キョショクの四季4

 そんな状態で、二年、耐え抜いた。何年耐えなければならないのか考えたことがなかったのはきっと、思慮することで項垂れたくなかったからだ。


「志弦、これ今流行ってるゲームなんだけどさ、一緒にやらない?」


 ほぼ毎日訪れてくれている柚季が、長方形の機械を両手に一つずつ持っていた。娯楽品といえばトランプやUNOくらいしか家にはない為、初めて見たそれに僕は目を輝かせた。


「さ、やろうか」とそのゲーム機を起動させていく彼を横目で見ながら、僕もそれを開いた。まるで横長にした携帯電話だ。上下共に画面があって、どちらを見ればいいのか暫し混乱した。

「えっと……?」

「ここが電源ボタン。で……ここ押して、これで通信が出来るんだ」

「へぇ……!」


 よく分からないが、彼が付属のペンで操作していく度に画面が変わっていくのが単純に面白かった。彼から説明を受けて対戦を始めたのは、パズルゲームだ。落ちてくるピースは何色かあって、同じ色のものを四つ繋げると消えるらしい。

 初めてやった僕では、慣れている彼になかなか勝てない。それでも、楽しかった。夢中になっている僕の隣で、余裕そうな彼が薄く笑っていた。


「このゲーム、女の子でもやってる子はいるから、もしかしたら志弦の周りの子もやってるかもしれないし、遊ぶきっかけにもなるかなって思ったんだ」

「え?」

「志弦、来年には中学生だしね。別の小学校の子とも一緒になるから、新しい友達も出来るよ。制服はもう届いた?」


 滴る朝露程度の、微かな嫌悪が零れ落ちる。震え出した唇を噛みしめた。何も紡ぎたくなかったから、僕は暗黙した。しかし、柚季は逃れることを許してくれなかった。


「志弦?」


 聞いているのか確認する為、或いはどうしたのか質す為、彼が呼び掛けてくる。仕方なしに開いた口唇は、みっともないほどに震えて乾ききっていた。


「届いたけど……男子制服、着たらいけないのかな」

「学校だからね。すぐに慣れるよ。赤いランドセルと同じようなものだって」


 確かに、男子なのに僕だけランドセルが赤いのは、暫くの間恥ずかしかった。だが女子制服に慣れられる気はしなかったし、何より慣れてしまいたくもなかった。ランドセルだって慣れたわけではない、気にしないように目を逸らし続けているだけだ。だけど、スカートは? 毎日、卒業までの三年間、女の子のような恰好をし続けなければいけないなんて、まるで拷問だ。

 どうして僕だけ、女子らしくあることを強いられなければならないのだろう。蓄積された不満は何の糧にもなってはくれなかった。


「大丈夫。志弦は可愛いから、似合うと思うよ」


 優しい言葉は、吐き気がするほど甘ったるい。勘付きたくはない違和感から目を逸らす。彼に一瞬でも抱いてしまった疑念を臓腑に押し込んだら、その反動のように楔が引き抜かれた。


「なんだよ、それ……」


 震えた手では支えられなくなったゲーム機を、そっとテーブルに置いた。立ち上がりざまに卓上へ掌を叩きつける。痺れるような痛苦が腕を伝って、心臓にまで行き届いていた。


「僕は女じゃない! 女子が着ると決められた服なんて『自分は女の子だ』って札を貼るようなものじゃないか! そんなの、慣れたくないし着たくもない……似合うなんて、絶対に言われたくない……!」

「ごめん、でも落ち着いて。見た目で志弦の性格や内面が変わるわけじゃないんだ。何を着たって大丈夫だよ」

「大丈夫なわけないだろ⁉ 見た目で決めつけるじゃないか! みんな見た目だけで僕の性別を決めつけて、お前はこうあるべきだって縛りつけるじゃないか! これから先ずっとそれに従って、耐えなければならないって⁉ 期待に応え続けて、僕を擦り減らし続けて、いつか僕らしさがなくなったら、そんなの僕じゃない!」


