拒食の色4

 それから男は、日毎彼女のもとへ通い詰めるようになったみたいだ。寝ている彼女を不安げに眺めたり、起きている彼女へ微笑んだり。スーツ姿の彼が夕焼けを瞳に宿しながら、懸命に彼女へ語りかけている――そんな描写が暫く続いた。

 彼の言葉に、彼女は大抵相槌しか返さない。声音は届いているはずだ。それでも、それに伴われている言葉がなに一つ、心まで届いていないみたいだった。一人で話し続ける彼が、酷く虚しい。彼の笑みが次第に継ぎ接ぎだらけになっていく。ある時は口端、ある時は目元、時には眉尻から、彼の苦しみが零れていた。

 そんな彼に、彼のことを知らない彼女も少しずつ心を開き始めているのだろう。時折微笑むこともあれば、眉根を寄せていることもあった。

 彼はその日あったことや、その日の空のこと、彼女が絵を描くのが好きだったことなど、本当に当たり障りのないことばかり語っていた。己の浮気に関する話は、一切していなかった。それは、そのことをなかったことにして彼女と綺麗にやり直したいという思いからなのかもしれないし、何も思い出していない彼女にいきなり話すことではないと判断してのことかもしれない。

 病室の向こうで木が揺れている。紅霞こうかが塗り付けられた夕空を、彼は窓越しに見上げていた。


「君が描く空は青空が多かったけど、夕方の空もたまにあってさ。鉛筆で描いているだけなのにどうして時間がわかる色味を出せるんだろうっていつも思ってた」

「どうしてだろう。今の私には分からないけど、多分陰影の濃さで描き分けていたんだと思う。あまり、思い出せないわ」


 これまで無理に笑っているようだった彼女が、自然と苦笑を象る。無理矢理作った顔ではなかった。思わず落としてしまった苦笑いだった。それは彼にも伝わったらしい。瞠目の後、彼はずっと纏っていた緊張じみた強張りを、ふっと取り去った。


「いいんだよ、少しずつ思い出せば。思い出せなくたって、俺は君が好きだから」


 彼女が背にしている窓の向こう、沈んでいく夕陽が眩しい。逆光で僅か影になっている彼女の顔は、感情的に唇を震わせながら虹彩を泳がせ、やがて俯いた。


「好きって、なに言ってるの。私はあなたの知ってる私じゃないのに。あなたにとってはいきなり現れた偽物みたいなものでしょう? そんな相手をよく愛せるわね」


 陽光で煌めいた涙が零れ落ちていく。彼女の悲痛な声は叫びではなく、嘆息に似たものだったのに、こちらの心臓を突き刺すかのような鋭さを持っていた。それは、割れた硝子を素手で握りしめて、その尖端を相手に突き付けているかのような声遣いだった。

 これまで押し殺されていたのであろう感情が落涙とともに流露していく。男は悲しげな顔をしながら、彼女の背をそっと撫でた。


「愛せるよ。記憶がなくても、君は君だ。偽物なんかじゃなくて、別人なんかじゃなくて、それも本物の君なんだよ。性格が変わってるように見えても、根っこの部分は変わってない。君は俺の大好きな笑い方をするし、大好きな怒り方をするし、俺の好きな君と、同じ泣き方をするんだ」

「……なに、それ。そんなことを言って、どうせいなくなるくせに」

「え?」


 背筋が凍る。彼の動揺が分かりそうなくらい、吃驚して呼吸が止まった。知っていたのか、と誰が問いかけるまでもなく、彼女はそれを否定する。


「分からないの。なにも思い出せないのに、あなたが私の前からいなくなってしまいそうな気がするの。もしかしたらなにか思い出しているのかもしれない。ずっと傍にいてほしい人が私にはいるのに、その人はいつも私から離れていくの。他の人のところに行っちゃうの」

「……俺は、もう君から離れないよ」

「本当に? 傍にいてくれる? 好きなんて言葉が嘘じゃないって、思わせてくれる?」


 泣き出しそうな声に、彼は首肯を返した。


「絶対……絶対よ。傍にいて」


 掠れ声は嗚咽に消されていく。彼女が泣き止むまで、きっと彼は震える背を撫で続けたのだろう。太陽が沈む空は濃藍に塗られていく。画面は次第に暗くなっていく。窓の外にある色彩が、室内に重なるみたいだった。

 彼は、その日以来スーツではなく私服姿で現れるようになる。時刻も夕方に限らず、明るい時間にも訪れる。それは休日だから、ではないのだろう。私服となると日付の経過がよく分かる。何日も、何日も、彼は仕事に行っている様子がなかった。それは彼女も疑問に思ったようで、「スーツ、着ないのね」と問いかけていた。彼は「今は君といたいから休みをもらったんだ」と頬を掻いていた。

