天の仔馬(4)
4
『俺も、トグルとラディーと一緒に行けば良かったかなあ』
その頃、鷲は、女達に圧倒されていた。
長い冬の間に絨毯を織るのは、女達の仕事の一つだ。紡いだ羊の毛を上手く染められず、泣き出しそうになっていた鷹は、タオと隼を迎えて大喜びだった。染料の作り方から染め方までタオに教えてもらい、ほっとしていた。
鳶はしぶしぶ母を手伝っていたが、リー・ヴィニガ姫がやって来た途端、歓声をあげた。後はもう、
挙句の果て、
「ちょっとお前、邪魔だから外に出てろ」
などと隼に言われ、草原に坐って空を仰ぎ、嘆息する羽目になった。
鷲も馬と羊を飼ってはいるが、オトルをしなければならない頭数ではない。本来遊牧民でない彼等は、トグル達の厚意に甘え、定住させて貰っているのだ。それに、多忙なトグルとラディースレンの、せっかくの父子の時間を邪魔するのは、野暮な気がした。
こんなことなら遠慮をするのではなかったと、ちょっぴり後悔した。
鷲は、持ち出した道具袋から木切れとのみを取り出した。矢筒や
トグリーニ部族の守護獣・
「鷲さん」
鷹だった。逆光に目を細める鷲の前に、巻いた紙が差し出された。
「留守の間に、手紙が来たの。オダからよ」
「あいつ――」
鷲は胡坐を組んだ膝に
「まどろっこしい奴だな。直接、トグルに送ればいいのに」
「恥ずかしがってるのよ」
鷹は、にっこり微笑んだ。
オダと鳩の間には、五年前と三年前に子どもが産まれていた(鳩に似て、黒髪の男児たちだ)。ニーナイ国と諸国を結ぶ外交官のオダは、時折、鷲に近況を報せて来る。
オダが隼に――鳩がトグルに憧れていたことは、周知の事実だ。今でもそれは変わらないらしく、個人的なことを報せるのは、どうにも気恥ずかしいらしい。
ニーナイ国の文字を読むのは、鷹の方が得意だ。鷲は、手にした紙の筒を眺めながら妻の話を聞いた。
「無事に産まれたわ。今度は女の子よ。今、ナカツイ王国にいるって」
「へえ」
「ファルスに逢ったそうよ」
鷲は顔をあげ、一瞬、眼を細めた。黄金の翳が瞳に差す。低い声が、懐かし気にかすれた。
「……元気か」
「ええ。シジンも」
「そうか」
見えるわけではないのだが、鷲は、南に視線を向けた。
王制国家のナカツイ王国では、近年、民主化の動きが盛んになっている。ニーナイ国とミナスティア国の影響を受け、憲法を制定することにした国王が、ファルスを招いたのだ。
褐色の肌に空色の瞳、緋色の髪。痩せて身も心も傷だらけだった少年を、鷲は想い出した。憎しみと嘆きに
感慨深げな鷲の横顔に、鷹はそっと囁いた。
「鷲さんに、『ありがとう』って」
「よせやい」
鷲は、苦笑いして首を横に振った。
「あの時、あいつに助けられたのは俺の方だ。礼を言われる筋合いはねえよ」
「…………」
「それより、」
悪戯っぽく片目を閉じ、鷹を見上げた。
「――会いに行くか? 今度こそ」
「ううん、いいの」
くすりと哂って、鷹は踵を返した。
「わたしが行っても、シジンの邪魔になるだけだわ。オダに、よろしく伝えてって返事しておくわ」
「そうか」
「……鷲さん」
ユルテへ帰りかけた鷹は、足を止めた。木彫りを再開した鷲は、生返事だ。
「んー?」
「わたし……」
言い淀む。鷲の銀灰色の髪をなびかせた風が、鷹の頬を撫でて通り過ぎ、ひやりとした感触を残す。
沈黙を訝しんだ鷲が、肩越しに振り向いた。
鷹は微笑み、重大な秘密を告げるかのように、声をひそめた。
「わたしね……貴方が凄い人だってことが、よく分かったわ」
『なんだ、そりゃ?』 と言うふうに顔をしかめた鷲だったが、次の瞬間、思い切り胸をそらした。
「今ごろ気づいたのか!」
鷹は吹き出した。
鷲はえっへん、と胸を張り、おどけた口調で謳ってみせた。
「そーか、そーか。やっっと俺サマの偉大さを理解したわけだな! 宜しい。さあ、崇めろ、尊敬しろ。お前の亭主だ」
「……莫迦」
ばっこん、と彼の背を叩いて、鷹は身を翻した。鷲は後を追わず、肩をすくめて苦笑する。
鷹はひとしきりくすくす笑うと、朗らかに告げた。
「一段落ついたら、戻って来て。食事にするわ」
「
答えたが、鷲にはもう作業を続ける気持ちはなかった。木屑を払って立ち上がり、鷹の背を見送る。その向こうでリー女将軍にじゃれついている鳶をみつけ、片手を振った。
蒼天を仰ぐ。
「…………」
鷲は深い溜息をついた。永い距離と時間を超えて友の消息が届くことが、夢のように感じられたのだ。自分がここにいることが。
降りそそぐ陽光が、冷たい風の中で反射して、きらきら輝いていた。大地のぬくもりが、靴底を通して伝わってくる。
