天の仔馬(3)


          3


 夏の間あざやかな緑色だった草の葉は、くすみ、先端から金褐色に染まっていた。風にあおられて翻る度、焼けたような日差しの匂いと光の粉が散る。その中を、三百頭あまりの羊とほぼ同数の馬たちは、西へ、秋営地へと向かっていた。

 群れの後を、トグルとラディースレンのった二頭の馬が行く。時折、離れそうになる羊を追い戻す。

 今回はラディースレンの練習なので、トグルは手を貸すに留めていた。危な気のない手綱さばきで馬を操る息子を、眼を細めて眺める。そして、時どき草原に矢を射て、タルバガン(地リス)を仕留めた。

 しばらく行くと、ラディースレンは空腹を感じた。朝食を忘れて来たのだ。くるくる鳴る音を耳にしたトグルは、干し肉の欠片を放った。ラディースレンは父に感謝しつつ、それを齧った。

 二人とも、終始無言だった。


 太陽が中天をこえた頃、二人は馬を止め、群れを休ませた。仔馬たちが母馬の周囲を跳ね回り、羊が反芻を行う。草の波の上を、赤い蜻蛉トンボが数匹、飛んでいた。

 トグルは群れを見下ろせる丘の斜面に腰を下ろし、途中で狩ってきたタルバガンの皮を剥ぎはじめた。ラディースレンは父の隣に坐り、小さな火を起こす。お茶を淹れるのだ。

 風は冷たく、乾いている。火の風上に坐り、少年は父の作業を眺めていた。


 仕事で多忙な父と二人きりで外出するのは、久しぶりだった。無口極まりない父に対し、母や叔母は全て承知しているようなところがあったが、ラディースレンは戸惑っていた。

 それは、トグルもだった。

 トグルは、獲物の血を殆ど流すことなく、くるりと毛皮を剥きながら、ぽつりと訊いた。


「……最近、狩場はどうだ?」

「変わらないよ」

「そうか」


 突然、ラディースレンは父に向き直り、早口に話しかけた。


「このまえ、カシムが狼を獲ったんだよ。父さん、見た?」

ああラー


 カシムは、シルカス・アラル族長の一人息子だ。ラディースレンよりひとまわり年上なので、隼とタオは安心して彼を任せている。

 トグルは手を止め、息子の輝く瞳を見返した。


「見事な毛皮だった」

「なんだ、毛皮しか見ていないの? 本当に凄かったんだから!」


 そこから少年は、身振り手振りを加えて話し始めた。


 夏。まだ雪の残るアルタイ山へ、サートルとカシムと一緒に出掛けたこと。野兎を探していて、岩陰に狼の足跡をみつけたこと。サートルの掌より大きな足跡から、体の大きさを想像し、もの凄く興奮したこと。

 彼等は野兎を追うのをやめ、三日間、狼を追いかけた。カシムの犬は賢く、主人たちが見失った跡を探し出した。追い詰められた狼に対し、犬は勇敢だった。

 狼が唸り、牙を剥いた姿。それがどんなに恐ろしかったか。恐怖をどうやって勇気に換えたか。

 サートルの弓の力。鉄製の鏃の威力。血と毛皮の匂い、空気を震わせる怒り。

 温かい獲物の体に触れた感触――


 その場に居合わせなかった父に懸命に伝えようとする息子を、トグルは頷きながら(瞳に微笑をたたえて)見守った。

 ラディースレンは、ひとしきり話し終えると黙りこんだ。先刻、狩場から帰って来たばかりのように、心地よい疲労を感じた。

 視界の隅で、羊たちの小さな尾が跳ねている。ぶるるるる……と、黒馬ジュベが鼻を鳴らした。


「ねえ、父さん」


 今度はラディースレンの方が、思いついて訊ねた。


「僕は、族長トグルになれないの?」


 トグルは無言で息子を顧みた。怒っている時も悲しんでいる時も彼の表情は殆ど変わらないので、ラディースレンには父の感情を読み取ることは難しい。

 ゆっくり瞬きをして、トグルは問い返した。


「誰に聞いた?」

「トゥグス伯父さん」

「そうか……」


 トグルは眼を伏せた。声が低いので、ラディースレンは聞き逃しそうになった。再び訊く。


「本当? 僕は、トグルになれないの?」

「……ならなくても、よいのだ」


 トグルは囁いた。瞳の中に冴えた光があった。


「なりたいのか?」

「ううーん……分からない」


 ラディースレンは唸り、眉間に皺を寄せた。


「でも、僕は父さんの息子だから……」


 この言葉に、トグルはかすかに微笑んだが、少年は気づかなかった。

 トグルは視線を草原へ戻した。遮られることのない地平が広がっている。真っ青な空との境界に、遠い山の頂が浮かんでいる。目玉の赤い蜻蛉が一匹、ついと視界を横切った。揺れる草の上で数秒迷い、音もなく跳ねて、栗毛の馬の向こうへ消える。