 後日彼がケーキを買ってきた。それはとてもシンプルなショートケーキだった。空がまだ青く染まっている、昼間のことだ。快晴の雲を手に取ってスポンジに載せたような、滑らかなクリームにフォークが差し込まれる。美味しく食べてくれたら良いな、と笑う彼の前で、彼女の笑みはぎこちなかった。一口大に切ったそれを舌の上にのせ、咀嚼して飲み込んだ彼女は「あのね」と呟く。


「この前、嗅覚がおかしくなってるって言われたの。匂いが分からなくて、先生に相談したら、そうだって。最近は、味が分からなくなってきたのよ。せっかく美味しそうなものを貰っても、分からないの。ごめんなさい」


 音のない中、置かれたフォークだけが乾いた金属音を鳴らす。どうにか微笑んでいた彼女が、項垂れるように、頭を下げるように、俯く。小刻みに震える肩が、痙攣した声が、彼女の情感をありありと見せていた。


「あなたがくれたものを、美味しく食べられなくて、ごめんなさい。せっかく、くれたのにごめんなさい」

「いいんだ。俺こそ、何も知らないで、ごめん。大丈夫、君は悪く思わなくて良いから。大丈夫なんだ」

「……私、少しずつ思い出してるの。あなたがいなくなるかもしれないって思った日に、匂いがわからなくなったの。味がわからなくなった日は、あなたに出会って、あなたのことを意識し始めた日のことを思い出したの。空の絵を褒めてくれた。私を肯定してくれた。そんなあなただったから好きになったのかもしれない、でも付き合った時のことは思い出せなくて、その後のこともまだ思い出せていない。絵の描き方も分からないの。全部思い出したい、思い出したいのに私……思い出したら、他の感覚もなくしていくんじゃないかって……!」


 彼はその体を掻き抱いた。彼女の服が皺を作るくらい強く。大丈夫、と何度も声を掛けられて、彼女もだんだんと落ち着いていく。言葉もなく、ただひたすら流涕していた。

 日が暮れて、夕烏が空を翔ける時刻。彼女の嗅覚と味覚をどうにか戻せないのか、彼女を助けられないのかと、彼が医者に相談していた。医者は静かに首を左右に振る。嗅覚と味覚がなくなった原因は不明。記憶を思い出すことが五感を失うことに繋がっているとも言いきれない。こんな症例は見たことがない為、どうなるかも分からなければ、どうすべきかも分からない。

 申し訳なさそうに、深々と頭を下げた医者へ、彼も頭を下げてから病院を出ていった。


「彼女が記憶を思い出せば、彼女は五感を失くしてしまうのかもしれない。その上、思い出すのはきっと浮気をしていた俺のこと。そんな、思い出したくもないであろうことを思い出して、そのうえ五感まで失ってしまうなんて、そんなの悲しいことだ」

 帰路を辿る彼の、その独白が靴音に混じる。煩悶とする横顔は、道の先を苦しげに睨んでいた。

「思い出さなくて良い、と説得をしよう。思い出して欲しくない。彼女にはこれ以上失って欲しくない」


 そんな彼の思いに反して、彼が次に訪れた時既に、彼女はいくつかの記憶を思い出したようだった。病室の扉を叩き、入室した彼の顔を、彼女が見ることはない。視線が絡むこともない。呆然と、誰もいない空間を虚ろに眺めて、疲れたように微笑んでいた。


「あなた、今、どこにいるの?」

「……ここだよ。見えないん……だね?」

「起きたら、見えなくなっていたわ」

「……なにか、思い出した?」


 彼女を労わるように、彼はその柳髪を撫でる。柔らかで、優しい手つきだった。彼女がその手に触れることはない。撫でられていることにすら、気付いていないみたいだった。声を頼りに彼の方へ向いたまま、凝然として目顔だけを綻ばせていた。


「絵のことを、色々と。私が絵を描き続けようと思って、画家になりたいと思った理由も。……あなたが毎日、私の空の絵を褒めてくれたから。毎日私の絵を、見てくれたから。私の絵と、空を見比べて微笑んでるあなたが好きだったの。だからずっと、描き続けたかったのよ。そうしていたら、ずっとあなたが、傍に居てくれるような気がしてたの」

「……ごめん。俺は……その、違うんだ。ただ、困っている人を放っておけなくて、声を掛けられたら無下には出来なくて。それで、君から離れてしまうこともあったと思う。けど、それは君から離れたかったわけじゃない。君のことが一番大切だったのは、本当なんだ」

「分かっているわ。あなたは、昔からそうだった。昔から誰にでも、優しかったから」


 抱きしめられても、彼女は動かなかった。彼に寄せられた体が微かに揺れて、柔らかな髪が肩からさらりと流れ落ちる。今や脱力しきって人形のようになった彼女の痩身と、記憶を思い出す度に感情的になっていく彼女の面貌。全てを思い出したらその顔ばせさえも固まってしまいそうだった。


