拒食の色3

     (二)


 明かりがゆっくりと落とされていく。照明がフェードアウトしていく様は、瞼を閉じる時と似ている。灯色をなくした劇場はどこまでも真黒で、だから少しだけ眠りたくなった。

 しかし瞑った瞳はすぐさま色彩を受ける。大きなスクリーンには上映中の禁止事項が映されていて、一通り注意を促すと再度黒い画面を映し出した。

『ラウレルの葉』

 映画のタイトルが、細く流れるような字体で浮かび上がった。大きな音量で、ピアノが劇伴を奏でる。雨上がりの後のような、或いは水やりを終えた後の、微かに濡れた葉が陽光で煌めいていた。葉脈を辿った一雫が土へと落ちていく。少し五月蝿いくらいの鳥の鳴き声が、朝であることを演出していた。

 リビングに置かれたテレビから、アナウンサーの声が無感情に流れる。テレビの前では男性がネクタイを締めており、その画に食器の音が重なった。それだけで、次いで現れたTシャツにジーンズというラフな恰好の女性が主婦なのだと、それとなしに伝わってくる。

「最近多いね」と女性が漏らしたのは、先程流れていたニュースに対する感想だ。


「ん、ああ……そうなんだ」

「この辺りでもあったらしいよ。というか私が何の話をしているのか分かっていないでしょう」

「ごめん、時間ないからさ」


 空になった食器を片付けていく女性には目もくれず、腕時計だけを正視して男性は鞄に荷物を詰めていた。


「せっかくの祝日なのに仕事なんて、その職場本当に大丈夫なの?」

「祝日でも休みにならないところなんて結構あるものだよ。社会人になればわかるさ。君は休みを楽しんで」

「楽しむ暇なんてないわよ、個展の絵を仕上げなきゃ」

「そっか。いってきます」


 行ってらっしゃい、と微笑した彼女は、画家かなにかなのだろうか。控えめに振った手を下げていく動作や、色を失くしていく外貌に思わず息を呑んだ。映画を見ているというのに、まるで目の前に役者がいると錯覚するほど、些細な変化に目を引かれた。劇伴はニュースの音声だけだが、それすら必要ないと思うくらい、彼女の所作が、涼やかな熱を帯びた独特の空気を作り出す。白く綺麗な繊指がリモコンを絡め取ってテレビの電源を切った。無音の中、彼女が男性の座っていた空席をそっとなぞる。

 指先だけの演技。微かな震えを誤魔化すように、人差し指の腹が背もたれに押し付けられた。


「例えば、私が交通事故にあったとしても、彼はきっと泣かない」


 紙を捲るような効果音の後、画面が切り替わる。卓上に置かれた紺色の手帳と鉛筆が映り、そのテーブルの奥にある台所へピントが合わせられた。


「彼は私のことなんてすぐに忘れて、遊びに行くのだと思う。祝日にも仕事があるなんて、そんな嘘を吐いてまで、会いたいひとがいるのだから」


 無感情な独白は蛇口から流れた水音を縫いながら響く。小さなバケツに似た容器を水で満たした彼女は、唇を固く引き結んだまま廊下を進んで行った。


「彼が交通事故にあってしまえば良い、とも思う。大切なものは失くしかけてから気付くと言うから。彼のことが大切なのか、どうして大切なのか、分からなくなってきているから」


 言葉尻は吐息で震えていた。それは溜息のようでもあったし、そこには呆れの類が垣間見えたが、悲しみに伏し沈んでいるようだった。独白は鼓膜に触れる程度の音で閉じられる。本を閉じる音に似ていたが、けれども書物の描写はどこにもない。

 彼女が水の入った容器を手に提げて木製の扉を開けた。その先にあった床には新聞紙が敷かれ、イーゼルやキャンバス、横長の作業机、絵の具、絵筆、石膏像などが置かれていた。部屋の端にある棚には美術史の本や神話についての本が収められている。

 美術室の一角じみた室内を見回して、彼女は「あ」と掠れた声で漏らした。


「絵の具……」


 蓋が開いたまま押し潰された状態で机上に置かれているのは絵の具だ。中身が溢れていないことから空なのだと分かる。それは一つではない。セルリアンブルー、コバルトブルー、ターコイズブルーにビリジアン。どれも容器が平らになるまで絞り出されていた。

 悄然とした室内に嘆息が溶ける。静寂は雑踏に呑み込まれた。


「例えば、彼が事故にあったとしたら。彼のことが大切かなんて分からなくても、私は結局彼に縋り付くのだと思う」


 彼女は、買い物袋を持って歩道を進んでいく。袋に書かれている店名は聞いたことがある。画材屋のものだ。

 独白は、どことなく歌のようだった。その音色があるから、音楽は不要に思える。風声と靴音、彼女の独り言だけが混ざり合っているのは、とても綺麗だった。


「それは、心の中で彼を大切だと思っているからなのか。それとも、彼しか縋る先を、知らないからだろうか」


 信号機が青に変わるのを待ちながら、彼女は横断歩道の先にある高等学校を横目で見た。ゆっくりと、瞬きをする。ページを捲るような音が、車のエンジン音を掻き消した。

 映像から眩い色味が薄れて、褪せた画面に切り変わる。セーラー服に身を包んだ少女が、一人きりの教室で呆然と立ち竦んでいた。それは、過去の彼女だろう。机の上にあるのは破かれたスケッチブック。その紙も机も、絵の具と水で濡れていた。横顔からは動揺も悲しみも気取ることは出来ない。悔しさを連れた苛立ちみたいなものだけが、強張った肩からほんのりと発露していた。

