拒食の色2
「ご、ごめん志弦、待たせる気はなかったの」
「大丈夫だよ。そんなに待ってないし、急がなくても良かったのに」
「急がないとダメでしょ! 映画、見る予定の時間のが見れなくなっちゃう!」
「え、でもまだ一時間くらいあるよね?」
「それは朝ご飯をゆっくり食べる為の時間よ!」
周りなど気にせず、遠慮なく声を上げている彼女に少しだけ感嘆した。学校内では周りを気にして、周りによく見られるよう演じていた彼女が、そのままの自分を一切隠すことなく見せている。それが微笑ましく、羨ましい。
「朝食、食べてきたのかと思った」と笑いかけてから、手にしていた携帯電話をショルダーバッグに仕舞い込んだ。聖は
「一人で食べるより、志弦と話しながら食べた方が楽しいに決まってるじゃない」
「僕は食べないけどね」
「分かってるわよ。隣で話に付き合ってくれればそれで良いの」
駅から出て少し進み、彼女が腰を下ろしたのは公園のベンチだ。お洒落な鞄からコンビニのビニール袋を取り出し、そこからおにぎりを一つ手にした聖を見て、正面を見つめる。サッカーをしている子供や、ベンチで会話をしている老夫婦、犬の散歩をしている女性。
再度聖に向き直り、くす、と笑ってしまった。
「喫茶店とかじゃないんだね?」
「喫茶店は映画の後に行くわよ?」
「何回行っても良いんじゃない?」
「映画見るのよ⁉ その上喫茶店に何回もなんて、お金なくなるじゃない⁉」
勢いよく詰め寄られて目を丸めた。彼女はお金持ちのお嬢様として振る舞っていたけれど、こうしていると毎月の小遣いを大事に使っている学生のようだ。
「奢ろうか? 僕は使わないし」
「いい。いつか使う時来るでしょ、とっておきなさいよ、勿体ない」
尖らせた唇におにぎりを押し付けた彼女は、そのまま一口だけかじった。咀嚼している横顔で、静かに上下した睫毛は昨日よりも短い。そこでふと、化粧っ気があまりないことに気付いて、それでも小動物みたく可愛らしい相貌に口端を綻ばせた。
「今日、ホントに化粧薄めだね。そのくらいが良いと思う」
「あ、ありがと。志弦は、そういうカッコ似合うわね」
「……そうかな? ありがとう」
咄嗟に、それでいて自然に、彼女から顔を逸らした。馬鹿みたいに口角が上がってしまう。それが照れくさくて、誤魔化すように俯く。自分の好きな格好をして、それを褒めてもらえたことが、思った以上に嬉しかったみたいだ。
「志弦、今日見る映画の原作の小説、読んだことある?」
「いや、読んだことないよ。どんな話かも分かってないけど、楽しめればそれで良いかな。聖は読んだの?」
「私も読んだことない。なんか話題になってたから見てみたいだけ。ま、きっと楽しめるわよ」
昨日下校時に、聖が観たいと言っていたのは『ラウレルの葉』という邦画だ。あまりテレビやニュースを見ない僕でも、題名を聞いたことがある。確か、学校でも話題になっていた、気がする。多分クラスメートがそんな話をしていた。きっと聖のクラスでも会話に出ていたのだろう。
「それにしても、聖が小説読んでるイメージあんまりないな」
「昔は好きだったけど、真面目ぶってるってバカにされるから読まなくなっちゃった。志弦は小説好きそう。結構読む?」
「僕も昔はよく読んでいたかな……」
「おすすめは?」
「えっ、なんだろう。あ、教科書にも載ってるけど、葉桜と魔笛は好きだよ。あとはKの昇天とか文章が綺麗で好きだな……」
「へぇ……今度読んでみよ」
聖は携帯電話を取り出して、僕から聞いたタイトルを書きとめ始めた。好きな本の話なんて適当に聞き流されるものだと思っていたため、彼女の行動に両目を丸める。驚いたのと同時に、なんだか頬が緩んで嬉笑していた。
聖は食べ終えたおにぎりのゴミを袋に入れていく。持ち手を縛った彼女は、それを近くにあったゴミ箱に捨てた。
「さ、映画館に行きましょ!」
「そうだね。席埋まってなければ良いけど」
「大丈夫、話題になってたの割と前のことだから。彩夏が、主演の人カッコいいから聖も早く見ろーってずっと言ってたの。公開が終わる前に来れて良かった」
公園から駅前の通りに戻り、聖と並んで歩く。相槌を打つように頷きを返したら、唸り声が隣から漏らされた。どうしたのかと彼女を見遣れば、下唇で上唇を押し上げて、心底不満そうな面様をしていた。
「……別に私、彩夏達に未練なんか、ないから」
「未練があっても良いと思うけどね?」
「私は良くないの。ダサいから。私はなくなったものにしがみつくほど弱くない」
「ふうん……? でも、当たり前のようにあったものがなくなったら、それが良いものでも悪いものでも、なんか虚しさみたいなのが残るよね。そういうのって、強い人でも弱い人でも、誰にでもあることだと思う」
