拒食の色7
「ねぇ、志弦も、何か教えてよ。本当のあんたのこと。嫌じゃなければ、だけど」
気抜けしたような外貌を浮かべてしまった僕は、懊悩を紅茶で流し込む。話したくないと思うものは、一つも思い当たらない。海馬を巡ろうと試みても、僕にはそれが許されない。思議の後に苦り笑う。
「話したいけど、話せることがないよ」
「なにそれ。じゃああれは? 絶対に彼女を殺してやらない、って言ってたの、あれ、なに?」
一弾指の間、気道が見えない膜で覆われる。聖が聞いたというその言葉は、恐らく無意識下で溢れてしまったものだ。言った覚えはないけれど、思考した記憶はある。僕は口唇の端を軽く持ち上げた。それがとても引き攣った笑みになっていることは、視認せずとも分かった。
「聞いてたんだ?」
「……聞こえちゃったのよ」
鏡を前にしているみたいだ。聖の申し訳なさそうな顔ばせが、僕に付けられた仮面の綻びを物語る。申し訳ないという想いが、僕の目顔にも映し出される。
「僕は、本当は色野志弦じゃないんだ」
「……えっと?」
「この体の持ち主が色野志弦、僕が『彼女』と呼んだ子。物を食べられないのは、僕が食べたくないからじゃなくて、『彼女』が拒んでるからだと、僕は思ってる」
「……あんたは、いつからあんたなの?」
瞼を開けた時のことは、はっきりと覚えていない。ただ朧げな意識の中で、僕を心配そうに覗き込んでいるのが両親であることと、僕が色野志弦ではないことを脳に記していた。
透明な硝子に息を吹きかけて、水蒸気で白んだそこへ何度も文字を書くような感覚だった。情報を書き留める度に消えていき、僕のことも周囲のこともすぐ分からなくなる。玻瓈の向こうの何かが、この身体に恐怖を覚えさせる。そんな中で、ひたすら反芻しながら『彼女』を待っていた。
今では自分のことも周囲のことも分かっているし、分からなくなることもない。『彼女』を待ち続けていることに、変わりもない。僕が目覚めた、雪の舞うあの日から。
「中学三年の時、かな。なにかあって、『彼女』とこの体は意識を失っていたんだ。目覚めたら僕が表に出ていて、『彼女』はいつまで経っても僕と代わろうとしなかった。多分、眠りについているんだ思う。僕が『彼女』の代わりに目覚める前のことは、あまり覚えてない」
「よく、分からないけど……そのカノジョは、もう目覚めないのよね?」
瞑目したまま目覚めてくれないのではないか、なんて思いはいつでも僕の中にあった。けれどもそれは受け入れがたいことで、否定し続けていたいことだった。突かれた不安が泡のようにせり上がってきて僕は唾を呑み込む。やけに、苦々しい味だった。
「その可能性も、あるけど」
「……ねぇ、今のあなたが本当のあなたなんじゃない?」
長調の音色みたいな疑問符が、暗然となりかけていた空気の中で奔星のように煌めく。彼女は一体何色の絵具を持っているのだろう。幾つもの情感で綾どられる面差しに、こちらの心まで緩められていく。それが心地良くて、笑声を吹き零してしまった。
「それはないと思うよ?」
「わ、笑わないでよ。私馬鹿だから今の話あんまり理解すら出来てないし、難しくて分かんないし。でもさっき見た映画で言ってたじゃない。性格が変わっても、記憶がなくても、キミはキミだーって。偽物なんかじゃなくて、別人なんかじゃなくて、それも本物のキミなんだって」
「……本物の、僕……」
「そう考えたら志弦は、少しでも楽に……ならない、かな。待たなくて、良くなるでしょ。だってあんたも本物なんだから。いなくなったカノジョも本物だったかもしれないけど。蝶がサナギの殻を置いてって一人で羽ばたいてく感じ、じゃないの? カノジョは多分サナギだったのよ! 蝶の成長とか私よく分からないけど」
「聖って、面白いこと言うよね」
待たなければならないのだと、ずっと思っていた。それが僕の役目なのだと、思い込んでいた。『彼女』の為に生きることが僕の存在理由──その心が揺さぶられる。僕が色野志弦である可能性は、考えたことがなかった。この身体はどこを取っても、他人のモノのようだったのだ。男である僕が、この身体を持って生まれたなんてありえない。これを僕の
そういえば、なにかで聞いたことがある。蝶は、再生の象徴らしい。もし僕が蝶であるのなら、もし『彼女』が目覚めないのなら、僕は己の足で進むことを、許されるのかもしれない。だけれどこの姿では、僕らしくなど生きられそうにない。
自身が本物であれば良いという希求と、偽物であって欲しい想いの狭間で、僕は振り子のように揺れていた。
「ちょっと、面白いことってなによ。真面目に考えてやってんのに馬鹿にしてるの?」
頬を膨らませる聖に、朗色を向けて首を振る。紅茶のグラスを軽く傾けた。音を立てていた氷は、もう溶けてしまっていた。
「してない。少しだけ、心が軽くなったような、気がする」
「そ? なら良いんだけど」
「……君に、自分らしさを探せみたいなこと言ったけど、僕こそ自分のことちゃんと見なきゃいけないね」
自分のことが分からないのは当たり前だと思っていたが、聖の言うように僕は僕だ。ハリボテでしかない僕には何もないと思っていた。だけど、今ここにいる僕は確かに息衝いていて、僕を構成しているものがあるはずだった。それを、見つけたい。記憶を覆う硝子の向こうか、幾何学模様を明滅させる闇の中か、そのどちらかに、きっと答えは折り重なっている。
舌に絡ませた紅茶は水分を多く孕んでいて、その冷たさが僕を冷静にさせる。置いたグラスの底に透っている机の木目が、雫で濡れていた。視点を持ち上げると、聖がいちごミルクを飲み終えていた。
「動き始めるのはいつからでも良いんでしょ? だから私と一緒に始めるの、自分探し」
「うん。僕のことも、『彼女』のことも、もっと、考えてみる」
「悩んだら相談してよ? 友達なんだから」
「ありがと。……そろそろ帰ろうか、紅茶なくなったし」
「そうね、行こっ」
一緒に、と持ちかけられたことが嬉しい。友達という単語を噛みしめた。独りじゃないことを教えてくれる彼女が、眩しく思える。何も見えない暗がりを照らしてくれる、暖かな燭光。
戸を抜けて店外に出た僕は、斜陽に眼を細めた。聖の虹彩は陽光よりも眩しくて暖かいのだなと、ぼんやりと考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます