拒食の色9

   (四)


 夢語りを出来たなら、少しは気分が晴れたかもしれない。生憎夢とは無縁のようで、暗れ闇を凝望する日々だけが繰り返されていた。閉じた瞼を見つめ、意識が眠りに落ちても、向き合わされるのは暗幕。たまに、眠ることが出来ているのか分からなくなる。目を開けた時、こちらが夢であるのでは、なんて錯覚しそうになる。

 虚ろなまま朝陽が差し込む室内を見回し、枕元にあった携帯電話へ指を滑らせた。聖の前から逃げ出した日から二日は経っており、今日は登校日だ。彼女と顔を合わせるのが怖い反面、謝らなければとも思っていた。携帯電話を操作してメールの受信ボックスを表示する。最新の一件を開いて、眺める。それは昨日も開いてみた、聖からのメッセージだ。


『大丈夫? 今日、楽しかった。ありがとう。志弦はゆっくり休んで。月曜日、お昼はいつものとこで待ってるから』


 二日前、帰宅後にすぐさま眠りへと逃げた僕は、昨日起床した時にこの文面を見た。返信は未だに打つことが出来ていない。何を言えば良いのか、言葉が浮かばないせいだ。

 彼女から逃げたことも、彼女の気持ちを勝手に決めつけたことも、僕が許せない。僕を友達だと言って、この手に触れてくれた彼女を裏切ったも同然だった。本当の優しさを欺瞞だと少しでも思ってしまった自身に、苛立って仕方がなかった。

 けれども謝罪は身勝手な自己満足のようで、事も無げに礼を返すのは不誠実に思えて、適切な言葉が見つからない。

 制服に身を包んだ僕は通学路を進んでいく。朝の寂寞を、車のエンジン音が無遠慮に上書きしていた。信号が青に変わった横断歩道を渡りながら、思い起こすのは聖と映画館に行った時のことだ。視界の端に喫茶店を見つけても、やはり頭には彼女のことが浮かんでくる。

 誠実さ、という吐息まみれの呟きを革靴で踏み潰した。あの日彼女は、彼女自身のことを多く語ってくれた。僕は語るよりも、救われたことの方が多い。葛藤はまだ両足に絡みついているものの、巻き付く糸の色を知ることが出来た。何に葛藤しているのか、何を信じたいのか、気付かせてくれたのは彼女だ。

 本当に正面から向き合いたいのであれば、僕も全てを明かすべきだと思う。その為に、僕は『色野志弦』を知る必要があった。

 悲風に引かれた後ろ髪を片手で押さえる。渇いた音を携えて転がる朽葉が、葉の香りを舞い上げている。学校の前まで来ると生徒の姿が多くなる。今となっては見慣れた校門を潜り、ふと足を止めた。

 葉を失くした桜並木、右手側にあるテニスコート。その奥の、グラウンド。左手側の、昇降口へと続く道。普段は俯いていたせいで気付かなかったが、不可思議な既視感を覚えた。

 ゆっくりと歩を進め始めたが、どうしてか胸騒ぎがした。朝の練習に励んでいる運動部員の声、通学してきた生徒達の笑声。会話という会話が全て雑音となり、外耳道をつんざく。見覚えのある学校、喧喧たる校庭。混ざり合った無数の声は、荒れた海の濤声とうせいみたいだ。

 瞼の裏で明滅する記憶は最近のものではない。僕の脳のどこかに、この全てが詰め込まれている気がした。いや、どこにあるのかなど見当が付いている。見ないようにし続けていた硝子の向こう。腐臭を漂わせる匣の中。何かを掴めそうで掴めない。見えない所に何が隠されているのか、ようとして知れない。歯痒さに下唇を噛みながら、僕は声帯を震わせずに繰り返す。暗示をかけるように、何度も反復した。


 ――思い出せ。


 本当の僕とは、なんだろう。僕は誰なのだろう。思い出さなければ、ならなかった。聖が本当の自分で真っ直ぐにぶつかって来てくれているのだから、僕もそれに応えたい。

 正答は既視感の奥にあるはずなのだ。『彼女』が全て、知っているはずなんだ。

 今は、自身のことも『彼女』のことも分からない。思えば僕も、聖のように虚飾で覆い隠していたのかもしれない。真実が分からなくなるほどに。

 自分の色に他の色を塗りたくって、それで綺麗になれたつもりだったのだろうか。自分ではもう、この顔に何色の仮面が塗られているのかさえ見て取れない。彼女に言われるまで、僕が仮面を付けていることを感取することすらできなかった。思い知ってしまえば、逃避し続けていた己に嘲笑が込み上げてくる。

 幾重に色を重ねても、混ざりあって黒く染まるだけなのに。僕は僕でしか、いられないのに。馬鹿みたいだ。

 友となった日、聖に向けた言葉が、どれも僕に突き刺さる。取り繕って、周りの目を窺って、自分を殺して生きていたのは僕の方だった。

 自分を見つめて、嘘偽りのない自分を好きになりたかったのも――僕だ。

 昇降口を抜け、上履きに履き替えて廊下を進む。知っている。僕はこの校舎の造りを、僕として目覚める前から認めている。足早に階段を上り始めると、止まれなかった。まるで『彼女』が僕を誘うように、両足を引き上げる。

 階下は見下ろさない。乱れた息にかかずらう余裕など今は持ち合わせていない。三階の踊り場に踏み込んだ僕は、深呼吸を一つ落とした。

 色野志弦。本当の僕は、どんな色をしている?

