天の仔馬 ―『飛鳥』外伝(後日談)
石燈 梓
天の仔馬(1)
1
淡い朝霧の漂うなか、井戸から水を汲み上げる少年の周囲に、羊が集まり始めた。
少年は、民族に特徴的な髪型だ。生まれてから一度も切ったことのない黒髪は、腰を越えて重く垂れ下がる。歳の数だけ編まれたものを、さらに数箇所、金の環で束ねていた。
その数、十二。
エエッと啼きながら近づいた仔羊が、その内の一本を咥えて引っぱった。彼は碧の眼をみひらいたが、相手が誰か判ると破顔した。
「ラディースレン!」
甲高い声で名を呼ばれ、手を止めて振り返る。
ところどころ茶がかった初秋の草原を踏みしめて、赤い
ラディースレンは、桶を足元に置いた。途端に、羊たちが顔を突っこむ。彼は、濡れた手を
「おはよう、
「よお、ラディー。えらいな、手伝いか」
鷲は笑いながら近づくと、彼の頭に片手を載せた。ぐりぐりと揺さぶる。決して優しい撫で方ではなかったが、ラディースレンは照れ笑いを浮かべてこれを受け入れた。
幼馴染と同様、栗色の長髪を細かい三つ編みにした少女は、首をかしげて訊ねた。
「ラディースレン。あなた、『オトル』に行くってほんと?」
やや咎めるような響きに困惑しながら、少年は肯いた。上目遣いになる。
「誰に聞いたんだ? ……本当だよ。父さんが、連れて行ってくれるって言ったんだ」
「タオ
鼻にかかった少女の口調に、少年は、少し
「当たり前だろ。父さんの羊だ。来年、分けてもらったら、一人で行くんだよ」
「ふふん。練習するわけね」
「いけないのかよ」
「べっつにぃ~」
会話を聞いていた鷲がくすくす笑い出したので、二人は口を閉じた。戸惑い顔のラディースレンの頭を、鷲は再度かき撫でる。少年の頭に手をのせたまま、ユルテ(移動式住居)の傍らで草を食んでいる黒馬を見遣った。
「トグルが帰っているんだな」
ラディースレンは、羨望を含む眼差しで、父とほぼ同じ高さにある白い横顔を見上げた。
「隼は、起きているか?」
「大丈夫」
「ちょっくら挨拶してこよう。鳶、おいで」
そう言うと、鷲は大股に歩き出した。灰色がかった豊かな銀髪が、紺色の
ラディースレンは、すっかり冷えた手に息を吐きかけ、水汲みを再開した。
「トグル。起きているか?」
「おはようございます、族長。
ここ数年、草原は平和が続いている。扉に鍵を差すことは滅多にない。気軽に声をかけながらユルテに入る父と娘を、トグルは寝台の上に胡坐を組んだ姿勢で、隼は立ったまま迎えた。
「おはよう、鳶、鷲。今日は
「ああ」
隼は二人に椅子を勧め、炉の傍に立った。
鷲は、どっかと椅子に腰を下ろした。
「羊の毛を染めるのに、昨日から四苦八苦しているんだ。タオに手伝って貰えると、ありがたいんだがな」
「あたしも行くよ。雉は?」
「ジョルメ(若長老)と出かけて行った」
「…………?」
トグルが無言で首を傾げる。鷲は説明した。
「オロス族の
「……相変わらずだな」
フッと、トグルは苦笑した。知り合って十年あまり、頑固に独身を通している友と、一向にその気にならない妹の話をする際、彼の表情は複雑になる。
鷲は、悪戯をみつけられた子どもさながら首をすくめ、くつくつ声を転がして笑った。
「性分だろ、ありゃ。この間も、薬草を探しに湖まで出掛けていた。ルツとも連絡をとっているしな。……あいつ、だんだん薬臭くなってきやがった」
トグルは瞼を伏せ、お茶を口に運んだ。鷲は腕を伸ばし、隼から自分と娘の碗を受け取って話を続けた。
「ところで。タオから聞いたんだが――」
言葉は、バタンと扉の開く音に遮られた。ラディースレンだ。少年は、霧と羊の匂いをまとったまま、天窓から差しこむ光の中へ駆け込んだ。
「ただいまっ」
すかさず、隼が言う。
「ラディー。手を拭いて、座りなさい」
「はい、母さん。水汲み終わったよ」
「ご苦労さま」
ラディースレンは、素直に手を拭いて空いた椅子に腰掛けた。「イーッ」だの「ベーッ」だのと挑発してくる
鷲は子ども達の様子を微笑ましく眺めながら、少年の(外見はともかく)気性は無愛想な父より隼に――姉の
ちなみに。盟主の息子に平然と喧嘩を売る鳶は、誰に訊いても父親似だと言われている。こちらの外見は、母親と瓜二つだ。
「ラディー」
鷲は、
「ほら、お前のだ」
「わ!」
現れた鹿笛を見て、少年の瞳が輝いた。ぱあっと花が咲くような艶やかさだ。
「作ってくれたの? ありがとう!」
「ああ」
鷲なら掌大だが、少年の手には余る。両手で受け取ったのを、すかさず、鳶が首を伸ばして覗きこんだ。
今年の夏、ラディースレンは、シルカス・アラル氏族長の一人息子と狩に行き、一頭の牡鹿をしとめた。角を削って革を張った鹿笛は、発情期の牡鹿をおびき出すために使われる。
なめした革に刻まれた繊細な模様を、トグルも眼を細めて眺めた。
「器用だな……上手いものだ」
もともと絵や彫刻を
鷲は
「材料がいいからな。お前らが皮をなめしてくれるんで、助かってる。今度、
「吹いてきていい? おじさん」
ラディースレンの気持ちは、もう外に向かっている。そわそわと立ち上がる少年に、鷲は頷いた。
「お前のだ。好きにしろ」
「待って、ラディー。あたしにも使わせて!」
ばたばたと駆け出していく子ども達を見送って、隼は肩をすくめた。朝食の羊肉の
トグルは
「元気そうで、良かった」
「
「『オトル』に行くと聞いた。ラディーと二人で大丈夫か?」
穏やかな声だったが、トグルは無言で苦笑した。隼は、茹で上がった肉を切り分けている。
友の状態に気づかぬ鷲ではない。生命を分け持っているのだ。
トグルは、料理を続ける隼の横顔をちらりと一瞥して応えた。
「
「そうか。ラディーも楽しみにしているしな。気をつけて行って来い」
鷲は、あっさり引き下がった。隼に肉を貰い、頬張り始める。
「喜んでいるのは、俺の方かもしれない……」
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