「あと少し、思い出したいことがあるの。あと少しで、私が思い出したいことは全部思い出せるの。本当の私に手が届く。本当の私で、あなたと向き合えるのよ。きっと大丈夫。他の感覚が戻らなくても、あなたの声だけは、きっと、ずっと聞こえる」

「っ思い出さなくて良いから! もう、思い出さなくて良いんだ、初めからなにも、覚えてなくたってよかったんだ。君が君でいてくれるから、これまでの思い出なんてなくたって、また新しく作っていけばそれで良いんだ……!」

「でも……」

「今の君で、俺と向き合って。それ以上失くさないで。この指輪を、受け取って欲しいんだ」


 茜空の赤さが薄れていく。紺の絵の具が空に滲み出す。淡い月光が窓から差し込んで、指輪の光沢を鮮らかに際立たせる。「指輪……?」と呟いた彼女は、差し出されたそれがどこにあるのかすら分からず、柔らかな布団を撫でていた。か細いその手を取って、彼が、真っ白な指にそれを嵌めていく。


「ほら、ピッタリだよ。似合ってる」

「……ありがとう。ねぇ、どんなデザインなの?」

「月桂樹の葉を模したものだって。誓うような花言葉を持ってるって、聞いたんだ」

「月桂樹……こんな神話を知っている?」


 指輪を嵌めた手に、彼が自身の手を重ねる。その体温すら感じていないのであろう彼女は、くすりと笑って続けた。語られたのは、アポロンとダフネの、叶わない恋の話。

 アポロンの何気ない言葉に怒ったキューピッドが、恋に落ちる金の矢をアポロンに放ち、恋を拒む鉛の矢をダフネに射った。アポロンはダフネを追い続けるも、ダフネは彼を拒み続ける。やがて彼の手が逃げるダフネに届きそうになったところで、ダフネは月桂樹になってしまう。

 その話をした彼女は力無く笑った。


「私は、本当の私にこの手が届いても、月桂樹にはならないわ。だから、ちゃんとその手で私の腕を引いてくれる?」


 彼にプロポーズされると分かっていて、それを促すセリフ。彼は泣きながら頷いた。


「一生離れないことを誓うよ。俺は、死ぬまで変わらず君のことを愛し続けるから。だから……これ以上何も思い出さないで。今の君だって本当の君だ。記憶がないことを悪く思わないで。君は過去の君に手を伸ばさなくたって良いんだよ。その手は俺が引くから、だから――」

「死ぬまで、愛し続ける……それ、告白してくれた時も、同じことを言っていたよね」


 え、と息に近い声で、彼が吐き出した。彼女のぼんやりしていた顔が、嬉しそうに、夜露に濡れた笑顔を咲かせていく。

 淡い星々は暗い空の中で見えにくい。綺麗な白月だけが窓硝子の奥で輝く。窓に反射して薄らと映る室内。笑顔の彼女。呆然とする彼。カメラがぐるりと回って、室内の二人を映し出す。


「……私、思い出したわよ。全部思い出せたの。ねぇ、愛してる、って言って。本当の私を、愛してるって。傍にいて」

「……愛してる」


 声帯を酷く震わせて絞り出したような声は、それでも確かめるように、はっきりと告白を象っていた。彼女は、反応を示さない。彼もまた、唇を震わせるばかりでなにも紡がない。まるで鏡のように、二人して顔を歪ませ始めた。向き合う双眸が哀傷に染まる。月の雫を宿した眼を突き合わせ、二人は震えた吐息を漏らしていた。


「……ねぇ。なにか、言ってよ」

「愛してる……!」

「喋ってよ!」


 彼の叫びは虚しく消えていく。彼女の哀哭は彼の鼓膜を突き刺す。五感を全て失ったことを悟ったのであろう、自身の耳の辺りに軽く触れた彼女が、笑った。

 真白な頬を下った雫が月桂で光る。震えた桜色の唇は掠れ声を紡いだ。


「私、あなたがひどい浮気性だったこともちゃんと知っていたの。私は愛されてないって思ってたことも全部。なのにね、全部思い出してもやっぱりあなたが好きだったの。私だけを見てくれなくても、誰にでも優しくても、そんなあなたが好きだった。……お願い。本当に、ずっと、傍にいて……?」

「いるよ。ずっと、傍に居るから……もう、君だけを見続けるから。俺の声を、聴いてよ……」


 声は届かない。彼女はうら悲しい色差しを携えて、何かを探すように手を動かす。それに気付いた彼が、その手を取って互いの指を絡めた。何も言わず、諦めたように動かなくなった彼女を、彼が抱きしめる。彼女の顎から涙が零れ落ちる。二人の姿がぼやけ、その向こうにある窓が鮮明になる。ゆっくりと、窓を開けるかのように画面は動く。

 夜空に落とされた藍色で染まる街。絵の具で塗られたような青藍を背に、月明を受ける月桂樹の葉が舞い落ちていく。そのシーンに重なって、エンドロールが流れ始めた。

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