拒食の色8

「志弦ってどこの駅で降りるの? 同じ方向なら途中まで一緒に……」

「――ねぇ、君達これから駅行くの?」


 見知らぬ声に顔を上げる。大学生くらいの男性二人が僕達に微笑を向けていた。他人と話すのは苦手だ。情けない話だが、こういう知らない相手との会話は聖の方が慣れているかと思い、逃げるように彼らから目を逸らしてしまった。

 横を向いた僕の目には、びっくりしてから苦笑している聖の顔が映っていた。


「あー、そうですけどなにか?」

「俺達も駅行こうと思ってたんだけど、ココあんま来ないから迷っちゃってね。付いてっていい?」

「駅ならそこの道真っ直ぐ行けば着きますよ。私達やっぱりもうちょっと他の店見てから帰るんで」

「あ、ありがとう。じゃあ道教えてくれたお礼に奢らせてよ」

「お礼はいらないのでどっか行ってくださーい」


 聖の声柄に苛立ちが混ざっていく。しつこいなと思って、僕も協力するべく顔を上げてみた。なのに男性二人と目が合った途端、逃げ出したい気持ちに駆られる。だが僕は、『彼女』の姿をしているとはいえ男なのだ。聖を助けたかった。逃げ出しそうな足で地面を踏みしめ、夕焼けに目を細めて開口した。


「あの」

「君やっぱりすごい綺麗だね! 遠目で見ても可愛いなって思ったんだよ! 何食べたいとかある? 奢るからどっか行こうよ」

「え、いや……」


 のべつ幕なしに話しかけられて咄嗟に身を引いた。詰められる距離に心臓が早鐘を打つ。緊張でもしていたのだろうか、呼吸が乱れそうだった。


「行かないって言ってんでしょ、ホンットしつこい」

「別に君は帰っても良いよ? 俺達そっちの子と話したいんだし――」

「聖、行こう」


 激情のままに聖の手首を引っ張った。彼女を軽んじたような口吻が癇に障る。耳障りな声からも、目障りな面貌からも、意識を背けて聖とその場を立ち去ろうとした。無視して突き進めば相手も諦めるだろう。

 胃の奥で沸き立つ情動を鎮めたくて、夕空を過ぎ去る鴉を見上げた。歩き出したのも、頭上を仰いだのも、とても短い時間の中でのことだ。退路を辿ろうとした僕の肩に、追いかけてきた男の手が触れていた。

「そんな怒らないでよ、ちょっと食事しようって言ってるだけじゃ……」

 服の生地を伝って広がってくる、彼の体温。その生温さも、手の平の感触も、薄汚い媚びで覆われた声も、気持ち悪かった。嘔吐感を伴って五臓を炙る嫌悪が、脳髄まで満たされていく。

 音が遠のいていた。聴覚も嗅覚も弱まっていくのに、触覚だけが激痛を突きつけてくるものだからおかしくなりそうだった。震えた喘鳴を漏らす中で、瞬刻、景色すら分からなくなる。

 暗転する。まばたきの都度、追憶を切り取るように静止画が角膜にこびりついてくる。薄暗い室内で、誰かが笑っていた。嘘を垣間見せる優しい音吐。気遣いで覆われた悪辣な掌。吹き込まれた言の葉は呪いだ。だけどなにも聞こえない。なにも見えない。わけの分からない痛みだけに穿たれていく。


「――――ッ‼」


 声にならない喚叫が迸ったのは、錯覚だろうか。他人からの接触を、この身体が拒絶していた。咽喉が焼け爛れたみたいに痛かった。全身に纏わりつく畏怖が拭いされなかった。

 過去の光景で抉られた双眸が、次第に色を取り戻していく。ゆっくりと灯された照明の中で、いつの間にかしゃがみこんでいた僕は聖を振り仰いだ。先程の二人組がいなくなっているのを見る限り、僕はみっともない悲鳴を上げたのだろう。震えが収まらないまま、空笑いを象った。

 夕陽を背にして、僕へ影を落とす彼女。動揺で揺れる虹彩を、それでも真っ直ぐぶつけてきていた。


「志、弦……大丈夫?」


 沈みかけている日輪が、景色を黒く塗り潰そうとしているせいだろうか。聖の瞳に映されている心情が何も窺えない。心配してくれていることは、分かっている。不安そうに差し出された手は気遣いの塊だ。それも、理性では理解できる。

 だが、人の心とは見えないもので、良くも悪くも解釈出来てしまうのだ。心音が鎮まらないまま、感情的な思想が脳細胞を浸食していく。被害妄想じみた推断が『信じたい気持ち』を染色する。

 聖が僕に向けているのは形だけの気遣いで、軽蔑を必死に押し殺しているだけのものだ。そういった考えばかりが巡り出して、僕は連鎖する渦を止める為に彼女の手を取ることなく立ち上がっていた。


「ごめん、帰る」


 ざらついた掠れ声は壊れた蓄音機から流れているみたいだった。聖の戸惑いを背で受け止めて、僕はよろめいたまま懸命に疾駆した。今は、彼女と顔を合わせられそうになかった。

 夜闇が薄らと零れてくる。涼風が瞳孔を刺し貫いていた。瞬きをしても、見えるのは目の前にある道だけだ。この身体が歩んできた方角は、黒く陰っていて何も見えない。記憶の硝子を覗き込もうにも、白い霧がかかったように、何も見えなかった。

 きっと、『彼女』が見たくないものを全て詰めたパンドラの匣が、僕の中にある。その匣の中身は腐敗しきっていて、開けようとするだけで吐き気を催す。今はそれを開け放つ勇気がなかった。

 通り抜ける雑踏が耳鳴りじみている。己の呼吸音が骨に響く。吸い込む酸素は毒を孕んでいるようで、息継ぎをする度に胃液が溢れそうになる。あの男性に触れられた肩の皮膚は爛れているみたいだ。

 痛み。嘔吐感。絶望。不快感。怨嗟。

 流露する全てを必死に抑え込んで、僕は駅のトイレに駆け込んだ。床に頽れた直後、唇の隙間から呻吟が溢れた。嗚咽混じりの吐息が胃酸を纏っているみたいで気持ち悪い。固形物を口にしていないせいでひたすら液体だけが溢れていく。飲み物すら拒否するみたいに、唾液さえ吐き捨てるように、何も落とせなくなるまで嘔吐いていた。

 気道が切り裂かれたように痛む。開いたままの口唇はまだ足りないのだと言わんばかりに何かを吐出しようとしている。激情さえ苦しみに滲まされる。

 目の前が、ひどく掻き曇っていた。

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