拒食の色6

「私、お母さんにもお父さんにも、愛されてるって思ってたの。クラスの子は誰も持ってないようなブランド物の服とか、鞄とか、アクセサリーとか、そういうものをお母さんはいつも買ってきてくれたし、お父さんは厳しかったけど、全部私の為を思って言ってくれてるんだ、って思ってた。けど二人とも、私に愛情なんてなかったのよ」


 太めのストローで中身を混ぜていく指先の、桃色のマニキュアの上で、照明が揺らめいている。僕は相槌を打つように俯いて、机上を絵取る自身の影を打ち守った。


「頑張っても私は馬鹿だから、お父さんに言われた学校には進学出来なくて、受験落ちたの。そうしたら、お父さんは私を捨てた。お父さんはね、お母さんみたいに美人な子供か、自分みたいに頭の良い子供が欲しかったんだって。でもお母さんは整形して綺麗になった人だし、私は顔も頭も良くなくて。受験にも受からなかったから、これ以上お金をかけてやりたくないほどに無価値な存在だって、お父さんが話してるのを聞いた」


 私にはなにもない、そんな哀感を吐き出していた聖のことが瞼の裏を掠める。それと同時に彼女が、 虚飾で仮面を編み込んだ訳を理解した。

 店内を潤色するピアノの好音を縫いながら、彼女の真情が雨のように落とされていく。


「ずっと、不愉快だったみたい。お父さんにとってなんの得にもならないお母さんと私が、お父さんのお金で高いものを買って幸せそうにしてるのが。そこでようやく気付いたの、お父さんは私の為を思って私を怒鳴ったりしてたんじゃなくて、ただ私が好きじゃないからああしてたんだって。家族愛なんてものは、初めからそこに一切なかったんだって。お前なんか娘じゃないって言われた時は、わけが分からなかった」


 うん、と零したつもりの呼気は霧消する。左胸の奥、そこで拍動する心臓が締め付けられているみたいだった。聴くことしか出来ないことへの罪悪感からか、それとも、彼女の音吐に包含されている痛みが伝播してくるからだろうか。

 家族愛、と唇の裏で呟いた。僕はきっと、それを知っている。『彼女』も知っているはずなのだ。それなのにそれから目を逸らしているこの身体には、彼女の哀傷がどうしようもなく痛かった。


「言いたい言葉はいっぱいあったけど、何も口から零れないの。『娘じゃない? 何言ってるの、私はあなたの娘でしょ。ちょっと顔が良くないとか、ちょっと頭が良くないとか、家族って名前の繋がりはそんなことで簡単に捨てられるの?』って、本当はそんな風に泣き喚きたかった。なんかもう、貶されすぎて疲れてたのかも、声なんて出なかった。お母さんがいてくれるから、こんな人いなくても良いやってなって。でもやっぱり私馬鹿だったんだよ」

「そんなこと……」

「お父さんがいなくなったけど、お母さんはいてくれる。お母さんは私に色んなものを買ってくれてたから私を愛してくれてる。そんな風に期待して、結局馬鹿みたいに泣いた。お父さんがいなくなってお金に余裕がなくなったお母さんは、私になにもくれなかった。お腹が空いたっていったら小銭を投げ付けられて、服も何も買ってくれないし、ねだっても、欲しいものがあるならあげたお金を使わないで貯めればって。ねぇ、一日五百円でどう貯めろっていうのよ? 朝昼晩のご飯買ったらほとんど無くなるの。服なんて買ってられない。好きな物も買えない。ムカついて文句を言ったら、誰のせいでこうなったのって怒られた。私がなんの価値もない人間だったからこうなったって、泣きながら怒鳴られた」


 慰めの言葉すら満足に紡げない。その代わりに、苛立ちが喉奥で燻っていた。僕は、聖が貶されていることに納得がいかなかったのかもしれない。彼女が無価値だなんてありえない。そもそも人の価値とはなんだ? 他人が勝手に決めつけて、無価値と書いた札を貼り付けて嘲謔して、それで決められるものが人の価値だというのなら、その札を引き剥がしてやりたい。

 僕の手を取ってくれた彼女は、確かな銀燭ひかりを持っている。その思いを伝える形を思惟しながら彼女の過去を傾聴していた。


「家で居場所がなくなったから、学校で友達と馬鹿みたいにはしゃいで発散したけど、そうやって私と仲良くしてくれる子達は私がお金持ちだから仲良くしてくれてたの。けど、もうお金なんてなくて、でもお金が無いって知られたらみんな離れてくと思った。私はお金がなければ無価値だから。中学生だからバイトも出来なくて、馬鹿みたいに夜中に徘徊して適当な男捕まえてホテル行って、好きなようにやらせてやってお金貰ってた。それ以外にお金を稼ぐ方法なんて私は知らなかったから」