 柚季は、どこまでも優しかった。わめき散らした僕の肩に手を置いて、何度も謝罪を落とされる。やめて欲しかった。飽和しきった罪悪感が、心髄を穿孔してしまいそうだったから。

 物言わぬ人形のようになった僕の頭を撫でた柚季は「また来るよ、今日はゆっくり休んで」と柔和に微笑みながら出て行った。廊下の向こう、遠くにある玄関から秋風が流れ込んで来たように錯覚する。空気の冷たさに、身体が痙攣していた。

 脱力して座り込んだ僕はさながら空蝉だ。気抜けしたように呆然として、それでも呼吸だけは繰り返していた。僕は、息衝く。どれほど酸素を吸い込んでも、苦しくて堪らなかった。

 現実逃避を始めた脳室に、昔見たテレビの話が浮かび始める。その記憶に笑ってしまった。

 テセウスの船。それは子供から見れば謎々じみた逆説の一種だ。航海していく中で朽廃した部品を取り替えていき、最終的には出航時と異なる部品のみで構築された船となる。それは果たして、出航時の船と同じモノだと言えるのか。そういう話だった。

 僕が出す答えは、昔も今も同じだ。それは同じモノじゃない。人と物は違うのかもしれないし、物体は感情を持たない。それでも、僕がその船だとしたら、取り換えられていく苦痛に耐えられそうになかった。

 あと何年、僕は自分を押し殺せば良いのか。思議を反芻するほど、死を連想するような虚しさに駆られる。

 僕はただ、僕でいたいだけなのに。

 良い変化を望んでも、他人の目はそう簡単に変わっていかない。環境だってそうだ、僕を取り巻くものは、何も変わらなかった。

 だけれど中学校生活というものは、小学生の頃よりも苦痛だった。男女の距離感は遠のいて、異性とばかり関わる生徒は嘲笑や揶揄の的だった。何より、制服が生徒の性別をありありと物語る。そして成長していく身体が、僕を惨めにさせていた。

 柚季のように男らしく、なんてなれない。周囲の男子も背が伸びて逞しくなり、声変わりもしていくのに、僕の体は女性であることを示すように変わるだけだった。身体に関すること、衣服、他人の目、全てに悪心を抱いていく。柚季にこの姿を見られたくないほど、嫌悪感に満たされていた。

 柚季が訪ねてきても部屋に引きこもり、僕が男でいられた時間さえ、自分でなくした。このままではいけないことくらい自覚していた。精彩を欠いた相貌のまま、歩けなくなるまでは登校し続けた。それでも、歩く度に揺れるスカートも、風が直接触れる脚にも、吐き気が酸味を伴ってせり上がる。桜並木の美しさを眺めている余裕さえないほど、自身の姿にしか意識が向かなかった。

 己の醜態に胃の内容物を呑み込んで、堪えて、日毎蒼白の面で授業を受け続ける。

 そんな中、給食を食べている時に、何も知らない男子生徒が僕に牛乳を差し出してきた。


「色野さんさ、もっと肉付けると良いよ! 皆川くらいさ」

「馬鹿、デカすぎない方が可愛いって!」


 何の話をされているのかは、女子生徒が「最低!」と割って入ってきた時に理解した。分かったと同時に、嚥下し続けた嘔吐感が溢れ出した。

 中学に上がってから、ずっと保っていたポーカーフェイスが崩れ去る。無言のまま曖昧に笑い、曖昧に頷き、曖昧に首を傾げるだけの人形には、成り切れなかった。立ち上がる暇もなく、気付けばその場で嘔吐していた。

 喉の奥が酸っぱい。鼻に抜ける香りが更に吐き気を催す。食道と舌に触れていく中途半端な固形物が気持ち悪かった。眼界はぼやけていて、歪んだレンズ越しに目の前を見ているみたいだ。涙と嗚咽が止まらない。肺が震え上がり、肋骨を不規則に揺らす。乱れた呼吸は泣き声のようだった。目を閉じて、必死に聴覚から意識を逸らしていく。僕自身の惨めな声も、僕を心配する声も、陰口じみた嘲謔も全て聞きたくなかったのだ。

