第二章

拒食の色1

 先立つ不孝をお許しください。

 何から書き記せば良いのか分からず、そう書き出してみましたが、この前口上は不要だったかもしれません。許さなくて良いのです。いいえ、許さないでください。

 両親に恨みはありませんし、私はきちんと孝行をしていくべきだったのでしょう。こんな私のことを、いえ、僕のことを受け入れて、優しくしてくれた両親には、どれほど感謝の言葉を伝えても伝え足りません。自惚れかもしれませんが、そこには親としての責任しかなかったのかもしれませんが、僕を愛してくれてありがとう。

 けれど僕はどうしても、恩を返すことが出来なくても、それ以上に復讐をしたかったのです。もしこの手紙を読んでいるのが両親なら、察しがつきますよね。もし、この手紙を読んでいるのが家族でなくても、どうか最後まで、僕の呪詛を聞き届けてください。

 生者の声は届かないのでしょう。死者とならねば誰も僕の叫びなど聞かないのでしょう。命を捨ててでも、僕はこの胸に巣食った憎しみを、苦しみを、痛みを、多くの人に届かせたかったのです。そして、『彼』が許されないことをしたのだと、『彼』は犯罪者として扱われるべきなのだと、世間に糾弾してもらいたかった。どうすれば僕の言葉が周囲に認められ、『彼』に贖ってもらえるのか、考えた結果、僕にはあの日あの場所で、この身を捨てるという結末しか案出できませんでした。

 生きて、生きたまま大きな声を上げられたのなら、その方が良かったとは思います。けれどもこの喉は、とうに枯れていました。きっと、『彼』に裏切られた時から枯れていたのです。

 そういえばその日から、もうじき二度目の冬が訪れますね。細雪ささめゆきを見るよりずっと早く、紅葉こうようが褪せてしまうよりも一足先に、どうにか僕は暗色の幕を下ろせました。だから、緞帳の閉じた舞台に地明かりを灯して、そこにある事実を見つめてください。僕はもう道化ではありません。これから書き留めるものは戯曲でも、戯言でもありません。

 葉が落ちて、空から真っ白な玉屑ぎょくせつが零れる頃になると、僕はどうしてもこの体を掻き刻んでしまい、『彼』のことを思い出してしまうのです。それはあの日も、不香の花が蕭々しょうしょうと舞っていたからでした。

 …………。

 ……。


     *


 甲高い金属音が幽かに、延々と鳴り響いているような無音の中、見つめるのは暗闇だ。眺望して見えてくるのは黒一色の壁だけ、或いは虹色の幾何学模様かもしれない。明滅するいくつもの色が混ざり合い、黒を作り出しているようにも思えた。

 瞼の裏をいくら凝視しても、そこにはなにもない。けれど、僕は人影を求めた。ねぇ、と呼び掛けても、自分の頭の中にその声が反芻して消えていく。呼応する者はいなかった。それでも、声を上げ続ける。この暗幕のどこかに『彼女』がいるのだと信じ、声が届くことを願って、何度も叫んだ。

 僕はいつまで表に出ていれば良い? 僕はあとどれくらい君を待ち続ければ良い?

 返事は聞こえない。幽寂とした闇には耳鳴りじみた無音だけが冷たく響いていて、ひたすらに僕の鼓膜を刺していた。

 観念して睫毛をほどいたら、視界に映るのは見慣れた天井だ。僕の――いや、正確には色野志弦かのじょの部屋。上半身を起こし、ベッドに隣接して置かれている小棚の上へ手を伸ばした。携帯電話を手繰り寄せて時刻を確認する。と同時に、届いているメッセージが目に付いて、寝ぼけ眼を僅かに開いた。

 差出人は式野聖。今日は、彼女と遊ぶ日だ。『おはよう。覚えてると思うけど待ち合わせは十時だから、遅れずに来なさいよ』という文面に笑みが溢れる。友達になろう、と昨日掛けられた言葉も思い起こして、一人で笑っていた。嬉しくて堪らないのだ、僕に友達が出来たことが。だがそれと同時に罪悪感も抱いてしまう。聖に対しても、『彼女』に対しても。

 部屋の電気を点け、クローゼットから重ね着風のTシャツを手に取り、それから紺のカーディガンを引っ張り出す。それらはどれも男性物だ。寝巻きのパーカーを脱ぎ捨てたのち、取り出したものを身に纏い、ベージュのズボンへ足を通す。脱いだ衣服を畳んでから姿見と向かい合った。

 男性物を着たところで女性的な体型は隠せない。シャツの首元に指を引っかけ、眉を顰めた。やはり自分好みの服を着たとしても、この身体は僕のものではないから納得のいく姿にはなれない。そんなことはもうずっと分かっている。せめてこの胸さえなければと考えてから首を左右に振った。

 長い髪も切ってしまいたいし、この体の肉だって削ぎ落としてしまいたい。女に見えるものは全て切り捨ててしまいたい。けれどそれは、僕がこの身体の持ち主だったなら、の話だ。

 僕は、眠り続ける色野志弦の代わりを務めているだけに過ぎない。静かに日々を送り、日常に大きな変化をもたらすことなく、『彼女』の目覚めを待つだけ。そうすることが僕の役目なのだと思っていた。

 それなのに、どうせいつかこの意識が消えるなら、せめて今を楽しもうと思い始めてしまっている。いずれいなくなる僕が聖と友達になり関係を深めることは、聖にも、『彼女』にも、良い影響は与えないと分かっているのに。


