キョショクの四季3
*
物心付いた頃から、僕は漠然とした違和感を抱えていた。それは例えば、僕だけ他の男子と違って赤いランドセルを背負わなければならなかったこと。例えば、男女別々に並ぶ時に僕だけ女子の列に並ばなければならなかったこと。体育の授業が男女別になった際、僕は女子の方に入れられたこと。更衣は女子と共に行わなければならないこと。
学校に通い始めた頃は何に対して違和感を覚えているのか分からなかったが、他人に押し付けられる性別への不快感なのだと、じきに理解していった。男である僕が女として扱われていること、それを「きっと人数の関係だ」とか「僕が女みたいな顔をしているから間違われたんだ」などと考えるようにしてきたが、心の底では納得できていなかったみたいだ。
男女別で行われる体育の授業からは逃げるように仮病を使うようになり、集会など並ばなければならない行事の際も「人混みで吐きそうになるから」という言い訳で保健室に閉じこもった。勿論教師は皆、そんな僕を良く思わなかったようだ。
担任教師には呼び出され、何故こんなにも協調性がないのかという類の叱責をされた。けれどもその後、まさかいじめでも受けているのではと心配してくれた為、僕は勘違いをしてしまう。この時初めて、吐き気がするほどに自分を愚かだと思ったことを、よく覚えている。
「いじめではないけど、嫌なことはあります。僕は男なのに、先生もみんなも僕を女扱いするから」
それは、激白するべきことではなかったのだろう。担任は僕と真剣に関わるつもりなどなかったのかもしれない。馬鹿なことを言うなと責められ、僕が嘘ばかり吐いていると決めつけられた。
仮病を使ったことは事実だが、今の扱いでは気分が悪くなることも事実だ。必要以上の痛罵を受けた心持ちだった。それでも、黙って甘受出来なかった僕は、大人から見れば
それでも、一度蓋を開けてしまった本心は、大人しく閉じこもってはくれなかった。しかし共働きをしている両親の顔色から、疲労が滲んでいるのを感取してしまうと、黙り込むしかなかった。
そんな中で唯一力になってくれたのは、従兄の
「柚季、どうしたの?」
「父さんが職場で沢山梨を貰って来たんだ。だから、志弦の家にもおすそわけ」
自転車で来たらしく、僕の自転車の隣に、中学生である彼の大きい自転車が止められていた。銀色で、籠の網目が細いそれは、まだ小学生の僕にはとても大人びて見えて格好良かった。
夕刻とはいえ、夏場に一駅ほどの距離を疾駆してくるなんて疲れただろう。それを証すように彼は額の汗を拭っていた。
夕映えを背にした彼が、とても優しい声で言笑する。
「一個食べてから来たんだ。それもきっと美味しいよ。だから元気出して」
吃驚を隠せない。暗然としている素振りなど見せたつもりはなかった。それなのに僕の真意を気取った彼を、丸めた瞳で見上げたら、彼はくすりと笑んでから梨の入った袋を差し出してきた。
「当たりでしょ。はい、あげる」
「……なんでわかったの?」
「冗談、適当に言ってみただけだよ。でも本当に何かあったなら、俺が聞こうか? 叔父さん達、帰ってくるの遅いでしょ。上がっていい?」
初めて会った時から、彼はどこまでも優しい。彼の両親曰く、一人っ子だから僕を妹のように思っているのでは、とのことだった。そういえば、その時も女扱いをされて複雑な感情に灼かれたことを回顧した。
「柚季が良いなら、上がって良いよ。アイスあるけど食べる?」
「流石志弦の家だね、あると思った」
「それが狙いだったんだな?」
思わず笑声を吹き出してしまった僕に、柚季が笑いながら誤魔化してくる。扉を閉めると、斜陽を遮った室内がやけに暗く見えた。
廊下を進んでリビングに行き、アイスを一本取り出して柚季に渡す。交換するように受け取った袋には梨が二つ入っていた。僕がそれを冷蔵庫に仕舞っていると、彼は着席したようで、椅子を引いた音が粛然とした室内に響いていた。
「柚季は、僕が何を話しても否定しないで聞いてくれる?」
「もしそれが授業とかテストに影響する話なら、間違いを正そうとはするかなぁ」
