拒食の色5

     (三)


 映画館を出ると、昼間の明るさが角膜に突き刺さる。僕は微かに目を細めた。朝の街並みは涼やかな空気が感ぜられるような、やや彩度の低い景色をしているような気がするが、昼間になると陽の光によって草木や建物の彩りが鮮々あざあざとして見える。

 暗い場所から明るい所に出ると眩しいね、と声を掛けようとしたが、僕の隣を歩く聖は鼻を啜りながら顔を覆っていた。遠慮なく泣いている彼女に苦笑が零れてしまう。


「聖、どこか座る?」

「喫茶店行くからいいの」

「そんな号泣しながら喫茶店に入ったら店員さんびっくりすると思うけど」

「入る前に涙拭けば良いでしょ! もう、なんなのあの映画、途中から涙出っぱなしで俳優の顔なんて見えなかったわよ、顔見えてたの最初の方だけだからクズ男の顔面しか覚えてない……」

「ははっ、同じ顔でも人柄の表し方で、表情とかカッコ良さも変わってくるよね。でも……役者ってすごいな」


 聖に合わせた緩やかな足取りで歩道を進んでいく。やや遠い位置に駅が見えた。喫茶店は駅へ続く通りにあるらしいから、もう少しだ。すれ違う人達の視線に気付いた聖が、どうにか泣き止もうと頑張っている中、僕は映画のシーンをいくつも思い返していた。


「顔が映っていなくても声だけとか、手だけとか、すごく些細なものでその役の感情を表しちゃうんだ。表情が見えると感情移入してしまうくらい、こう……グッときたし。久しぶりに映画なんて見たけど、すごく楽しかった」

「なにその監督みたいな発言、志弦すごい真剣に見てたのね! 私話ばっか聞いてて演技面あんまり見てなかった」

「でも役者の顔が見えなくなるほど泣くくらい、聖だって真剣に見てるじゃないか」


 役者の演技が本当に心に響いていたから、思わずそれを語り出してしまったことに照れ臭さを覚えた。聖は笑っていたけれど、それは馬鹿にするような笑いではなくてなんだか心地がよかった。僕も笑い返したら、「あれは泣くと思うんだけど、私涙脆いのかなぁ……志弦泣いてないし」なんて唇を尖らせながら、ティッシュで目元を拭っていた。

 聖の姿を想起してみると、高そうなバッグから取り出されるのがコンビニの袋だったり、駅前で配られているティッシュだったりと、まるでそれさえも彼女の人柄を表しているみたいで微笑んでしまう。煌びやかに着飾りながらも、驕ることなく気さくで話しやすい。

 外見だけ見れば、確実に僕は話しかけないタイプだ。多分出会った日のように、二人きりで顔を合わせることがなかったなら、関わることなどなかっただろう。けれど関わってみて、話してみて、やはり人は外見だけで判断されるべきじゃないなと思った。僕達だって役者なのかもしれない。恐らく好きな役を演じている役者だ。好きな衣装を纏って、好きな顔を浮かべているだけ。はたから見た時にその外面と内面に差異があっても、好きなことをしているだけの当人は他人の反応など気にしない。そう考えてみると、他人の顔色ばかり窺って生きている僕は、大根役者のようにも思えてくる。

 店が立ち並ぶ辺りまで来たら、頭上に広がる屋根のおかげで、目に痛いほどの太陽光が少しだけ遮られる。聖の足取りからして、目的の喫茶店はこのあたりのようだ。少し進めば硝子戸に店名と絵が描かれている喫茶店が見えてきた。扉の前にはメニューが貼られた看板が置かれている。それを横目で見つつ、珈琲にするか紅茶にするか、或いは水にするかと悩んでいれば、隣で「わっ」と聖が声を上げたものだから僕まで驚いた。

 どうやら、店から飛び出してきた子供と衝突しかけたらしい。駅の方へ走っていく男の子と、「こら」なんて叱りながらそれを慌てて早足で追いかける母親。聖が頬を膨らませてそれを見ていた。


