キョショクの四季5

 それから、母が出勤日を減らして僕と過ごす時間を増やしてくれた。母の作るご飯を食べられないのに、以前よりも身体が女らしさを増していく。その苛立ちを、僕は自室でのみ発散させていた。この部屋には両親も立ち入らない。本当の僕を優しさで抱きとめてくれた彼らだが、踏み込むことは遠慮している――或いは恐れている――かのようだった。だから僕は、この部屋で苛立ちを自身にぶつけていた。取り出したコンパスの機鋒を自身の太腿へ叩きつける。両親に知られることのないよう、露出しない部位でなければならなかった。それゆえ、晒すことのない足に一度だけ激痛を突き立てる。そうでもしなければ、優しい両親に応えられない僕を、僕自身が許せなかったのだ。この痛みは、変わりたい方向へ変わることの出来ない僕への罰だった。

 次第に、僕が部屋を出る頻度は少なくなる。母にはスープだけ用意してくれれば良いと伝え、僕に構わなくても僕は大丈夫だからと微笑んで見せて、自室に閉じこもった。ここは僕の、安住の地だったのだ。

 変わり行く体を見られたくない。女らしさを際立たせていく姿を見た両親が、いつ僕を否定するか分からない。有り得るかも分からない不安が、僕をほの暗い一室に繋いでいた。

 僕が外出しなくなってから、数ヵ月が経過していた。窓の外を覗き見たり、窓を開けた時に流れ込んでくる花の香りで季節を判断したりしていた為、正確な月日の流れは把握していなかった。

 今が何月であるのか、それを僕に知らせに来たのは柚季だった。

 母も仕事に出ていて、僕しかいない日。呼び鈴の音に、気怠さを携えながらも僕は裸足で部屋を出た。歩きながら、自身の髪が視界で揺れ、女のような長さになっていることに気が付く。後で切ろうという思いを一先ず飲み下し、ドアノブに手を掛けた。

 数ヵ月ぶりに、家族以外の人と顔を合わせる。それを考えたら慄然が爪先から這い上がってきて手先まで震えそうだった。必要な会話を終えればすぐに戻れるのだと自身に言い聞かせ、意を決して扉を開け放つ。


「あ、志弦います――……って志弦?」

「柚季。……っていうか寒い、用があるなら上がってよ」


 思えば、カーテンの隙間から窺った庭は銀花で染まっていた。もうそんな季節なのだなと零した吐息は、舞い込んだ霜風を白く浮き上がらせる。柚季に会うのも約一年ぶりだ。それなのに、僕は確かにほっとしていた。彼も、両親のように僕を受け入れてくれた人だから。

 リビングに通そうとして、思い留まる。食卓には手が付けられていない僕の食事が置かれているのだ。結局親切心からか主菜まで用意してくれている母には、申し訳なさばかりが募る。そして、物を食べられないことや、その理由を柚季にまで知られたくなかった為、自室へ通した。


「リビングで良かったのに」

「僕が嫌だったんだ、食べ終えた食器そのままだから」

「洗ってあげようか?」

「いい。で、柚季、こんな寒い日にわざわざどうしたの?」


 部屋の電気を灯すと、室内の色彩が明瞭になる。この家具はこんな色だったなと無感情に思いながら、僕は机の椅子を引き、ベッドの上に腰を下ろした。僕の意図を汲んだ彼は椅子に腰かけて、便箋のようなものを懐から取り出していた。


「寒い日だから、会いに来たんだよ」

「それなに?」

「もうすぐ誕生日でしょ? プレゼント。志弦、本を読むの好きだったなと思って」


 象牙色の便箋を開くと、銀色の栞が顔を出す。切り絵や彫刻のように、細長い板を切り抜いて形作られていたのは、上部へ管を伸ばすパイプオルガンと、垂れ下がる藤の花だ。


「柚季ってセンス良いよね、綺麗だ」

「志弦に似合うと思って選んだんだよ。そういえば、髪伸ばしたんだね。良く似合ってる。男の子ごっこはもうやめたの?」


 諧謔を、交えただけのつもりだったのだろう。それでも、僕にとってその言葉は逆鱗に触れるほど敵意と似たようなものだった。

 激しい怒りが立ち上る。昨年と同じように彼へ怒声を浴びせそうになって堪えた。失態は繰り返したくなかったのだ。それなのに、紛らわせようとする言葉は浮かばず、繕うことも出来ず、鬱積した苛立ちは無味乾燥な声に滲んでしまっていた。


「ごっこって、そんな風に思ってたんだ?」

「……もしかして、まだ自分は男だって思ってるの? 志弦、昔から男とばっか遊んでたし、俺ともそんな風に遊んでたから、女の子と馴染みにくいってだけだよ。でもそろそろやめよう? せっかく制服だってあるんだし、ちゃんと学校行って少しずつ女の子らしくなっていこうよ」


 気遣うような微笑に、ただただ失望した。自嘲が込み上げてくる。信じていた彼は、僕に合わせていただけなのだろう。否定を紡いで、彼に理解してもらおうと試みることは、絶念した。険阻な顔を彼に向けると視線が絡む。痛ましい赫怒に焼かれるまま、僕は低声を落とした。


「帰って。もう二度と来るな」


 呆然としている彼の顔を殴りたい。憤懣を隠しきれない。彼も、僕の心を感じ取ったはずだ。それなのに返されたのは大息だった。


「志弦、これから先もそうやって生きていくわけにはいかないだろ。ちゃんと受け入れて前に進まないと」

「何を受け入れろっていうんだ。僕が僕であることを受け入れられない方が間違ってる」

「そろそろ現実を見ないと駄目だよ」


 自分の身体には男らしさが欠片もないことくらい、分かっていた。だが見つめろと、受け入れろと押し付けられるのは納得がいかない。僕は自分を見つめた上で煩悶を織り重ねてきたのだ。

 進み方も、出来得る限りの労苦も尽くしてきた。言葉を重ねることも試みてきた。それなのに空転し続けるのは何故だろう。

 握りしめられた手首が痛む。僕へ影を落とす彼に抵抗を示す中で、彼我の体格差も、力の差も思い知った。彼の手によって晒された己の肢体に吐き気が込み上げる。胃酸が這い上がってくるみたいだった。

 何をされているのか理解出来ないまま、錯乱したように藻掻き続けた。胸を満たし続けていたのは不快感だ。彼に触れられる度に、色濃く浮き彫りになる現実。やめろと足掻き続けていたが、気付けば自己暗示じみた否定の言葉だけが迸っていた。

 違う。違う。違う。

 耳を塞ぎたくなるような嬌声じみた叫喚に、喉が擦り切れていく。次第に声が出なくなっていく。吐息だけでも、違う、と象ることだけはやめられなかった。そうしていなければ、男である僕が壊れてしまいそうだったから。

 脱力して動かない身体から、目を逸らす。カーテンの隙間で、冷たそうな窓が寒空を透かせていた。白い、不香の花が舞っている。僕は掻き曇った視界に目を凝らして、ただしづる枝を眺めていた。

 朦朧とする意識の中で、母の声が聞こえたような気がした。それは、錯覚ではなかったのだろう。


「なにしてるの⁉」


 母が、弁解しようとする柚季の頬を叩いて僕から引き剥がしていた。浅い呼吸だけを反復し、柚季と共に廊下へ出て行く母の背を、細めた諸目で見つめていた。

 起き上がる気力すら戻らぬまま、自分の身体を掻き抱く。痩せ細った腕の表皮に爪を突き立てた。このまま皮下組織まで抉ってしまいたかった。全身の皮膚を剥ぎ取って、この胸を切り落としてしまいたい。屈することしか出来なかった弱さを、なかったことにする強さが欲しい。僕が僕らしくいられる、身体が欲しい。

 否定されない『僕』で生まれてきたかった。

 何一つ、叶うことのない願い。柚季に穿たれた肺腑が、声にならない絶望を溢れさせてくる。

 恐れを覚えているみたいに震え続ける体躯を、哀傷が染色していく。涙が枯れた角膜は乾ききっていて、痛みを伝えてきていた。


「志弦!」


 戻ってきたのであろう母の声に、僕はゆっくりと身体を起こした。母に、伝えたいことがいくつもあった。助けて欲しいことが、溢れてきて止まらないほどに。掠れ声で「母さん」と漏らした僕を、母が抱きしめる。

 体温が、冷え切った身体に沁みてきた。母の背に手を回そうとして、両手さえも未だ震えていることを看取した。


「志弦、今日のことは忘れるのよ。伯母さん達にも、お父さんにも、言っちゃ駄目」

「え…………?」

「言ったところで、信じてもらえなかったらあなたが責められるんだから。あなたの為なのよ。何もなかったことにして。お母さんが柚季くんを叩いてしまったのも、見なかったことにして。柚季くんとも今まで通り……ね?」


 それは、僕の心を殺せと、そう促す言葉だった。母の背に触れようとした両手が、重力に従って垂下する。優しい母の肩越しに、怨嗟の込められた唸り声を上げていた。


「っけど僕は! あいつは……!」

「忘れるの。何もなかった。そういうことにするのよ。いい、志弦。あなたは今日誰にも会ってないし、何もされていない。いいわね?」

「どうして……僕は何もされてなくなんかない! あいつが、あいつのせいで……!」

「いいえ、何もなかったの。そうでしょ、志弦。大丈夫だから」


 宥めるような手が、僕の背を撫でる。これまで僕を受け入れて、僕を識ろうとしてくれた母にまで失望してしまいそうになって切歯した。

 口を噤む。けれど、忘れてやるつもりなど露ほどもない。この身体は女であるのだと、認めざるを得ないほどに思い知らされたのだから。

 しかし何故、男である僕がこんな身体で生きているのだろう。男に犯されるこの身体は、どうしようもなく女のものなのだ。だとすれば、これは僕の身体じゃない。

『僕』は、この身体の持ち主じゃない。これは全部、女である色野志弦の身に起きたことなのだ。『僕』とはなにも、関係がない。

 瞑目した『僕』は、少しだけ眠りについた。『彼女』に、忘れたい記憶の全てを押し付けて。

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