 答えの見えない自問自答。僕は、唾を飲み込んで、四階へ続く階段を注視した。ロープが張られたその先に、なにか、今の僕なら分かるモノがある気がしたからだ。

 足を前へ、踏み出した。ロープを跨いで、四階へ上がる。立ち入り禁止となっている四階の踊り場は、冷え切っているようだった。僕と聖以外きっと誰に使われることもなく、硬直したフロア。その廊下を進もうとした僕の肩が、背後から引かれた。


「っ……!」


 息が止まる。教師に見つかったのかもしれない。まだ何も見つけられていないのに、降りろと言われるかもしれない。逸る気持ちを押さえ込んで色を正し、振り向いてみればそこにいたのは生徒だった。

 派手な金髪とピアスを煌めかせた男子生徒が、一人。僕に笑いかけている。彼が僕の肩に触れたのだと理解すると同時に、総毛立つような感覚に襲われた。僕は彼から距離を取るように一歩下がり、自分の片腕を抱いた。


「なにか、用でも?」

「シキノさんってあんただよな? 目立つから覚えてた。っつーか立ち入り禁止の四階に自分で来てくれるとか、ちょうど良くて助かるよ」

「は?」


 上履きの色から察するに、彼は同学年だ。記憶が正しければ、同じクラスではないはず。一昨日のこともあったせいか、彼に対しても微かな戦慄が滲み出してきて唇を噛んだ。

 情けない。今まで僕が、『彼女』に戻った時の為に目立たないよう生きてきたせいだろうか。僕は僕なのだと、聖が言ってくれたことを思い出す。僕は、か弱い少女なんかじゃない。意を決して、彼を睨めかけた。


「訳の分からない話はいいよ。用があるなら早く済ませて立ち去ってくれ」


 瞠目した彼が、陽気に笑う。彼の用件が何かは知らないが、予鈴まで時間がない。それに階段の踊り場でいつまでも話し続けていたら他の生徒や教師にも見つかるだろう。本題を急かすよう冷眼を向けたが、彼がそれを意に介した様子はない。リノリウムの床を踏みつけた上履きが高らかに音を響かせた。

 彼我の距離を詰められて息を呑む。下がりたいのに、双脚の甲に釘を打たれているみたいだった。嫌な汗が掌中に滲む。目の前に立つ彼を見上げたら、彼はおかしそうに笑っていた。


「へぇ、あんたそんなキャラなんだ? いつも黙って静かにしてるから、もっと控えめな感じだと思ってた」

「こっちの話を聞いてるのか?」

「聞いてるよ、まぁいいじゃんちょっと喋るくらいさ。……で? あんた、何したわけ?」

「何の話を……」

「あいつが狙ってる男と寝たとか? いい見た目してるもんな、すぐ彼氏作れそう」


 あいつ。それが誰であるのか、思い当たらない。学校で僕が関わりを持っている人間は聖だけ。彼女は男の友人などいないと言っていた。だからこの男と彼女は無関係なはずだ。

 警戒心を強め、面差しに険を含む。飄々とした素振りで、彼の手は僕の横髪を掬い上げていた。背筋が粟立ち、吐きそうになるのを堪えてその手を叩き落とす。


「気持ち悪い、触らないでよ」

「あー、ごめん。やっぱ、男遊びしてそうには見えねぇな、慣れてないっしょ。大人しそうだから彩夏を怒らせるようなことするイメージもないし……あいつの一方的な嫉妬か?」

「あやか……?」


 どこかで聞いた名前だった。ごく、最近。どこで聞いたのか思い巡らせている最中、手首を引っ張られて目を瞠った。


「っ、なにを……!」

「別に俺はあんたに恨みはねぇけど、彩夏の頼みだからさぁ」


 大きくて力の強い掌を、引き剥がせない。僕も男だ。それなのに、この身体は認めざるを得ないほど、か弱い少女だった。抵抗がままならない。無力感を突きつけられる。かからめく心音が頭蓋へ響いてくる。この拍動が早まるのは目の前の恐怖に対してではない。これは――。


「離せ!」

「落としてこいって言われたから、悪いな」


 虚空へ投げ出される真際、頭が、痛んだ。臓腑が押し潰されていた。

 記憶の中で、開かれた匣が、赤々と彩られた腥風を溢れさせる。

 体の弱さを思い知らされる屈辱。僕は僕であるのだと、そう信じていたものを壊された思い出。復仇すら捻じ伏せられて、罪へと変えられたあの日。

 落ちていく、感覚。

 この感覚を、知っている。落ちた先は氷のように冷たいのだろう。匣の中に詰まっていたあの日は、季節外れの天花が涼風に揺らされていたから。あの日も、窓の外を灰雪が満たしていた。

 痛みは咽喉を締め付けて、冷たく色彩を奪う。これは、あの罪に対する罰なのだろうか。

 階段に何度も体を打ち付けながら、僕は睫毛を伏せた。眼球の裏側、そこにある脳から溢れ出した記憶が、角膜を刺し貫く。

 嗚呼、と、余喘を吐き出した。


 僕は、初めからこの身体の持ち主だった。


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