 羊の啼き声が遠く聞こえた。ぶちぶちと鍋の湯が沸騰して音を立て始める。


「ラディー」


 トグルは呼んだ。枯れ草を火に入れていた少年が、顔を上げる。

『トグルでありたければ、トグルになれ。狼の末裔らしく、狼になれ』――祖父の雷鳴のような声をぼんやり思い出しながら、トグルは囁いた。


「もし、お前が族長になりたいなら、止めはしない。ジョルメとトゥグスに相談しなさい。民会にはかり、選んでもらうのだ」

「はい」


 少年は素直に頷いた。懐からお茶の入った袋を出し、葉を湯の中に放り込む。


「だが。ラディー」


 夕暮れの気配を含む風に前髪をなぶらせながら、トグルは穏やかに付け加えた。


「何になるか、ということより……どうあるか、ということの方が、大切だぞ」


 少年は眼をみひらき、まじまじと父の顔を凝視みつめた。トグルも見詰め返す。

 やがて、ラディースレンは項垂れ、考え込んだ。

 トグルは、金色に染まり始めた地平線へ視線を戻した。


 ――自分は誰なのか。

 どこから来たのか。

 どこへ行くのか……。


 答えの見出せない問いだった。誰に問うても、何度訊ねても。

 問わずにいられない問いだった。

 あのくるおしさは、何処へ消えたのか――



「はい、父さん」


 ラディースレンは、出来上がった乳茶を父に差し出した。

 トグルは、ぎこちなく微笑んで器を受け取った。

 少年は、まだ考えている。

『少し、難しかったか』と思いつつ、トグルは、かつて自分の父が何も言わなかった理由が解った気がした。息子の出自を問う誰の問いに対しても、メルゲン・バガトルは、はぐらかすだけだったのだ。

 今なら……解る、気がした。


「行くぞ、ラディー」

「ラー」


 日が沈む前に、寝場所を決めよう。そう思い、トグルは立って馬群を眺め、眼をすがめた。


「ラディー」

「はい?」


 少年が考え事を中断して顔を上げる。父の厳格な横顔は、黄色い日差しに縁取られていた。


「一頭、いないぞ」

「えっ?」


 ラディースレンは慌てて辺りを見渡した。強い風が、量のある黒髪をなびかせる。頭上から、父の落ち着いた声が降りて来た。


「アラガ(身体に大きな白斑のある馬・ブチ馬)だ……ヘール・アラガ(鹿毛ブチ)。あれはオナガ(一歳馬)だろう」


 ラディースレンは、ざあっと蒼褪めた。


 〈草原の民〉は普通、馬や羊に名前をつけない。数百~数千頭もいる家畜にいちいち名付けるのは大変であるし、そんなことをしなくても見分けがつくからだ。

 実際、多くの遊牧民は、自分の家畜が正確には何頭いるのか数えたことがない。それでも、毎日観ているため、一頭でもいなくなればすぐに分かる。

 名前をつけるのは、特別なことだ。馬は馬であり羊は羊として考える彼等にとって、名付けは家族になることを意味した。そうした馬や羊は、食べられない。故に、殆どの家畜は、毛色や耳や尾の形で呼ばれるのが常だった。


 父の言に間違いはなかった。いなくなったのは、尾とたてがみが黒く、赤褐色の体毛に、ところどころ白い班のある仔馬だ。

 少年の脳裡に、その姿が鮮明に浮かびあがった。耳と尾をつんと立て、膝を高くあげて走る、脚の長い仔馬――。

 トグルは来た方角――南を顧みて、眉を曇らせた。

 ラディースレンは項垂れた。


「ごめんなさい。よく観ていなかった……」

「いや。……俺もだ」


 タオか鳶と一緒ならば、説教されたところだろう。普段と変わらない静けさで父が言い、軽く苦笑したので、ラディースレンはほっとした。胸に温かいものがわく。

 無意識に言っていた。


「僕、探してくるよ」


 トグルの頬から微笑の影が消え、鋭い眼がまるくみひらかれた。

 ごくんと唾を飲んで、ラディースレンは繰り返した。


「父さんは先に行っていて。僕が連れ戻してくる」

「しかし――」

「大丈夫」

 にやりと白い歯を見せて笑う。その不敵さと迷いのない眼差しに、トグルは絶句した。


 ラディースレンが生まれてからというもの、草原イリは平和だった。トグルが幼い頃の動乱が、嘘のように。

 無論、この世から戦いが消えたわけではない。ミナスティア国の治安が回復したわけではなく、キイ帝国内も不安定だ。

 闘わなければならない相手は、人間だけではない。吹雪や旱魃、病気、家畜を襲う狼など。数え切れない。

 牡鹿をしとめ、狼狩りに参加したことが、少年の自信を高めていた。トグルは、紺碧の瞳の中に鋭い輝きをみつけた。


「……判ったラー


 トグルは頷いた。


「やってみろ」

はいラー!」


 ぱあっと華やかな微笑が少年の顔にひろがった。勢いよく身を翻して、葦毛ボルテに騎る。片手を振り、父の返事を待たずに駆け出した。

 トグルは神矢ジュベの手綱に手をかけて佇み、息子を見送った。





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