 彼女は窓にかかっている雑巾を手に取って廊下へ歩み出す。濡らしたそれを手にしたまま教室に戻ると、誰もいなかった教室には男子生徒が立っていた。それも、彼女の席をじっと見つめて。

 彼女と視線を交わした彼は、寂しそうに微笑んだ。


「これ、空を描いてたスケッチブックだよね。雨でも晴れでも、いつもその日の空を描いてた」

「……見てたの?」

「隣の席だからよく見えるんだ。よく、見てた」


 彼女は瞠若してから静かに「そう」とだけ零した。そのままスケッチブックをゴミ箱に投げ捨てて、机を雑巾で拭いていく。男子生徒はそれに手を伸ばそうとしたが、無心で机を拭く彼女を見て、その手を引っ込めた。


「君の描く空とさ、木の葉っぱ、綺麗だなって」

「授業。行かないと怒られるよ」

「俺は忘れ物をしたから教室に取りに行くって先生に言ってある」

「それでも、のんびりしてる暇はないでしょ」

「少しでも、話したかっただけだよ。君の絵は変な絵じゃないし、馬鹿にされるようなものじゃないし、絵を描いてることだって、そんな風に笑われることじゃないのにって」


 苦笑した彼は自分の席から筆記用具を引き出して、教室を後にした。その背が見えなくなるまで目で追いかけ、彼女は再び机を強く擦る。

 その後も似たようなことが何度かあったみたいだ。音声はなく映像だけで彼女と彼の関係が暫く映し出される。時には、他の少女に優しくしている彼を陰ながら眺めている彼女の姿も、何度か映されていた。

 セーラー服の彼女が目を閉じる。目を開いたのは、買い物袋を片手に、信号が変わるのを待っていた彼女だ。青に変わった信号を見つめて、彼女が華奢な足を踏み出した。横断歩道を渡る背中。音もなく横切った車に、思わず息を呑む。

 再び、ページが捲られるような、葉がひらりと舞い落ちるような音がひとつ、高らかに響いた。

 その一音を皮切りに街が声を取り戻す。狼狽する人の悲鳴。慌てて救急車を呼ぶ人の姿。車や人の陰に隠れた彼女の姿は、見受けられない。視点がゆっくりと、混乱を映すように左から右へと動いていく。その中で遠目に映った買い物袋を、細めた瞳で捉えた。

 彼女が買ったばかりの絵の具は道路を青く塗らして、あのアトリエの絵の具の如く、平らに潰れていた。

 サイレンが殷々と鳴り響き、暗くなる画面とともに、しん、と掻い澄んでいく。

 病室の時計が茜色に染まっていた。窓硝子の向こうから響いてくる夕轟きが、フェードアウトしていく。秒針だけが静かに時を刻み始める。眠る彼女の傍らでは、スーツを着崩した男が椅子に腰かけて、紺色の手帳を開いたまま項垂れていた。手帳には鉛筆で描かれた空模様と数行の言葉が、綺麗な筆遣いで記されていた。それは、絵日記のようだった。


「意識は、戻ったの?」


 廊下から響いた声に、男が顔を上げる。病室に入ってきていた中年の女性を見るなり、「すみません」と彼が呟いた。


「一回、起きたんです。その時に、彼女、俺のこと見てもきょとんとしてて。それから先生に、記憶がなくなってるらしいって聞かされて。なにか、思い出してくれそうなものがないかって。彼女が日記を付けていたことを思い出して慌てて家に戻って、持ってきたら、眠ってたんです」

「そう……」

「起きるまで待ってようって、日記、勝手に読んで。俺、これを彼女に読ませたくないなって、思っちゃいました。ごめんなさい、お義母さん。俺、思い出して欲しいのに、俺の駄目な所は全部忘れてて欲しくて、どうしたら良いか分からなくて」


 女性は、眠っている彼女の母なのだろう。男は義母にひたすら涙を見せる。義母はひたすら、泣き出しそうなのを堪えていた。年相応に浮かぶ目元の皺が、涕泣してしまいそうなほど震えていた。


「無理に思い出させなくて良いの。大切なことは、きっと自然に思い出していくから。大丈夫、きっと思い出してくれるから。あなたは、傍にいてあげて」

「……はい」


 義母は静かに病室を後にした。男は袖で目元を拭う。鼻を啜る音が反響していた。赤らんだ双眸がゆっくりと恋人の姿を認める。眠っていた彼女が、虚ろな眼をおもむろに開いていた。


「……起きた、のか」

「…………あなた、さっきの」

「そうだよ。君の恋人だ」

「……そう」


 まるで、まだ夢の中にいるみたいな顔をして、彼女は素っ気なく呟く。声を出す気力すらないみたいだった。言葉は全て、独り言のように吐息で包まれている。


「信じてくれ、本当に、君と俺は付き合っていたんだ」

「……ごめんなさい」


 譫言に似た謝罪を零すと、彼女はまた睫毛を伏せてしまった。多分、眠いわけではないのだと思う。窓の方に頭を傾けて目を閉じた彼女は、彼から目を逸らしたがっているように見える。知らない人間が恋人を自称していることが怖いのか、それとも恋人のことを忘れてしまった現状に不安を抱いているのか。少なくとも、彼女が暗然としているのは確かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る