 鍵盤の余韻が溶け消えると、数拍の緘黙が流れた。雑音に混じることのない聖の言葉が、滔々と奏でられる追想が、僕に瞬きすら忘れさせた。黙考していたことさえ脳室から切り崩される。意図的にではないのだろうが、彼女が『好きなように』と曖昧に語ったことが何を意味しているか察してしまっていた。それと同時に、辛酸を象った嫌悪が滲んでいく。


「友達にもそうやって稼いでる子いてさ。でもその子、妊娠しちゃったって泣いてて。それ見てたらなんか私も怖くなってやめたの。やめたけど、お金は欲しかったから、一日デートするだけでお金貰ってる子もいたしそんな感じで私もやってみようかなって思ったらさ、ヤらせてくれないならいいって。金払ってまでブスとデートなんかしないって。私、本当になにもかも価値ないんだなって思った」


 僕は、声帯が喉から剥離するように、呻き声を溢れさせていた。けれども必死にそれを嚥下した。脳髄が軋むように痛い。それでも平静の顔を貼り付ける。吐き出してしまいそうな暗い気持ちが何に対するものなのか僕には分からなかった。混濁していく思考から目を逸らすよう、落ち着け、と胸中で繰り返す。


「価値があると思ってもらえたのは、お金とか、ブランド物とか、女の子の体っていうやつ。それって全部、私の本質? みたいなものとは無関係でさ。私の性格面とか、私自身には、なんにも価値がなかった」


 聖の声音は辛うじて聞き取れていた。漸次に弦楽器の旋律も受け止められるようになる。汗ばんだ手でグラスを撫でれば、紅茶の冷たさが明に染み込んできた。ふと眼を持ち上げたら、聖の虹彩が僕を認める。交差した目線の先で、さながら花のように彼女は柔和な笑みを咲かせている。眼差しはあまりに明るくて、僕の心さえも包み込もうとしているみたいだった。


「ね、笑っちゃうでしょ。だから、何もない私は誰にも愛してもらえないから、友達すら出来ないから、外面を繕うしかなかったの」


 僕の喉頸を締め付けていた葛藤が、ほどかれていく。ふっ、と、どこかで張り詰めていた糸が緩んだ。首を左右に振ってから、僕は「でも」と投げかけた。声を忘れていたみたいに、それは吐息混じりだった。


「もし聖が、自分は本当に何もないと思うなら、本当にそうなんだと思う」

「そんなの分かってるわよ」

「ただ、殻の中にずっと閉じこもっていたら何も見えないし、どんな道にも手を伸ばすことすら出来ないんだから、当たり前なんだよ」


 僕は君の眩しいほどの灯を知っている。彼女からしたら世辞だと思われてしまいそうな台詞は呑み込んだ。その上で案出したものは、まるで僕自身かのじょに問いかけているみたいだった。


「何が言いたいの?」

「両手が空いたままなら、なんだって手に取れるでしょ。動き始めるのは今からだって、いつからだって良いんだ。何に手を伸ばしても、良いんだよ。まだ何もない君は、どんな形にもなれる。頑張って嘘を吐くくらいなら、頑張って――君にしか描けない形を探そうよ」

「……それ、なに」


 特に意味もなく、机に置かれているアンケート用紙を手に取って適当な形を描いていた僕は、顎を持ち上げた。聖が尋ねているのは僕が描いたものについて、のようだった。問われるほど不思議なものを描いた覚えはない為、見る角度のせいで分からなかったのだろう。僕は紙を手渡しつつ首を傾ける。


「猫だよ」

「うっそ⁉ これじゃ桜の花びらに顔が描いてあるだけよ! ペン貸して!」


 楽しそうに笑いながら、彼女は嬉々としてフリースペースに猫を描いていく。輪郭があって、尖った耳が二つあって、髭を生やせば猫だろう。眉根を寄せて自分が描いた猫を見つめてから、話が脱線していることに気が付いた。彼女は、少し傾けただけで多くの色を見せてくる万華鏡みたいだ。思わず嘆息を漏らし、額を押さえる。


「……あのさ、僕は真面目な話を」

「分かってる、ありがとう」


 僕を遮ったその言葉尻が、微かに掠れていた。ペンを置いた彼女は背筋を伸ばす。桜色の唇が少しだけ、震えているように見えた。


「私、見栄を張らなくても友達になってくれて、馬鹿みたいな暴露話しても離れないでくれる、あんたみたいな人がいるなら、私らしくってやつ、頑張れる気がする」

「それは、良かった」


 長閑やかな空気に、指先まで落ち着いていく。気取ってしまった彼女の心情には、頷きだけを差し出した。彼女の手が緩慢な動作でプラスチックのカップを持ち上げる。容器からは結露の雫が一滴零れ落ちていた。

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