天の仔馬(2)
2
霧が晴れると、真っ青な空が現れた。肌を切りそうなほど鋭く澄んだ風を震わせて、笛の音が響く。
少年は、草に埋もれた石に片足を乗せ、誇らしげに胸を張っていた。
「すごい。本当に、そっくりだ」
ラディースレンは、驚嘆をこめて呟いた。三角形をした笛の革を張った側面には、葡萄の模様が刻まれている。森に行けば、発情した牡鹿が呼び寄せられ、角を振りたてて襲いかかってくるだろう。そのさまを想像して、少年は微笑んだ。
幼馴染の横顔を見守っていた
「いいなあ。あたしも、行きたい」
「え?」
ラディースレンは戸惑い、言葉を探した。変声期にさしかかった声は、かすれている。
「お前が? 狩に?」
「狩に。『オトル』にも」
「…………」
「ずっと
鳶は唇を尖らせ、くるりと踵を返した。彼の前を行ったり来たりする。
ラディースレンは眉を曇らせた。鳶の不満は解る。子どもなら男女問わずやっていることだ。しかし、狩や羊を追うのは、基本的に男の仕事だった。
――遊牧民は『移ろいゆく民』と言われるが、何処へでも気ままに移動できるわけではない。部族によって庭(縄張り・放牧地)は決まっていて、その中で定期的に移動を繰り返す。
春は、雪のあまり多く積もらない場所に、出産する家畜を強風から守る小屋を建てる。夏は、湖や泉など水の豊富にあるところを選び、母羊や母馬たちの乳の出を助ける。
冬営地には燃料の家畜のフンを溜めておかなければならないので、やはり毎年同じ場所になる。他人に場所を奪われると、凍死してしまう。
秋になると、彼等は『オトル』を行う。
オトルとは、家畜に体力をつけるために、牧草地を二、三日おきに移動する作業のことだ。夏に沢山草を食べた羊は、移動を繰り返すことによって肉がしまり、厳しい冬を越える体力がつくと言われる。通常、成人した男性が一人で行う。ユルテごと動くのは大変なので、小さな天幕を持って、二ヶ月くらい移動を続ける。過酷な仕事といえた。
だから――決して女性を軽んじているわけではないのだが。彼等にとって、分業は当然だった。男達が出掛けている間、女性と子ども達は、冬営地に柵を立て、食糧を蓄える。
オトルに連れて行って貰えるということは、大人の男の仲間入りを許されたということだ。
ラディースレンは悩んだ。鳶が『一緒に来ればいいじゃないか』という、彼の言葉を期待していることは察せられた。
しかし――
「ラディー?」
あんまり黙っていたので、鳶が声をかけてきた。顔を覗きこまれ、咄嗟に少年は目を逸らした。
「こまる……」
ラディースレンは呟いた。ごくん、と唾を飲む。輝く瞳を見返せずに、項垂れた。
「え?」
「困るよ……。鳶は、
「そう?」
試すように首を傾げる、鳶。ラディースレンは、視線を泳がせた。
「うん……。本営に居て、アルガルを集めたり、ウルム(保存用クリーム)を作ったりしてくれる人がいないと。冬が越せない」
少年がちらりと見ると、鳶は真顔で彼を見詰めていた。思案する表情が瞳に浮かんでいる。
ラディースレンは、気まずくなって足元の黒い土に視線を落とした。
「ラディースレン!」
張りのある声が、二人の間にとび込んできた。ラディースレンは、ほっとしてそちらを顧みた。タオが、臙脂色の
鳶の面に微笑の華が咲いた。
「おばさん!」
「ラディースレン、鳶。おはよう。何をしているのだ? こんな所で」
「ラディーが、父さんに鹿笛を貰ったの」
鳶は、族長の妹の胸に抱きつき、そのまま身体を揺らした。
「ああ、今、聞いたところだ」
タオは、兄と同じ新緑の瞳をくりっと丸くみひらくと、甥の腰の笛に視線を走らせた。
「どれ、見せてくれ、ラディー」
ラディースレンは笛を外し、叔母に手渡した。
「ふむ……」
タオは、真新しい鹿笛を手に取ると、しげしげと眺めた。裏返し、縫い目をなぞり、描かれた模様に眼を細める。少年に笛を返すと、艶やかに笑った。
「さすが、ワシ殿だな。なんでも器用にこなされる。これは、あの鹿だろう?」
いそいそと笛を元の場所に収めながら、ラディースレンは肯いた。牡鹿を仕留めたのは彼とカシム(シルカス・アラルの息子)だが、捌いてくれたのは鷲で、皮をなめしてくれたのはタオと隼だ。
タオは、甥を頼もしげに見下ろした。
「あのように立派な角を持つ鹿を仕留められたのだから、兄上がオトルに――というのも頷ける。よかったな、ラディー」
ラディースレンは叔母を見上げ、それから、また俯いた。正面きって褒められることに、彼は慣れていなかった。
一方、褒められる獲物のない鳶は、さらに悔しがった。
「ずるいわ。ラディーばっかり」
「…………?」
拗ねる少女を、タオはきょとんと見た。
「狩に行けて、『オトル』に行けて……男の子ばっかり。あーあ。あたしも男に生まれたかったな」
