天の仔馬(5)


          5


「父さん、危ない。狼だ!」


 ラディースレンは叫んだ。しかし、父は松明を掲げ、無言で辺りを見回しただけだった。その横顔も黒馬ジュベも、平静だ。

 少年は、恐る恐る振り向いた。


 炎の投げかける光の環は、彼等の周囲の闇を数馬身の距離でおしとどめていた。馬たちの影が草葉の上で揺れている。紫の闇の向こうから今にも狼たちが躍り出てくるのではないかと、ラディースレンは気が気でなかったが、何も起こらなかった。

 リーリーリーと、虫が小さく鳴いている。のどかな羊の鳴き声も聞こえた。


「あ……あれ?」


 無表情な父と目が会い、少年は、頬がカッと熱くなるのを感じた。


「気のせいだったのかな……」


 しかし、これにもトグルは答えず、黒馬ジュベから降りて草の中を歩き始めた。左手に持った灯を揺らし、足元を照らす。時折、革靴グトゥルで草を踏み分ける仕草を、ラディースレンは茫と眺めた。

 トグルが立ち止まって手招きしたので、少年は父の傍に駆け寄った。トグルは地面に片方の膝をついて身をかがめ、炎を下げて、地面に残る浅い窪みを照らした。


 四条の爪跡が、くっきり残っていた。


 ラディースレンは、背中の毛が逆立つのを感じた。


「一頭だけのようだな。逃げたか……」


 落ち着いた父の声に、ラディースレンは、ほうっと息を吐いた。


「良かった。見えなかったから、何十頭も追いかけて来ているんじゃないかと思った」


 トグルは冷静なまなざしを息子の顔に当て、黙って立ち上がった。その時になって初めて、ラディースレンは、父が抜き身の剣を片手に提げていることに気がついた。

 剣を鞘に収め、トグルは息子を促した。


「戻ろう。あと少しだ」



 それから暫くの間、父子は黙って歩いた。

 ラディースレンが狼に襲われなかったのは幸運だったが、トグルが群れを離れなければならなかったのは、良いことではない。『大丈夫』と言っておきながら助けを呼んだことを、少年は恥ずかしく、申し訳なく感じていた。

 葦毛ボルテも項垂れている。

 だから。行く手に何事もなく佇む馬群と、静かに燃える炎を見つけ、


「笛を鳴らしたのは、良い考えだった。あれで、お前の居場所が分かった」


 と、父が言ってくれたとき、ラディースレンは心の底からほっとした。


「ワシに、感謝しなければならないな」


 まったくだった。握り締めた手の中の硬い角の感触に、少年は感謝した。

 天幕に戻ったトグルは、息子に火の番を言いつけると、群れの確認に向かった。左手に新しい松明を持ち、羊と馬の様子をみて廻る。ゆっくりと落ち着いた足取りで歩く父の姿を、ラディースレンは見守った。

 戻ったトグルは、簡潔に言った。


「大丈夫だ。そろっている」


 ラディースレンは、知らず知らずのうちに入っていた肩の力を抜いた。


 親子は、天幕の側に黒馬ジュベ葦毛ボルテを繋いだ。ブチの仔馬は、二頭の間でくつろいでいる。乳茶スーチーを飲み、茹でたタルバガン(地リス)の肉を食べると、少年は、どんなに自分の体が冷え切っていたのかが分かった。


 満腹になったラディースレンは、天幕の中で毛皮にくるまり横になったが、トグルは焚き火の側を離れようとはしなかった。

 少年は、足元に剣を置いて煙管を吹かす父の精悍な横顔を、じっと見詰めた。

 トグルは、息子が目を大きく開けてこちらを見上げているのに気づくと、ぼそりと言った。


「寝なさい。まだ、近くにいるかもしれない」

「父さん」


 言い忘れていたのだ。ラディースレンは、おずおずと囁いた。


「その……心配かけて、ごめんなさい。ありがとう」


 トグルは無言で腕を伸ばし、息子の毛皮の帽子の上に片手を乗せた。耳を覆うまでかぶり直させてから、焚き火へ視線を戻す。

 ラディースレンは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 ややあって、トグルが言った。


「ラディー」


 炎の向こう側の羊の群れを眺めながら、淡々と続けた。


「先刻、『見えなかった』と言ったが――」


 ラディースレンは瞬きを繰り返した。その仕草をちらりと見て、トグルは訊ねた。


「見えなかったのか、見ようとすることが出来なかったのか。どちらだ……?」


 少年は碧眼をみひらいた。咄嗟に父の言葉を理解できない。鮮やかな緑柱石ベリルの瞳の表面で、炎が揺れている。

 ラディースレンが答えられないでいると、突然、トグルは砂を蹴りかけて、火を消してしまった。

 煤と火の粉が舞い上がり、辺りが闇に包まれる。焦げた匂いが漂った。


「あ……」

「いいから。……見ていなさい」


 囁いて、トグルは夜に向き直った。

 ラディースレンは口を閉じた。


 沈黙のなか、小さかった虫の声が、徐々に大きく聞こえ始めた。羊たちが身じろぐ気配、馬の吐息。枯れた草の匂い、それを撫でる風の囁き……近くで、遠くで、歌うふくろうの声。

 そして

 いつしか、ラディースレンの目の前に、父の姿が浮かび上がった。淡い藍の光に包まれている。その向こうに

 少年は息を呑んだ。


 父と自分を見下ろす無数の星に気づいたのだ。漆黒の闇の中、音もなく、数え切れない銀の光が瞬いている。

 ふいに、硬い大地の感触が消え、虚空に放り出されたような気持ちがして、ラディースレンは奥歯を噛みしめた。


 父の声が、深く響いた。


テングリが我らの上にあり、大地が足の下にある限り、この世に真の闇などというものはない」

「…………」

「星をれば、方角と時間が分かる。どこにいても、己の居る場所を教えてくれる」


 ラディースレンは、ごくりと唾を飲みこんだ。父は単に夜空のことを言っているのではないと、察したのだ。

 先刻感じた孤独は幻に過ぎず、確かな存在に囲まれていると理解した。

 トグルは息子をみて続けた。


「星が視えない時は、火を熾すのだ。闇を恐れる前に、灯を点す方法を考えろ。その為の手足を、お前は持っている」


 ラディースレンは天を仰いだ。胸の奥で、父の声が反響する。


 テングリが我らの上にある限り、真の闇などというものはない。

 闇を恐れる前に、灯を点せ――



 再び、トグルは火を熾した。緋色の炎が、瞬く間に闇を追い払った。


「父さん」


 ラディースレンは炎の熱を頬に感じ、毛皮を引き寄せながら、親愛をこめて呼んだ。


「あのアラガ(ブチ)、貰ってもいい?」


 トグルの神矢ジュベは、特別な馬だ。駿馬であるため、子孫に同じ名をつけて乗用としている。ラディースレンには、まだそういう馬がいなかった。

 トグルは、かすかに微笑んだ。


「名付けろ。そうすれば、お前のものだ」

「やった! ありがとう。何て名前にしようかな」


『アラガじゃありきたりだ。神矢ジュベみたいに、格好いい名前がいいな……』などと思案する息子を、トグルは微笑んで見守っていた。



          *



 翌日も、よい天気だった。

 夜明け前に降りた露は、まだ霜に変わってはいない。天幕から出たラディースレンは、しっとり濡れた草を踏みしめ、思い切り伸びをした。

 トグルは焚き火の傍で煙草を吸っていた。


「おはよう、父さん。狼は?」

「来なかった」

「そう、良かった。……うわあ!」


 父が淹れてくれた乳茶スーチーを口に運んでいた少年は、背後から髪を引っ張られて仰け反った。

 昨日の仔馬が、黒い耳をつんと立て、ふさりと尾を振って少年を見詰めた。

 ラディースレンは声をあげて笑った。


「危ないなあ、お前」

「名前は決まったのか?」


 トグルが煙管を咥えた唇の端をゆがめ、焚き火を踏み消しながら問う。ラディースレンは仔馬の頭を抱え、たてがみの生え際を掻いてやりながら首を振った。


「ううん、まだ。オトルの間に、じっくり考えて決めることにしたんだ。いいでしょ? 父さん」

「好きにしろ」

「きっと、こいつが自分から、自分の名前はこうだって教えてくれるよ。……あ、こら。待て!」


 帽子を仔馬に取られて駆け出す息子を、トグルは見送った。目覚めたばかりの羊たちの間を、仔馬はぴょんぴょん跳ねまわり、少年は長い髪をなびかせて追いかける。黒馬ジュベ葦毛ボルテは、その様子を不思議そうに眺めていた。



 トグルは、愛馬の鼻を撫でて考えた。

『いつまでも、一緒にいることは出来ない……』

 自分も、神矢ジュベも、隼も……。特に自分は、一度死んだはずの人間だ。

 テングリに借りたものは、全て、天に返さなければならない。

 しかし。

 己の掌を見詰め、トグルは思った。『今は、ここにいる』


 なかったはずの時間で、逢えなかったはずの相手に逢うことが出来た。否、本当はそれ以前から、どの出会いも別れも奇蹟の連続だった。

 これ以上、何を望む?


 ――不思議なほど、死に対する恐怖は、彼の内に存在していなかった。ただそれは位相を換えるだけだと、理解しているからかもしれない。

 願わくば、残る者の悲しみが、深くないことを……。



「ラディー」


 トグルはいっとき眼を閉じて祈ると、神矢ジュベの背に鞍を乗せ、息子に声をかけた。ラディースレンは仔馬を捕まえて笑っている。碧の瞳の表面で、日の光が煌いた。


「行くぞ」

はいラー!」

 草原に、澄んだ風が流れた。






『飛鳥』外伝:天の仔馬

    完


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天の仔馬 ―『飛鳥』外伝(後日談) 石燈 梓 @Azurite-mysticvalley

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