(6)
「ヴィットーリオ……」
扉から顔を出したアニェーゼを見て、ヴィットーリオは腰を上げた。
神殿に賊が侵入してからしばらく。どうも彼らの目的は婚礼を控えたアニェーゼの純潔に傷をつけることのようであった。それを裏でだれが糸引いていたかはこれからの取り調べでわかるだろうが、しかしそれを待たずとも想像するのはたやすい。
首謀者が縛につていない以上、アニェーゼを元の居室に戻すわけにもいかず、とりあえずは女神官長の部屋を割り当てられた。そしてヴィットーリオはその寝ずの番を買って出て、今は出入り扉のそばの壁に背を預けていたのだ。
「いかがいたしました?」
アニェーゼは新しく着替えた寝間着の肩にショールをかけ、言いづらそうにしながらもヴィットーリオの顔を見る。
「その……眠れなくて」
「お気持ちはわかりますが、せめて横になられたほうが……」
こちらを気づかうヴィットーリオの様子に、アニェーゼはようやっと決意を固めたようであった。
「話があるの」
「話……ですか?」
「うん。……だから、その、部屋に入って欲しい、んだけど……」
後ろ手にもじもじと指をからませるアニェーゼの視線は、明らかに泳いでいた。ヴィットーリオはと言うと、しばし考え込むような顔をしたあと、ややあってから彼女の言を了承した。
ローテーブルを挟みふたりは長椅子に腰かける。締め切った部屋の中を照らすのは、小さな蝋燭の火だけだ。壁に浮かび上がったふたりの影は、時折揺れる火の動きに合わせて左右する。
「あのね、ヴィットーリオ」
「はい」
「この前の裁判のことは聞いた?」
「『裁判のこと』とは?」
「えっと……わたしの証言というかなんというか……うん」
「いえ……」
不思議そうな顔をするヴィットーリオを前にして、アニェーゼは相変わらず目を伏せがちであった。心ではすでに決めていても、いざ機会がめぐって来ると尻込みしそうになる。けれどもこのままではいけない。それは彼女にも良くわかっていた。
泣こうがわめこうが神託が覆らないのであれば、せめて伴侶となるヴィットーリオには誠実でありたい。たとえ真実を告げたことで彼に失望されたとしても、だ。秘していようといずれかのうちに知られるのであれば、自分の口から言いたいという気持ちもアニェーゼにはあった。
「あのね、あの……ヴィットーリオがわたしの伴侶に選ばれたのは、わ、わたしの、せい、なの」
心臓がどくりと脈打つ。体は熱いような寒いような、判然としない感覚に襲われる。握りしめた手のひらには嫌な汗が浮いた。
「アニェーゼ様のせい、とは?」
「あの、巫女の伴侶には……巫女が懸想する相手が選ばれるって」
「そのようなことは私も存じ上げておりませんでしたが……だれからその話を?」
「天使、が、そう言ってて……」
アニェーゼはヴィットーリオの顔を見ることが出来なかった。いつだって彼の横顔を眺めるのが好きだったけれど、今日ばかりはそうもいかない。ただ、この部屋が闇の中にほとんど沈んでいることを、今は感謝してしまうくらいだ。
「ごめん、なさい」
「……どうして謝るのですか?」
ヴィットーリオの声が、いつもより低いような気がして、アニェーゼは泣きそうになった。けれどもここで無様な姿を見られたくはない。せめて精一杯大人ぶって、ヴィットーリオにきちんと説明したかった。
「わたしが……わたしのせいで、ヴィットーリオは巫女の伴侶に、ならなければいけなくなった、から。神託は覆せないから……ヴィットーリオの自由を、奪って、しまって」
声がかすかに震えて、語尾が尻すぼみに小さくなって行く。虚勢を張っていたいとアニェーゼは願いながら、それでも心臓はずきずきと痛み出してたまらなかった。
ついにはヴィットーリオの顔を見れなくなって、アニェーゼはうつむく。関節が固まってしまったように体は強張り、呼吸をするのもなんだか辛かった。
「私は」
ヴィットーリオが口を開く。アニェーゼはまるで死刑を言い渡される被告人のような心情で、彼の声に耳を傾ける。胸いっぱいに広がるのは、恐怖と落胆と焦燥と、それらがないまぜになった底知れぬ不安感。
アニェーゼにとってヴィットーリオは初恋の相手で、そして唯一良く見られたいと思う相手であった。ヴィットーリオがいるのなら、他のすべてはどうでも良いと思えるくらいには、アニェーゼは彼のことが好きだった。
けれどそれも今日、この瞬間に終わるのだと思うと、アニェーゼは一抹の悲しさを覚える。
だがそれを選んだのもまた自分である。
