第三章

キョショクの四季1

 五感を失う。それに近い感覚を、少女は思い知った。それは錯覚ではなく、比喩でもない。一刻の事実だ。

 予鈴の残響は叫び声に散らされていたが、その時の彼女は、手元を打ち守ることにしか意識を向けていなかった。騒がしい狼狽さえ彼女にとっては単なる雑音でしかなかったのだ。

 眺め入るのは、携帯電話の画面。返信がないまま数日が経過したメッセージをジッと嘱目する。その顔は渋面を象っていった。相手に憤りをぶつけたいわけでも、不満を呈したいわけでもない。最後に顔を合わせた時の状況を追思して、憂慮があふれてしまっていただけだ。

 細められた双眼の視点はやや上方へ移ろう。時刻を確認した彼女は昼休みを待ち望んでいた。例え返信がなくとも、昼になれば、会って話すことが出来ると信じていた。


「――一組の色野さんだって!」


 喧騒に、我関せずといった様相を貫いていた式野聖は、クラスメートが吃驚混じりに零したその名を耳にして肩を跳ねさせた。思議から引き上げられた聖の頭の中が、疑問と不安に侵されていく。待ち侘びている相手、志弦のクラスが一組であったことを思い出すと同時に、聖は離席して廊下の方へ進み始めていた。心配と好奇を混ぜ合わせ、声高に何かを話しているクラスメートのもとへ、躊躇なく割って入っていった。


「ちょっと、何の話」

「え、あ……」


 饒舌に語り合っていた女子生徒達が各々口を噤み始める。気まずそうに顔を逸らされる理由も、腫れ物扱いされているような雰囲気も、先週の件と現状のせいだろう。お金持ちだという嘘が暴かれ、親しい友人に嘲弄された後の孤立状態。クラスメートが聖のことを軽視し始めていることくらい、聖自身感取していた。


「その、一組の色野さんの話だから、別に、式野さんのことを言ってたわけじゃなくて……」

「違う、私の話なんてどうでもいい! 一組の……その子が、志弦がどうしたっていうの⁉」


 鋭い叫び声で、聖の周囲だけが水を打ったように寂び返る。瞠目していた女子生徒が、聖から顔を逸らした。そうして絞り出すように告げていく。未だ止まない廊下のさざめきに、掻き消されていまいそうな声だった。


「立ち入り禁止になってる四階の階段から、落ちたみたいだ、って」

「血が、凄かったみたいで。見つけたのは彩夏らしいんだけど、彩夏気分悪くなって今保健室にいるって」

「そういえば四階って自殺があったとかで立ち入り禁止になってるんだよね? やっぱ呪いとか?」

「やだ、やめてよ!」


 問いかけた聖のことを忘れていくように、彼女達は好き勝手盛り上がり始める。その間、聖はただ凝然としていた。本来知覚出来る全ての事柄が、刹那的に瀬切られていた。悲しみも恐れも、零れ出しそうになる感情が全て沈んでいく。それは心が壊れてしまわぬよう、無意識下で行われていた逃避だった。

 そんなはずはない。この時間に志弦が四階に行くはずがない。階段から落ちて血を流していたなど何かの間違いだ。

 視覚や聴覚が正常になるまでの暫時、聖は胸間で否定を連ねていた。けれども目を逸らし続けてはいられない。冷静さを取り戻せば、鎮めていた真情が氾濫し、聖を掻き乱していく。


「志弦は、どこにいるの」

「え?」

「そいつは! 一組の色野志弦は今どこにいるのよ⁉」


 今にも掴みかからん勢いで詰め寄った聖の前で、女子生徒は怯えたように肩を震わせていた。


「わ、わかんない」

「流石に救急車呼んでるんじゃない、か、な。それか保健室?」


 噂を聞いただけの彼女達を詰問したところで埒が明かない。そう判断した聖は駆け出した。朝のホームルームを行う為に担任教師が教室の前まで来ていたが、名を呼ばれて引き止められても聖が止まることはなかった。

 階段を下ると、他学年まで噂は広まっていないのか、それとも治められた後なのか、しん、と静まっていた。寂然とした校舎内に靴音が反響する。けれどその音を聞いていられるほど聖は平静でいられなかった。ひた走ることしか出来ないほどに、うろたえていた。

 志弦がいなくなるのかもしれない。その恐怖のせいで目の前が霞みそうだった。

 聖にとって彼女は、夜明けのない世界で見つけた一等星なのだ。それが流れ落ちて、光芒を散らしてしまったら、何もなくなってしまう。聖には、たった一つの光さえあれば良かった。散らすのなら鱗粉のような銀光だけを舞わせて欲しかった。どんな形であれ自分を照らし続けてくれている星彩があれば、夜闇を凝望することが怖くなくなる。一片の寂光もない暗闇を眺め入るのは、自分には何もないことを思い知るようで恐ろしいものだから。