だから、ダサくなんかない。そう返そうとした言葉は呑み込んだ。僕が聖の立場だったら、確かに自分を情けなく思うかもしれないから。こういうのは、他人のことだから紡げる綺麗事だ。
目の前を横切った子供に息を飲み、咄嗟に足を止めた。兄妹だろうか、クレープ屋に走って行く女の子を、少年が困ったように追いかけていく。よくある光景だけれど、少しだけ、懐かしさを覚えた。自分の過去の中にも、あの姿があったように感じる。けれどそれは、錯覚だったかもしれない。回顧してみたものの、そういった記憶は欠片すら見つからなかった。
「志弦?」
「……ああ、クレープ美味しそうだなって思って」
「……映画館のポップコーンで我慢して」
「大丈夫、僕は食べられないからポップコーンも一人分を買って」
聖が気にしているのはやはり値段だろう。数メートル先にあるクレープ屋のメニューに目を凝らしてみると、安くても五百円くらいだ。映画館のポップコーンは、小さいサイズならもう少し安かった気がする。あまり行かないから、うろ覚えだけれど。
映画館に行ったのはいつが最後だったか思い出そうとして、微かに頭が痛んだ。
赤信号を前にして立ち止まると、横断歩道の先に見覚えのある映画館を見つけられた。よく考えたら、僕が色野志弦になってからは映画館なんて行ったことがない。それでも見覚えがあると感じるのは、この体が覚えているからなのか。
余計なことばかり考えて唇を引き結ぶ。聖が隣にいることを想起して、柔らかに微笑んだ。
「ポップコーン、聖は何味が好き?」
「志弦は? 食べられた時は何味が好きだった? せーので言おうよ」
「なんで、せーので言うの?」
「お、同じ言葉被ったらなんか嬉しいじゃない! 同じになるとは限らないけど!」
僕が笑うと、聖は恥ずかしくなってきたのか顔を赤らめていく。青に変わった信号の赤色を、彼女が奪ったみたいだった。靴音を雑踏に溶かしつつ、僕は「じゃあやろうか、せーの」と声を掛けると、まさかやるとは思っていなかったらしい聖が戸惑い出した。彼女の唇の動きに合わせて、回答する。
「キャラメル」
言葉は、見事に重なった。まるで用意されていた台詞のようだ。通行人の声や車のエンジン音、そういった雑音をも掻き消してしまえそうなほど、僕達の音は綺麗に響いていた。
顔を合わせあって、数刻沈黙する。気抜けしたような顔付きにどんどん色を灯し始めたのは、聖が先だった。彼女はとても嬉しそうに破顔した。
「やった! ほら、被ったら嬉しいでしょ! なんか楽しくない⁉」
「ははっ、そうだね」
晴れの日に干した後のシーツみたいな、ほんのりとした温かさを広げる感情は自然と口元を撓ませる。確かに、好みが同じというのも嬉しい。けれどもそれ以上に、こんな些細なことでも喜色を湛えてくれていることが嬉しかった。
スキップをし始めそうなくらい、聖の足取りは跳ねている。踊るように歩みを進める彼女を横目で眺めながら、映画館の硝子戸を潜った。
休日の映画館はそれなりに混んでいる。カウンターの上方には大きなモニターが取り付けられており、上映中の映画の宣伝が映されていた。それを見ながら昼食をとる人達、パンフレットを眺めている女子高生、ポップコーンと飲み物を持って歩いていくカップル。見回す景色からどの部分を切り抜いて静止画にしても、どこの写真か分かるくらいに、どれも映画館特有の光景だと思う。
チケットを買うためにカウンターへ向かおうとしたら聖に腕を引かれた。
「こっち」
「え、店員さんの所じゃないんだ?」
「映画館あんまり来ない? 機械でやるのよ」
桃色のマニキュアが聖の指先で光る。慣れた手つきで画面を操作してチケットを取った彼女に、僕は代金を差し出した。
前に来た時はカウンターへ行って、何時に上映のなんという映画を見る、と店員に話した気がする。といっても、僕はチケットを取ってくれている彼を隣で眺めていただけ――。
彼、と胸の内で呟いた。彼、とは誰のことだろう。映画館には、誰と共に訪れたのだろう。両親と行った、と思い込んでいた僕は、暫く固まってしまっていた。
眼裏に残っていた記憶の残滓が、瞬きをした拍子に零れ落ちていった。今となっては思い出せない。凝然としていたら、「ちょっと?」と意識を引き戻される。
「何ぼうっとしてるの? 時間まで適当に座ろ」
「あぁ、ごめん。座るなら、あそこ空いてるよ」
手の平を出してみた。未だ忘れた記憶に心の焦点が当てられているのか、空席を示すだけの動作さえ、ぎこちないように感じた。
そちらへ歩いていく聖から目を伏せて、眉間を押さえる。今は聖といることを楽しみたい。奥歯を噛み締めた僕は、唾と共に煩慮を飲み下した。
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