みじろぎもせずうつむくアニェーゼの耳朶を、聞き慣れたヴィットーリオの声が打つ。
「私は――貴女の夫に選ばれて、不安でした」
ああ、やはりヴィットーリオに迷惑をかけていたのだと、アニェーゼは奈落の底に突き落とされた気分になる。こんなことになるのであれば、神託を受ける前に恋慕の情を告げて、振られて、そうしてあきらめてしまえば良かった。
アニェーゼの視界がゆらりと歪む。
「貴女は、若く、美しい。けれど私は貴女から見ればずいぶんと年上です。そんな相手を伴侶にせねばならなくなった貴女がどう思っているか――不安でした」
「――え……?」
静かに紡がれたヴィットーリオの言葉は、アニェーゼにとっては意外なものだった。思わず顔を上げれば、今までに見たことのない顔をしたヴィットーリオがいた。なにかを――そう、たとえば苦悶をこらえるような顔をして、彼はアニェーゼを見ていた。
「けれども貴女は『巫女の伴侶には巫女が懸想する相手が選ばれる』と、そうおっしゃいました。――つまり、アニェーゼ様は私のことを伴侶としたいほどに好いていらっしゃると、そう思って良いのですね?」
アニェーゼの顔が一度に赤くなり、彼女はまたうつむいてしまった。
「は、はい……」
「それでは私たちは両思いなのですね」
「はい……はい?」
せわしなくアニェーゼはまた顔を上げてヴィットーリオを見た。いつもは生真面目な顔をしている彼だが、今はどこか愉快そうな表情でアニェーゼを見ている。
アニェーゼはしばし呆然とする。
――両思い? だれと、だれが?
そうしているのもしばらくのことで、次第に事態が飲み込め始めたアニェーゼは、今度こそ首まで朱に染まった。
「りょう、おも、い……」
「はい。そうですね」
「わたしと、ヴィットーリオ、が……?」
うわごとのように言葉を紡ぐアニェーゼを見るヴィットーリオの目はどこまでも優しかった。彼の目が、その瞳に映る者が愛しいと、そう語っている。
「そんな、だって」
「嘘じゃありませんよ?」
「だって、ヴィットーリオはかっこよくて、頼りになって、優しくて、色んなことを聞いてくれて……それで、それで、わたしなんて――」
「――私たちはお互いの素晴らしいところをよく知っているのですね」
「……ヴィットーリオ?」
アニェーゼの潤んだ若葉色の瞳に、ヴィットーリオが映る。そして彼の黒い瞳には、不安げな顔をしたアニェーゼが。
「きっと良い夫婦になれる。そう思いませんか?」
もはやアニェーゼは言葉を繋ぐことができなかった。まるで夢の中にいるようにふわふわとしていて、おぼろげで、現実味がない。あきらめるしかないと思っていた恋が実って手のひらに転がり込んできたことを、アニェーゼは受け止めきれない。
「わかんない……」
「そうですか。では、私がそう思えるようにして差し上げます。――ですから、貴女のそばで、貴女を愛し守り抜くことをお許し願いたい」
アニェーゼのまなじりから、とうとう涙がこぼれ落ちた。しかし胸にうずまくのは不安ではない。とめどない、喜びだった。
アニェーゼは生まれて初めて歓喜の涙を流したのである。
「……はい。おねがいします……」
そう言ったアニェーゼの頬は涙で濡れていたが、その顔は花が綻ぶがごとく美しかった。
そしてそんなふたりを見守る天使は息を吐く。
「やれやれ、やっとくっついたか。あ~でもこれからもあのふたりを見守っていかにゃならんのか」
憎まれ口を叩きつつも、天使はどこかうれしそうである。
「――まあこれからいっしょに見守って行こうや」
そう言って天使は足元に目をやる。そこにはアニェーゼが育てていたクチナシの植木鉢があった。開花の季節を迎えたクチナシのつぼみは花開き、冴え冴えとした月光を受けて白くまばゆく輝いている。
聖堂の周囲に植えたクチナシたちも、ふたりの婚礼を前にして、いずれその純白の花弁を開かせるだろう。そして花々が見守る中で、アニェーゼとヴィットーリオは永遠の誓いを交わすのだ。
夜の空気に混じり、クチナシの甘い香りが広がる。
ふたりきりの部屋では、長年の思いを通じ合わせたアニェーゼとヴィットーリオが、控えめに肩を寄せ合い、取るに足らない幸福の時間を分け合っていた。
ふたりの誓いの証として花咲かせるときを夢見ながら、まだつぼみのクチナシの花は夜風に揺れる。
それらが喜びに蕾を開かせる中で、ふたりはつつがなく、祝福の声を受けるのである。
梔子の花、ひらくころ やなぎ怜 @8nagi_0
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