遠い彼等のところまで、この空は続いている。
**
ゆるやかに波打つ丘の向こうに日が沈むと、辺りは急に暗くなった。裾に夕焼けの紅を残した西の空には、灰色と藍色の雲がたなびき、層を成している。
夜は大気から熱を奪う。馬たちは身を寄せ合い、羊たちは心細げにエエッ、ンエエッと声をあげた。
トグルは、アルガル(燃料の畜フン)と枯れ草を使って火を熾した。遠くからでも見えるよう出来るだけ大きくする。そうしながら周囲を見渡した。
ラディースレンは、まだ戻って来ない。
遠見の利く遊牧民の目も、夜には弱い。明かりを目指して息子が帰って来ないか、或いは、遠くへ行き過ぎて諦め、別の場所で火を熾してはいないかと探した。
薄闇のむこうから、狼の声がした。
馬たちは一斉に耳をそば立て、動きを止めた。主人の傍らで
トグルは息を殺し、風の音に耳をすませた。どうやら、狼は一頭だけのようだ。呼びかけに応える声はない。
愛馬の首に手を当てて落ち着かせながら、トグルは、ラディースレンは武器を持っていただろうかと考えた。一頭ならともかく、群れで襲われてはひとたまりもない。
一緒に行くべきだったかもしれない。
天幕を張り、何度か焚き火の周囲をめぐった後、トグルは、火のついた薪を一本手にして歩き出した。
『迷ったかなあ』
すっかり暗くなった空を仰いで、ラディースレンは嘆息した。少し間を置いて、その思いつきを舌に乗せてみる。
「迷った……」
風がざあっと音を立てて通り過ぎ、少年はふるえ上がった。
少年は、ほうっと白い息を吐いた。
不吉なことを言うのではなかった。言葉は、それ自体が力を持つ。何処かで
ふと見ると、
「大丈夫だ。帰ろう」
仔馬は、ぶるる、と首を振った。
北と思われる方角へ向かって、ラディースレンは馬を歩かせ始めた。
はぐれた仔馬の跡を追うのは容易ではなかった。来た道を引き返し、さらに東へ外れた場所で、やっとみつけたのだ。群れの足跡をたどって戻って来たのだが、こう暗くなってしまっては分からない。
暫く行くと、ボルテが立ち止まった。仲間のにおいが分からなくなったのだろうか。少年が彼を励まそうとした時だった。
ウォーーローーユールルオォーーン……
夜風にのって物悲しい声が聞こえた。ラディースレンは、ごくりと唾を飲みこんだ。
狼だ。間違えようがない……。そう遠くはない。仲間を呼んでいるのだろうか。
自分達を追っているのだろうか?
急ごう。
ラディースレンは葦毛の手綱を引いた。獲物にされてはたまらない。早く、父のところへ帰ろう。
既に、少年の頭から、向かっている方角が正しいかどうかという疑いは消えていた。仔馬をひき、彼は闇の中を進んだ。次第に早足になる。立ち止まるのが怖ろしいのだ……。
やがて、少年は、足音が自分達のものだけではないことに気づいた。
「…………」
ぞっとする。ラディースレンの脳裡に、サートルとカシムに追い詰められた灰色の獣の姿が浮かんだ。琥珀色の瞳を怒りに輝かせ、派手な唸り声とともに剥きだしていた牙が。岩に刺さった爪が――
サッサッサッとやわらかく草を踏む音の向こうから、唸り声が聞こえた気がして、少年は手綱を握りしめた。
葦毛が駆け足になる。仔馬もついてくる。少年は振り返る余裕を持てなかった。
闇は果てがなく、風は啼きながら通り過ぎる。帽子がずれ、むき出しになった耳が冷えて痛んだが、構ってはいられない。
ハッハッと早い息遣いを聞いたラディースレンは、悲鳴を呑んだ。
そして、閃いた。
笛だ! 鹿狩りの笛。鷲に貰った――あれを吹けば、父が気がついて来てくれるかもしれない。
上手くいけば、狼を驚かせ、追い払うことが出来るかもしれない。
いや――歯を食いしばって振動に耐え、少年は懸命に考えた。駄目だ。あれは鹿の声を模している。逆に、他の狼を呼び寄せてしまうかもしれない。
どうしよう?
今や、夜は恐怖の波となって少年に押し寄せていた。その中から黒い影がいくつも現れ、唸りながら追いかけてくる。荒い息と吹きすさぶ風の音が重なって、彼を包んだ。
ラディースレンは眼を閉じ、思い切り笛を吹いた。
ビイィーン! と、馬頭琴の弦を切ったような音が辺りに響いた。鹿とは似ても似つかない割れた音だったが、構わずに、少年は吹き鳴らした。
ビイィーン! ピイイィーン!
悲鳴にちかい馬の嘶きが聞こえた。
金の光が目に飛びこんだ。
「ラディー!」
父の声だった。途端に、ラディースレンの全身から安堵の汗が噴き出した。
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