 それゆえ聖は両手をどこへも伸ばさなかった。手を伸ばして良いのだと教えられるまで、光があることを信じられるようになるまで、夜空を見上げることさえままならなかった。

 志弦の存在は確かな灯光。消えることのない残燭なのだと思い込んだそれが、消えてしまうかもしれない。それがどうしようもなく、肺を押し潰そうとする。

 嗚咽じみた喘鳴を吐き出しながら、聖は辿り着いた保健室の扉を開け放った。


「っ一組の色野さんは⁉」


 喚声を上げた先には、椅子に腰かけている彩夏と養護教諭がいた。彩夏の姿に、聖は冷静さを少しずつ取り戻していく。呼吸を整えていけば、保健室特有の薬品じみた香りが聖の鼻腔を擽った。

 一驚を喫していた養護教諭が離席して、心配そうに聖のもとへ歩み寄ってくる。


「とりあえず、落ち着いて」

「……落ち着いてます。色野さんは、どこですか」

「色野さんなら病院に運ばれたわ」

「どこの病院ですか。私も連れて行ってください」

「駄目よ、まだ意識だって戻っていないだろうし……色野さんが落ち着いたらあなたにも連絡してあげるから、今は気にしないで、教室に戻りなさい。あなた、クラスと名前は?」


 投げかけられる言辞が落ち着き払っていて、聖も激情を鎮めていく。志弦のもとに連れて行ってもらえるまでは粘るつもりだった彼女だが、意識のない志弦のところへ押しかけても志弦の家族や医師に迷惑がかかるかもしれない。冷静な答えを出して、真情を嚥下した。


「四組の、式野聖です」

「あら、色野さんと苗字が同じなのね」

「漢字が違います。色野さんは色だけど、私は入学式とかの式なの」

「そう。……四組っていうと、赤城せきじょうさんと同じクラスよね? 落ち着いたみたいだけど不安だと思うから、一緒に教室に戻ってあげて」


 赤城さん。彩夏のことだ、とすぐに理解する。聖は彩夏を一瞥した。俯いている彼女との視線は交わらない。先週のこともあって、聖も気まずさを覚えていた。とはいえ長らく友人関係であった彩夏への情というものは簡単に霧消していかないようで、残り香のように聖の胸中を漂っていた。

 唇の端を下げ、複雑そうな面貌を象りながらも、聖は彩夏に手を差し伸べた。


「教室、戻るよ」


 重力に従って流れ落ちていた前髪の隙間から、暗色を灯した虹彩が聖を認める。睨まれたように思いながらも、聖がその手を下げることはなかった。しかし彩夏がそれに応えるわけもなく、彼女は一人で立ち上がるとすぐ廊下へ出て行ってしまう。聖は微かに生じた苛立ちを握り潰して、遠ざかる彼女の影を追いかけた。


「ちょっと彩夏。待って」


 言葉を交わす必要も、和解しようとする必要もないことくらい聖も分かっている。それでも黙っていられなかったのは、志弦の言葉が全て糸のようになっており、聖の心臓を囲う形で編み込まれているからだった。彩夏との件に関して動き始めるのなら、二人きりである今しかない。その思いのまま、聖は振り返った彼女に頭を下げていた。


「嘘吐いてたこと、ごめん」

「……は?」

「小学校の頃のことも、申し訳なかったなって思ってる。嘘を吐かないと、私がやってけなかった。嘘を吐き続けてないと、皆も、あんたも、私から離れてくと思ってたから。だから、ごめんなさい」


 正面に向き直った聖が見たのは、駭目している彩夏だ。その表情には幾重もの感情が塗られているようで、彼女が何を思っているのか気取ることは容易に出来ない。言葉を失っている彼女を意に介さず、聖は言いたいことを全て吐き出していく。


「私は仲直りしたくないわけじゃないけど、仲直りしたいって気持ちをあんたに押し付けたいわけじゃない。ただ謝っておきたかっただけ」

「…………なにそれ」

「私、学校にいる時も、あんたといる時も、ずっと嘘吐いてなきゃいけなかったし、それがずっとストレスだったんだけど。でもあんたといるの、嫌いじゃなかったんだと思う。あの後も、あんたとした馬鹿みたいな話とか思い出して、あんたが勧めてきた芸能人とかテレビで見ると見ちゃうし。映画だって結局見に行っちゃったしね」


 震える喉奥からは苦笑が込み上げていた。聖自身も、一つではない感情に絡め取られながら吐露していた。そんな自分を彩夏がどう見るか、それが懸念を溢れさせていた。

 踵を返したくなるも、爪先が横を向かぬようその場に縫い付ける。後ろにあるのは捨てたハリボテだけだ。聖はそれを振り返ることなく、ただ目の前だけを見据えた。


「それに、あんたのおかげでもう嘘を吐く必要はなくなったの。これからは、お嬢様なんかじゃない、私らしく生きてくから。そんな私と関わるか関わらないかは、あんたの好きにして。私はもうあんたに嫌がらせしたりしないし、ありもしない噂流すつもりもない。私だって、ずっと馬鹿みたいな子供のままでいるつもりはないから」


 廊下の窓から差し込む陽光が、燦然と聖を照らす。眩い光は影を色濃く落としていた。暗らかな陰影の中で唇を噛みしめていた彩夏が、両目を細めていく。眼勢は酷く歪んでいて、壊れてしまいそうだった。


「なんなのよ、それ!」


 叫声に聖は息を呑んだ。廊下に響き渡った音吐は悲鳴じみており、聖の耳朶を穿通した。


「皆の前で貧乏人だってバラして、孤立させてやって、惨めな気持ちにさせてやったのになんでそんな風にいられるのよ! 聖のせいで陰口叩かれて転校までした私が弱かったとでも言いたいの⁉ ふざけないでよ! 良い子ぶるのもいい加減にしてよ、私のおかげって……私のせいだって責めればいいでしょ⁉ あんたのせいでってずっと責めてた私が、馬鹿みたいな子供だって言ってんの⁉」

「違う、そうじゃないし、彩夏のせいじゃない。元はといえば、私の嘘が招いたことだから」

「意味わかんない……平気な顔して登校してきてるのも、落ちたのが見ず知らずの他人で、あんたが何事もなく立ってんのも意味わかんない!」


 誤解させてしまっていると思い、噛み合わない歯車を合わせようとしたものの、聖は彩夏の発言に瞬刻のあいだ呆然とした。全身の血液まで凝固していくように、身体が硬直していく。甲高く響いた泣き声に聖の喉が震えていく。聖が気付いた頃には、彩夏に掴みかかっていた。


「今、なんて言ったの……ねえ! あんたが志弦を落としたの⁉ もしかして四階の階段になんか仕掛けて、それで志弦を嵌めたってわけ⁉ 答えなさいよ!」

「違う! 私は聖を落とせって言ったのよ! 女子の下の名前なんて分からないって言うからシキノって教えたら、別の女子落としてたのよ! 私のせいじゃない‼ 落としたのは裕也なんだから悪いのはあいつよ! 私は悪くなんかない、私は殺してなんかない!」


 裕也という名前に聖の意識が記憶を巡る。彩夏達がよく共に遊んでいる男子グループの一人だ。聖は金銭的余裕がなかった為、親が厳しいからという嘘の理由でカラオケやゲームセンター等の遊びを断っていた。おかげで彼らと相対したことはない。

 ほんの少しだけ怒りの矛先がその男子生徒に向いたが、それでも彩夏に突き刺したままの憤懣を引き抜くことはできなかった。


「志弦は死んでなんかない! 勝手なことばかり言わないでよ! もし志弦が無事じゃなかったら、あんたのこと一生許さない……! こんなの悪ふざけじゃ済まないでしょ!」

「――ちょっと、なにしてるの!」


 彩夏から聖を引き剥がしたのは養護教諭だ。廊下でこれだけ怒号を散らし合っていれば流石に聞こえただろう。彼女の手によって後退させられた聖は、乱れた呼吸のまま獣のように唸っていた。再度二人きりになったならすぐにでも飛び掛かるだろう。牙を剥いている聖に対して、彩夏は泣き出しそうな顔で首を左右に振り続けていた。


「違う……私のせいじゃない……」

「先生にも全部話しなさいよ! 今私に言ったこと、全部言って、志弦にも謝ってよ!」

「私のせいじゃない!」

「言え‼」

「二人ともいい加減にしなさい!」


 咆哮は叱責に切り落とされる。声の途切れた廊下は緘黙に呑まれた。被害者然として目を潤ませている彩夏を睨めつけてから、聖は自身の肩に手を置いている養護教諭を見上げた。教師として彩夏を咎めてくれという訴えが届いたかは分からない。彼女は嘆息すると聖から手を離し、彩夏の方へ歩いて行った。


「式野さんは教室に戻りなさい。赤城さんはもう少し保健室で休ませるわ。後で担任の先生も交えてちゃんと話をするから」


 宥めるような目見を聖に向けてから、彼女は彩夏と共に保健室の方へ戻ってしまった。

 残された聖は、日輪の眩さに顔を顰めていく。窓枠や景色の色が滲んで、それらの輪郭を曖昧にしていた。足元を見下ろせば、伸びた影に砂粒のような光が落ちる。聖が呑み込んだ唾液には、臓腑を締め付けて気道を狭める類の感情ばかりが、かき混ぜられていた。

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