「もー、叱るよりまず謝りなさいよ。私じゃなかったら怒ってたかもしれないんだから」

「聖も怒ってるけど?」

「怒ってない」


 仏頂面のまま、聖が軽く腰を曲げてメニューを覗き込む。彼女の柔らかそうな茶髪に遮られながらも、僕もメニューを眺めて、紅茶にすることにした。唸りながら何にするか決めていた聖が、鞄から財布を取り出す。小銭を見つめて、また看板を見つめて、それでも悩んでいる彼女から目を逸らし、先程の子供が走り去って行った方向を眺望した。歩き去っていく背の中にも、歩いてくる人の中にも、あの親子の姿はもう見つけられなかったが、回視しながら薄く笑う。


「子供って元気だよね」

「志弦もあんな子供だった?」

「……どうだろ、あんまり覚えてないや。聖は?」


 幼少期のことは思い出せない。回顧しようとしてみたものの、その記憶は曇り硝子の向こうにあるみたいだった。淡い色彩だけは僅かに窺えるが、細かな輪郭は酷くぼやけている。

 戸を引き開けようにも、僕はその開け方を知らない。壊し方だって分からないのだろう。見えない記憶を覗き込もうと両手を押し付けて、それでも開くことが出来ないまま、痛みだけを覚える。

 小さな頭痛を見なかったことにして、事も無げに笑いかけたら、こちらを見上げた聖の顔に数刻瞬きすら忘れた。


「志弦は、私の馬鹿みたいな話、馬鹿にしないで聞いてくれる?」


 心のどこかで、聖は明るい家庭で育ったという思い込みがあったのかもしれない。彼女はどこまでも明るく、惨憺たる現実が降り掛かろうが翌日には強く切り抜けている。そんな少女だと思っていた。

 だから目を見張った。地面に落とされてそのまま忘れられた硝子玉のような、傷だらけで、しかし曇ることなく日陰を反射する真っ直ぐな瞳に、思わず息を止めた。


「……聞くよ。聞かせて」


 軒下に入るまでの間、この瞳を灼いていた日輪。それよりも聖の諸目が、眩しく思えた。僕はきっと、踏み壊されたビー玉だ。割れた片割れを眺めて、そこに映った傷だらけの硝子玉を、ただ眺め入っているだけの。

 うん、と静かに頷いた彼女は生糸みたいな柔らかな髪を揺らして喫茶店の扉を潜る。店内は夕刻の室内を思わせる、やや暗い照明で照らされていた。フィラメントが熱の色で光るエジソン電球のような電灯は、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。スピーカーから流れているピアノの音色も相まって、どこか神秘的だ。

 昼食の時間は過ぎているからか、客は多くなく、かと言って少なくもない。聖がカウンターで注文をしている間に店内を見回していた僕は、空席を見つけてほっとする。ふと袖を引かれて、聖の方を向いた。


「志弦は? なに頼む?」

「あ……アイスティーで」

「アイスティーをお一つですね。ご注文は以上でよろしいですか?」


 お願いします、と聖が返して、財布から小銭を出していた。その横から手を伸ばし、僕はアイスティーの分のお金をトレーにそっと置いた。

 支払いを済ませ、品物が載ったトレーを手にした聖が歩き出す。端の方にあった二人掛けの空席に腰を下ろして、聖からアイスティーを受け取る。ストレートのそれを意味もなくストローで混ぜると、氷が涼やかな音を奏でた。

 卓上の端の方にはボールペンとアンケート用紙、紙ナプキンが置かれている。座右を何の気なしに見遣ってから正面に向き直った。

 聖はいちごミルクに、黒く丸いものが沢山入っている飲み物を、太いストローで一口飲んだ。確か、タピオカという名称だったろうか。メニューを見ていた時ケーキを買うか悩んでいた様子の彼女は、結局その飲み物だけを買ったようだった。

 それが美味しいのか少し気になったが、それを咀嚼することで吐いてしまうかもしれない為、一口くれないかと口に出すことはしない。紅茶で喉を潤した僕に、聖が自身の手元だけを見つめたまま照れ臭そうに笑う。これから話すことが、ほんの少し恥ずかしいと言わんばかりに。

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