」


 昔は心地良かった優しい言葉も、彼の声に伴われていると吐き気がする。促されるままに上がらせてもらった両足が、微かに震えていた。自虐的に笑んでから、自室に向かっているのであろう背中を追いかけた。

 二階にある一室へ、タイツに覆われた足を踏み入れる。母が冬場のスカートは寒いだろうから、と買ってくれていたものの、『彼』が一度も身に着けなかったものだ。

 整頓された部屋で、私はダッフルコートを脱いで床の隅へ置こうとした。けれどもそれは、柚季に持っていかれる。


「ハンガーにかけとくよ」

「あぁ……ありがとう」

「その恰好……どうしたの?」

「変?」


 薄く笑って、彼のベッドに腰を下ろす。彼の方を窺うと、彼は私と合わせた目を逸らしてしまった。


「……志弦、俺が昨日何したか、分かってる? まさか忘れたわけじゃないだろ?」

「忘れてないから、練習してるんだよ。……私が、女だっていうのは、よくわかったし。柚季の言うように、現実見つめないといけないから」


 我ながら気持ち悪い。いくら私でも、いじらしい声音を漏らすのは抵抗しかなかった。

 それでも私は私の目的の為に、柚季と親しい関係のままでいなければならなかった。

 顔は背けたまま、虹彩だけを動かして人影を追いかける。彼が隣に座ってきたものだから距離を取りたくなった。だがそうするわけにはいかない。そこに着座したまま彼と向き合う。彼は、安堵したように相好を崩していた。


「ずっと男だと思ってたところからのスタートだもんね、荒療治してごめんね」

「いや、そのお陰で、気付けたし……大丈夫」


 大丈夫なわけがない。控えめに私の肩に手を置かれて、背筋が粟立っていた。彼の体温が、彼の手の大きさが、まるで熱せられた鉄の如く私を焼く。


「というか、私こそごめん。気まずいだろうにいきなり来てさ。でも、頼れるのは柚季しかいないから」


 それでも会話を続けた。私が彼に気を許しているのだと、出任せが事実であると伝わるように、詭弁を弄する。これからも仲良くして欲しいことや、今後は女扱いしても構わないことを柔らかな声遣いで伝え続けた。

 優しいのか愚鈍なのか、縋りついて頼ってやれば私を受け止めてくれた。これからも遊びに来てくれると彼は言ったし、外でも会おうなんて言ってきた。もう酷いことはしないからと言いながら私を抱きしめている姿に、胸裏で哂笑が生じる。

 彼と接触する度、畏怖に似た寒気のせいで震えが抑えられそうになかったが、それすらも利用することにした。


「少しだけ、男が怖いみたいで。こうやって触られると震えるんだけど……それも慣れていかないとね」

「ごめん、志弦。怖かったよね」


 本心を吐露するのであれば、彼にされる全てが嫌だ。声を聞きたくもない、顔を見たくもない、どこも触れられたくない。私はその全ての厭忌を唾液に混ぜて喉奥へ落とし込む。これでいい。後は時期を見計らって滅茶苦茶にしてやればそれでいいのだ。

 被害者であるはずの私の訴えが、現状では届かないかもしれない。信じてもらえない。届かせられるほどに大きな声を上げる鋭気は残っていない。だから、今の私がそれを届かせる術を考えなければならなかった。

 案出したのは、彼を社会的に殺す算段。

 人を殺すのなら、自分も死ぬ覚悟を決めなければならない。何も支払わずに欲しいものは手に入らない。全て捨てる覚悟で、あいつの全てを失わせてみせる。

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