「……ごめんね」


 この呟きさえも、眠っている『彼女』には届かないのだろう。

 黒いショルダーバッグに必要なものを詰めて肩にかける。木製の薄い扉を押し開け、廊下をそっと踏み付けた。自室の外に出るその一瞬、自分の部屋から一歩も出られない時期もあったな、なんてさらりと思い起こす。深く考えはしない。考え始めると、それが僕の記憶であるのか、それとも『彼女』の記憶であるのか、分からなくなって混乱してしまうから。

 一階へ下りてリビングへ顔を覗かせたら、母と目が合う。父の朝食を用意しているのであろう彼女は、テーブルに皿を置いてから僕の方に近付いた。


「どこか行くの? 朝ご飯は?」

「友達と遊びに行ってくる。ご飯は外で食べるから良いよ」


 適当な虚言を紡いで食事を避けるのは何度目になるのだろうか。食べられないことを知られれば病院に連れて行かれると思っていた。連れて行かれてしまえば、僕が『彼女』ではないことも知られて、どこかに異常があると思われてしまうのではないか、という恐れから本当のことは何も話せなかった。

 母が目を見張り、それから嬉しそうな顔をしたのは、きっと友達という単語に対してだ。休日に外出をすることは滅多にないし、友達と遊びに行くことも、僕が代役を始めてからは初めてかもしれない。

 それじゃ、と片手を軽く持ち上げて去ろうとした僕に、母は話を続ける。


「お友達、どんな子なの?」

「うーん、明るくて可愛い子かな」

「そう……。楽しんで来てね」

「ありがとう。行ってきます」


 行ってらっしゃい、を背中で受け止めて、僕は玄関で靴を履き、外へ出た。陽の光が酷く眩しい。瞳孔を刺し貫くこの光芒も、『彼女』を照らすことはない。

 軽く睫毛を伏せ、家の敷地内から出て行く。思えば、この家に越してきたのは僕が色野志弦として目を覚ましてからだ。『彼女』は何に侵されることもない平和な家庭を、知らないまま眠り続けている。

 君を脅かすものはもうないのだから、安心して目を開けて欲しい。

 語りかけてから脳髄が軋む。脅かすもの、とはなんだったか。今の僕には、思い出せそうになかった。


     (一)


 朝十時は大抵の店が開く時間だから、午前だと言うのに駅構内は人が多い。遊びに出掛けることも、誰かと待ち合わせをすることも滅多にないため、この空気感に気まずさのような居心地の悪さを覚える。手元の携帯電話だけを見つめ、顔を伏せて、出来るだけ周りを意識しないようにする。

 改札前の人通りが更に多くなり、電車が来たのだと察した。この人混みの中に聖はいるだろうかと顔を上げたら、通行人の男性と目が合ったような気がして、黒目の向く先を即座に足元へ落とす。

 胃の中は空っぽだと言うのに、吐き気が喉頸まで込み上げてくる。自分が今、何に不快感を覚え、何に対して不安を抱いているのかは、分からない。ただ、目の前を通り過ぎていく人間が、僕をおかしいと思っているのではなんて、わけのわからない被害妄想が肺腑を満たしていた。

 人に見られるのは嫌いだ。自分らしい姿を晒すのも、本当は苦手だ。けれど僕は僕らしくいたいし、好きな服を着て、好きな格好をして、好きな顔を浮かべたい。それを笑う人間などどうでも良いとも思う。だが奇異の視線は研がれた刃物のように鋭くて、僕の真情を簡単に切り潰してしまいそうだった。

 やはり女物の服を着てくるべきだったか。半ば後悔しながら、温度のない眼で自身の格好を見下ろした。

 暗然と思議していれば握った携帯電話が振動する。画面には、聖からのメッセージが表示されていた。


『電車に乗り遅れたから十分過ぎに着く、ごめん』


 それを見て、緩んでしまった口元を片手でそっと覆った。文面がおかしかったわけでも、遅刻をしてしまう聖を笑ったわけでもない。

 僕には友達がいること。僕は色野志弦ではないこと。それらを思い出して、深呼吸出来るほどに安堵したのだ。

 おかしいと思われるなんて、当たり前のことだ。僕は『彼女』ではないのだから、おかしいに決まっている。

 分かりきっているはずのことが、喧騒で分からなくなっていた。雑踏が、僕を刺しているように感じていた。苦笑で双眸を弓なりにたわませてから、軽く瞼を伏せる。

 ほんの少し落ち着いたおかげか、五感がどうでも良い情報に触れていく。改札前に漂っている、焼き立てのパンの香り。つられるようにパン屋に近付いていく、快活そうな二人組の少女。通り過ぎていく人々は、これからどこに行くかを楽しそうに話していた。どれも僕とは関係のないことだ。しかし、こういうのが友達なのかと眺めていたら、聖と会うのが楽しみになってくる。

 緊張で口内に滲んでいた唾液は、飲み込んでみると微かに酸っぱくて、本当に嘔吐してしまいそうだったことを知らせてきた。僕の顔色が悪かったらきっと聖を心配させてしまう。笑顔の練習でもしておこうか、とふざけたことを考えながら、携帯電話の画面を鏡代わりにしていたら、振動した黒い画面がメッセージの通知を映し出した。思わぬタイミングで触覚が刺激されて肩を跳ねさせ、顔に近付けすぎていた電話を遠ざけた。

『着いた!』という文字の後に、得意げに笑っているような顔文字が打たれていて可愛らしい。待っているよ、と一言打ち込んで送信しようとしたが、送るよりも先に慌てたような靴音が正面から響いてきていた。顔を上げると、私服姿の聖が、踵の高いパンプスで転びそうになりながらもどうにか立ち止まっていた。

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