キョショクの四季2

    (一)

 

 翌日の放課後、聖は養護教諭から連絡を受けて志弦の病院を訪れていた。志弦の意識が戻ったのは今朝のことらしい。話によると命に別状はなく、傷口は縫い終えた為、志弦の両親が迎えに来たら退院する流れになるそうだ。

 来訪者や受付の事務員の声が楽器みたいに響く中、聖はリノリウムの廊下を進んで志弦の病室へ向かっていく。

 辿り着いたそこの扉を開けると、ベッドの上で上体を起こしている志弦が夕空を眺めていた。肩へと流れる柳髪が燦爛と艶めいている。その頭にはガーゼとネットが付けられていた。


「志弦……」


 ととのった花顔がおもむろに振り向いて、聖の姿を捉えると柔らかに唇を撓ませていた。解語の花が微かな喜色を携えて綻ぶ。聖が躊躇いながらも歩み寄ると、彼女が軽く髪を揺らした。


「おはよう、聖。こんにちは、かな?」

「……うん」


 明朗を示す眼がほんの少し疲労に濡れている。それを気取ってしまって、聖の微笑は力ないものになってしまっていた。それは志弦にも伝わっただろう。けれど志弦は事も無げに、ほっと朗笑した。


「君が無事で、よかった」


 僅かに開けられている窓から、夕風が流れ込む。カーテンをそよがせたそれがとても穏やかで、志弦の声遣いも相まって、のどやかな雰囲気が蔓延する。聖は、笑えなかった。震えた咽喉から掠れ声を漏らして、歪んだ顔をまばゆい斜暉しゃきに向けていた。


「なんであんたが、そんなこと言うのよ……」


 問わなくても分かっていただろう。志弦は恐らく、落とされる前に裕也という男子生徒から何かを聞いている。彼女が自分の代わりに落とされたことを知っているのだと理解するや否や、聖の熱い感情がいくつも溢れ出しそうになっていた。


「聖、座って」

「ねえ、なんで。なんで怒らないの。なんで私のせいなのに、そんな優しいの」

「僕はただ階段から落ちただけだよ。他には何も知らないし、知らなくて良いんだ」

「嘘。知ってるくせに。知ってるんでしょ、だから私が無事で良かったなんて言ったんでしょ。何も良くないわよ、志弦が無事じゃないのに、良かったことなんてない……! ごめんなさい、私のせいで、ごめんなさい……!」


 罪悪感が酸素に混じっているようだ。嗚咽まみれの息継ぎをすればするほど、聖の脳髄は謝罪の言葉で満たされていく。止めることの出来ない涙雨に、聖は昨日から自分が強がっていたことを痛感した。

 自責の念が胃の奥で沸騰しているような痛みを、聖は哀哭に乗せていく。落涙し続ける彼女に、志弦は困り顔で立ち上がった。彼女の前まで裸足で歩んだ志弦の、不健康なまでに細い腕が持ち上がる。透き通った肌は夕陽になぞられて、白磁みたいに薄らと煌めいていた。

 痩せ細った白魚の指が優しく頭を撫でる。聖の柔らかな茶髪は、泣き続ける呼吸に合わせて時折跳ねていた。


「聖、謝らないで。僕は君がいるから前に進めたんだ。それにこうして生きてるんだから、大丈夫」

「でも……!」

「人ってさ、何かに寄りかからないと生きていけない時があると思うんだ。それは例えば鳥にとっての羽であったり、蝶の羽みたいなもので。僕にとってそれは『彼女』だったけど、その『彼女』がいなくなったと思い込んで、片方の羽を失くした僕は歪にしか生きられなかった」


 浸潤している虹彩が、ゆっくりと志弦を映していく。聖は志弦の詩的な言葉を咀嚼しようとして、絵本のような想像へと思いを馳せる。涙越しに見たのは青藍だ。この場にはありもしない色彩。フェルメール・ブルーに似た美しい蒼が、夕露で滲みながら、片羽の蝶を優しく染め上げていた。


「君が、また進めるように支えてくれたんだよ。進みたいって、踏み出す勇気をくれたんだ。まだ後ろ向きになることは沢山あるけど、今の僕は前にも歩けるようになった。だから、ありがとう」


 穏和な余韻が染み渡っていく。聖は無言のまま首を左右に振ることしか出来なかった。言いたい言葉は唾と共に食道を下っていってしまう。「座って」と促され、ベッドの傍らに置かれている椅子へ聖はそっと着座した。

 志弦がベッドに腰かけると、室内は閑かさに包まれ始める。泣き止もうとしている聖の吐息だけが暫く響いていた。化粧が施されている目元をティッシュで拭うと、聖は思い出したように鞄からノートを取り出した。


「これ、昨日と今日の授業の。あんたのクラスの子にコピーもらって写したの」

「え、そんなことしてくれたの? 行動力あるなぁ」


 くすくすと一笑しつつも、志弦は一冊のノートを受け取って開いていく。志弦に渡すためだけに用意された、ほとんど新品のノートだ。欠片も汚れていない表紙が室内光を垂直に浴びていた。


「あんたの担任がその子にコピーするよう頼んでたみたいだったから楽だったわよ、志弦の友達だから私が渡しておくーって言ったらすぐくれたもん」

「そうなんだ」

「あ、今日の分はそのコピーを糊で貼り付けただけでごめん、書いてる時間なくて」

「ううん、助かる。そのままくれるだけで良かったんだけど、これは嬉しいね。聖が書いてくれたところ、宝物にするよ」

「な、何言ってんの⁉」


 茜空の赤さを頬に宿した聖が俯いた。志弦はおかしそうに明眸をしならせて、一ページずつ大事そうに捲っていた。紙を捲る音を、聖が覗き見る。視線に気付いたのか、微笑を湛えた彼女が見せてきたのは聖の書いた板書だ。


「この、ポイント教えてくれてる猫可愛いね」

「っでしょ、あんたの書いた猫とは大違いの可愛さでしょ」

「僕が描いたのだって可愛い猫だった。……どのページにも猫が描かれてるのは僕の猫を揶揄う為だったりする?」

「違うわよ、そんな性格悪いことしないわ。猫可愛いでしょ!」


 そのページの科目名が記されている隣の空白や、要点をまとめた吹き出しの横に度々登場する猫のキャラクター。それが丁寧な線で描かれていることも、文章自体が綺麗な文字で書かれていることにも、志弦は嬉しさを覚えていた。捲る度に歓楽が志弦の胸を暖める。元気な表情の猫は聖を表しているようだ。優しい指が、その絵をそっと撫でていた。


「そういえば志弦、お父さんとお母さん来たら帰るんでしょ? 長居したら迷惑だし、私早めに帰ったほうが良い、よね?」

「大丈夫、二人が来るのは八時くらいだから」


 志弦は大きな音を立てずにノートを閉じる。それを膝の上に置いた彼女の眼は、幽かな憂愁に絵取られていた。


「だから、聖。良ければ、今度は僕の話を聞いてくれる?」

「え?」


 にわかに問いかけられて、聖は気抜けしたように首を傾ける。聖としては、先日自分の全てを話し、志弦の秘密も知ってしまったと思っていたのだ。色を正した志弦が、どこまでも真っ直ぐな懸珠ひとみを聖に向けていた。


「僕も、本当の僕を君に話さなきゃいけないと思ったんだ。忘れていたことは思い出した。だから、聞いて欲しい」


 焦点を変えるように、虹彩が別の色で塗られ始める。透き通った双眸が、長い睫毛に隠されていった。「うん」とうなずいた聖の前で、ゆっくりと瞬いた志弦は、ありがとうと零した。

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