 担任教師が保健室の先生を呼んでこの場を治め、僕はそのまま保健室へ連れられて行った。

 疲れ果てた僕の様子を見に来た担任教師へ、僕は希求を吐き出した。


「先生、どうして男子制服を着ることが許されないのですか?」


 問いかけに、彼は目を皿のようにしていた。次いで浮かべられた苦笑へ、嗚呼と溜息が溢れる。僕も、苦笑を象る準備をした。


「色野、あいつらのこと気にしなくて良いからな。お前が男子制服着た方が、あいつら揶揄ってくると思うし、やっぱり女の子は女の子らしい方が良いよ」

「…………そうですね」


 心に沈殿していく、呑み込んだ言の葉。深く、深潭まで沈めた。翌日から僕は、学校へ行くのをやめた。

 毎朝僕よりも先に仕事へ出て、僕よりも遅く帰ってくる両親なら気付かないと思っていたが、学校側から連絡があったようで、休日に話し合いの場が設けられた。

 担任から不登校のことを知らされたからというだけでなく、用意している食事がほとんど食べられないまま捨てられていることも、気になっていたらしい。申し訳なさで、涙が出そうだった。泣きたいのは両親の方だろうに、二人はただ悲哀を宿した双眼で僕を見ていた。

 本当はちゃんと、食べたかった。忙しい母が時間を割いて作ってくれたものは、なんだって美味しかったから。慣れ親しんだ優しい味は母の人柄を思い起こせて、好きだったから。

 学校だって、二人に迷惑をかけないように通っていたかった。だけれどこの身体と僕の性別が、何をするにしても邪魔をする。

 物を食べたら胸に肉がついて、この身体はもっと女みたいになるかもしれない。このまま学校へ通い続けたら男である僕が壊されてしまう。

 両親に謝って、やり直そうと思える鋭気は、もう残されていなかった。


「聞いて欲しい、話があるんだ」


 これまでのことを、告解した。自身の性別、抱え続けた違和感、押し殺した真情、今思い悩んでいる、やるせない現実。

 語りながら、ふと顔を上げた。両親の驚目が潤んでいる理由を、知りたいようで、知りたくもなかった。憤りの類ならば目を逸らしてしまいたい。もし受け止めてくれているのなら、やはり罪悪感のまま謝辞を吐き出したかった。それを堪え、僕は句点を打ちに行く。


「期待に応えられなくて、ごめん。女の子になれなくて、ごめんなさい。食べ物も、食べられなくなって……ごめん……」

「何言ってるの」


 溜息混じりの音吐は、暖かさを孕んでいた。母が、テーブルの上で五指を絡めていた僕の両手の甲を、包み込む。体温を伝えてくる手の平が、微かに震えていた。僕の手が震えているのか、彼女の手が震えているのか、まるで溶け合っているみたいに分からなかった。


「気付いてあげられなくてごめんね、志弦。あなたが何かを堪えなければいけないことなんて、期待じゃないわよ。そんな押しつけには無理をしなくて良いの。女の子でも男の子でも良いのよ、志弦は志弦のままでいて良いの」

「志弦、ご飯は食べられるものから少しずつ食べて行けばいい。学校も、行けるようになるまで休んでいて良い。今はきっと、休む時だ。ゆっくり考えなさい」


 父の大きな掌が、僕の頭を撫でる。震えた呼気が、唇から零れ落ちた。啼泣する僕の手を母は離さない。父も、僕の頭を優しく撫でてくれる。否定されなかった安堵と、僕という存在を認めて貰えた嬉しさが、ひたすらに流れ落ちる。


「僕は、好きなように生きてて良いの? 僕がこんな風でも、このまま生きてて良いの?」


 勿論、と、優しい言葉が力強い色を纏って鼓膜に触れた。初めから、こうしていれば良かったのかもしれない。これはただの逃避に過ぎないけれど、逃げ続けるわけじゃない。また立ち上がれるように、傷を癒す為の時間だった。

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