「そういうのには関係ない。僕の話だ」
「大事な話なら、ちゃんと真面目に聞くよ。お兄ちゃんだからね」
彼の正面に腰を下ろしたら、人好きのする笑みを投げかけられる。僕が低学年の頃は彼のことをお兄ちゃんなんて呼んでいたな、と追思すれば苦笑が込み上げた。
優しくて、背格好も男らしくて、精悍な顔立ちの彼には憧れを抱いている。彼と同じ歳になる頃には、僕も彼みたいに格好良い男になれているだろうか、と夢想したこともあったが、その夢物語が正夢になることはなかった。初対面時の彼と同い年になった今でも、僕はこうして女らしい外見に悩まされている。
切り出そうとするも、担任教師に馬鹿にされたことが瞼の裏を過ぎ去って、葛藤が生じた。彼に話しても良いのか、と悩むことに罪悪感が湧いてきて唸りたくなる。吐き出す場を設けてくれた彼を信じたい、とはいえその先に待ち受けるのが拒絶だったならと考えたら声が出なかった。懊悩に下唇を噛みしめる。僕は、意を決した。
「僕は、男なんだ。なのにみんな僕を女の子扱いしてくるし、学校では何をするにも女子と一緒じゃないと駄目みたいだし、それが嫌でサボったりしてたら、先生に呼び出されて。本当の気持ちを言ったら、僕が男なわけないだろって怒られた」
「……そっか、自分の気持ちをちゃんと言えたのに、そんな風に否定されたら辛かったよね」
「嫌だったし、むかついたよ」
「そうだよね。それだと、ずっと嫌だったと思うし、ずっと我慢してたんでしょ? 志弦は一人で頑張ってたんだね」
僕を理解しようとしてくれている彼の言葉が、沁みてくる。頑張っていた自覚はなかったけれど、我慢し続けた僕をそんな風に言ってくれたことが、嬉しかった。涕涙しそうになっている顔を見られたくなくて、僕は机を見つめた。
「柚季は、僕の言ってること信じてくれる? 僕のことを女扱いしないで、ちゃんと男として仲良くしてくれる?」
「当たり前だよ。けど弟でも可愛いものだからなぁ、甘やかしすぎちゃったらごめんね」
「別にそれくらいならいいよ」
「でも、志弦。学校とか、信じてもらえない所では無理に戦わないで我慢しよう。じゃないとまた心無いことを言われて、志弦が傷付いちゃうから。学校で我慢する分、俺といる時は我慢しなくて良いからさ」
我慢。その単語が、僕の指先を幽かに跳ねさせた。どうして僕だけ、普通に生きることが出来ないのか。どうして僕だけ我慢して生きなければならないのか。きっと、そういったことを言えば僕だけではなく皆何かしら堪えているのだと諭される。柚季がそう言わないのは分かっていたが、話を聞いてくれた彼にこれ以上我情を連ねるわけにはいかなかった。
「……わかった」
「大丈夫、俺部活とか入ってないし、放課後はちょくちょく来てあげるからさ」
「柚季は優しいな。僕も、柚季みたいなお兄さんになりたい」
「いつかなれるよ」
形の掴めない不明瞭な不安はある。だが、柚季という味方が出来たのだ。一筋の光さえあれば、頽れることなく立っていられるような気がした。まだ僕は耐えられる。一時だけ猫を被っていればいい。それだけのことだ。
幸い、僕は周囲に従った方が反感を買わずに済んでいた。男子と関わることは控え、必要な時だけ女子の輪に入って、整列する際も女子の列に並ぶ。そうしている男子は僕だけなのに、そんな僕を咎める者はいなかった。
女子は僕を優しく引き入れてくれたが、陰口を叩かれることは多かった。「『僕』なんて女の子が言うことじゃないよね」、「あの子おかしい」そんな風に言われても、言い返すことは出来なかった。それが柚季との約束だったから。どれほど自分が男であることを主張したくても、学校では堪えなければならないのだ。
言い返さない代わりに、胸奥で反論し続けた。僕は男だからおかしくない。男の僕が女のフリをしているのだから、おかしいと言われるのは仕方がない。
暗示のように反芻し、何度も言い聞かせて、自分を守り続けていたのかもしれない。
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