鳶の話を怪訝そうに聞いていたタオは、突然、あっはっはと笑い出した。
「そうか、オトルに行きたいか。鳶は元気だな。私も、昔はそうだった」
「小母さんも?」
「ラー。兄上と一緒に戦いたいと言って、トゥグス
叔母の性格を熟知しているラディースレンにとっては、意外な話ではなかった。彼が生まれる前、戦乱に明け暮れていた草原では、叔母も母も剣を振るっていたという。
鳶も、その話は知っている。
だが、現在のタオは(ずっと独身を通しているとはいえ)、トグルの留守中には隼を助け、鷹と鷲一家の草原暮らしを援助する、気のいい小母さんだった。
タオは鳶の頭を撫でて、ややしんみりと言った。
「そう願えるということは、平穏な証であろうな。ハヤブサ殿も私も、鳶くらいの頃、糸を紡いだり絨毯を織ったりなど、していられなかった。今は却って、そちらの方が面白い」
「そうなの?」
まだ納得出来ない様子の鳶に、タオは頷いた。
三人の背後で、扉のきしむ音がした。
顧みると、ちょうど鷲と隼が出て来るところだった。一呼吸置いて、トグルも弓を手に出て来る。
隼が、片手を挙げて呼んだ。
「タオ! 鳶!」
タオは彼女に頷き返し、子ども達に視線を戻した。
「私はこれから、ハヤブサ殿と一緒に、タカ殿を手伝いに行こうと思っている。鳶はどうする?」
「だって。母さん、下手なんだもの。あれじゃ、いつまで経っても終わらないわ」
少女は、ぷくっと頬を膨らませた。
タオは、フフッと哂った。
「女には、女の
「ヴィニガ姫と? ほんとう?」
途端に、鳶の瞳が輝いた。傍らで見ていたラディースレンは、そっと嘆息した。
両親のなれそめを本人達の口から聞くことは殆どなかったが、叔母からは、よく聞かされていた。特に、隼とリー・ヴィニガ姫の兄・ディア将軍が、タオの率いる軍勢と戦った『スー砦の戦い』の話は、何度も聞いている。現在はキイ帝国の西方を治める領国の主となっているリー姫だが、年に数回、草原を訪れていた。
鳶はその手の話が大好きだった。ヴィニガ姫とタオと隼、三人の女傑が揃う機会を見逃すはずはない。
タオは笑いを噛み殺した。
「
「だったら、行く!」
「では、一緒に戻ろう」
タオは少女の背に片手を当て、二人はユルテへ向かって歩き出した。隼たちは、
ラディースレンは、軽く肩をすくめてから歩き出した。
隼は、戻って来た義妹と子ども達を微笑んで迎えた。
トグルの表情は相変わらず判りにくいが、眼差しは穏やかだ。移動用の天幕を、
鷲は親友の傍らで、手伝うでもなく、にやにや
「帰るのか?」
「うん。ヴィニガ姫がいらっしゃるの」
「成程、その手があったか!」
鷲はタオを見て、声をあげて笑った。タオは得意げに笑い返す。
鷲は、娘の頭にぽんと片掌を乗せた。
「先に帰っていろ。俺は、トグルの手伝いをして帰る」
「はい」
トグルは淡々と息子を呼んだ。
「ラディー、
「
ラディースレンは踵を返し、繋がれていた
隼は、作業を続ける夫の肩に声をかけた。
「では、行って来る。くれぐれも、気をつけて。ラディーも」
「はい」
トグルは無言で頷いただけだった。
隼は微笑み、タオと並んで歩き出した。鳶が鼻歌を歌いながらついていく。
一足先に出掛ける女達を、男達は見送った。少女の歌は、しばらくの間、風に乗って聞こえていた。
歌声が聞こえなくなると、草原は急に静かになった。
馬たちがやさしく鼻を鳴らし、羊たちが草を踏む。秋風が草の葉を揺らし、馬と陽だまりの匂いを運んできた。
トグルは、水を入れた革袋と食糧を運び始めた。
ラディースレンは、鷲に
「何を持っていけばいい?」
「弓」
「矢……予備の
ラディースレンは、急いで布袋の中に物を入れ始めた。鷲は微笑みながら、その様子を見守った。
トグルの言う装備は、草原の戦士のそれだ。いつでも、すぐに揃えられなければならない。事前に『いつ行く』などと告げることはない。自分のことは自分でやれということか。――トグルが息子に手を貸すことはなく、ラディースレンの方も、それを理解している風だった。
ややあって出てきた息子を、トグルはじろりと見下ろした。
「それも、持って行くのか?」
トグルが指摘したのは、息子の腰に提げられた鹿笛だ。確かに、今回は必要ない。
ラディースレンと鷲は、顔を見合わせて、にやりと笑った。
トグルはそれ以上なにも言わず、
ラディースレンは、葦毛に騎乗した。
鷲は、ゆっくり歩きはじめる二頭から離れた。
「気をつけて行けよ!」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
注*:「駿馬の頭を祀る」
駿馬が死ぬと、その頭を切り落とし、オボーや聖山の頂に祀って再生を祈ります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます