(5)
「おい起きろ!」
鋭い天使の声にアニェーゼは眠りの底から引き揚げられた。場所は神殿内の奥にあるアニェーゼの居室。そして時刻は深夜といって良い時間帯であった。
「ど、どうしたの?」
アニェーゼは寝ぼけ眼で周囲を見回したあと、天使を見やる。天使はといえば常から余裕に溢れた表情をしているものだが、今は平時と反してずいぶんとあせった様子でアニェーゼの腕を取る。
「神殿に賊が入りやがった」
「えっ……」
天使の言葉におぼろげだったアニェーゼの意識は、冬の池に放り込まれたように一度に覚める。あわてて周囲に気を巡らせるが、いつもとどう違うのかまだ異変を察知するにはいたらない。
けれども天使がくだらぬ嘘をつかぬということも知っていたから、言葉は本当なのだろう。そうすると途端に心臓は不気味に早鐘を打ち始めて、肌がざわめき落ち着かなくなる。
「どういうこと? 騎士の方は?」
「数が多くて一部が神殿内に入っちまったんだ。目的はわからねえが正面から来るってこたあ穏やかじゃねえ。俺がヴィットーリオのところまで飛んで行ってほかの騎士を集めて来るよう言うから、お前は居間にある衣装箪笥にでも隠れてろ」
明確な音は耳には届かないが、けれども今すぐにでも夜の闇を伝って剣呑な空気が飛び込んで来そうで、アニェーゼは猛烈な不安に取り憑かれた。
けれどもすくみ上がっている暇はない。天使に促されるまま、アニェーゼは寝間着の上にショールを羽織り、居間に置かれた衣装箪笥の中へと身を隠す。
夜の帳が降りた時刻に閉じられた衣装箪笥の中はなお暗く、アニェーゼの不安を増長させる。天使はとうに夜闇へと飛び立った。神殿から騎士の宿舎までどれほどの距離があるのかアニェーゼは知らない。しかしそう近くにあるわけではないことだけはわかっている。
衣装箪笥の隅に座り込み、膝を抱えて息を殺す。
そうしてどれほどの時間が過ぎただろうか。月明かりすらない場所では、時間の経過を把握することすら難しい。
それでも乱暴な複数の足音が、廊下の床を蹴りアニェーゼの居室へと近づいて来たから、時間が止まってしまったわけではないことは、残念ながらたしかである。
壁越しに男の低い声が伝わってくる。なにをしゃべっているかまではわからないが、穏やかならざる雰囲気であることはたしかだ。
他の女神官たちはだいじょうぶだろうか? 賊が神殿の奥にまで侵入しているということは、もしかしたら……。そんな最悪の考えすらアニェーゼの頭をよぎる。
木の扉を開ける音がした。粗雑に開いたものだから、古い蝶つがいが壊れそうなほどに悲鳴を上げる。床を踏み鳴らすようにして、侵入者たちが部屋になだれ込んだことをアニェーゼは察した。足音からして三人。音の重さからすると全員男であろうことは間違いない。
足音は寝室のほうへと消えたが、すぐに居室へと戻って来た。単なる物盗りが目的であればもう少し物色してもおかしくはないだろう。となれば予想し得る目的は――
「おい、いたぞ!」
衣装箪笥の戸が乱暴に開けられる。月明かりが箪笥の中を浮かび上がらせると同時に、アニェーゼは腕をつかまれ外へと引きずり出された。
「痛っ」
床へと叩きつけるように放り出され、アニェーゼは苦悶の表情を浮かべる。気がつけばその周囲を、あまり見なりの良くない男が三人立ち、床に尻もちをついたアニェーゼを見下ろしていた。
「あ、あなたたちは……」
震える声で誰何すれども、男たちは口元を覆う布越しに下劣な笑みを浮かべるばかりだ。視線で言葉を交わし、そのうちのひとりが一歩前へ出たかと思うと、アニェーゼの寝間着を乱暴につかむ。
布を引き裂く嫌な音が響いた。薄く、安価な布で仕立てられた寝間着は無惨に引きちぎられ、アニェーゼの白い胸元が晒される。
「いやっ」
思わず胸元を腕で隠すが、それもすぐに引きはがされ、男たちに床へと腕を抑えつけられる。ここへ来てアニェーゼはようやっと彼らの目的を察した。それと同時に全身から血の気が引いて行く。がたがたと体の震えが止まらず、取り囲む男たちを地から見上げるのも恐ろしくて仕方がなかった。
「おとなしくしてろよ」
男のひとりが腰に佩いた剣を抜き、その刃をアニェーゼに向ける。そうなればもう、いたいけな小娘のアニェーゼに出来る抵抗は皆無と言って良かった。
「もっと肉付きが良けりゃあ……」
「早くしろよ」
下卑た男たちの会話を頭上に、アニェーゼはきつく目を閉じる。膝に賊の手がかかる。
――ヴィットーリオ。
恋い慕う相手の顔を思い浮かべながら、アニェーゼは悲痛な面持ちで彼に詫びた。
「うわっ」
「おい!」
「なんだ?!」
人体を打つ、にぶい音が響く。くぐもったうめき声と、痛苦を訴える悲鳴が上がり、アニェーゼは思わずきつく閉じていた瞼を開ける。
「アニェーゼ様!」
アニェーゼの顔を覗き込むのは粗暴な賊ではなく、悲痛な顔をした――ヴィットーリオであった。
その周囲には先程までアニェーゼに乱暴を働こうとしていた男たちが、昏倒しているか、そうでなければ床に這いつくばって苦しみもがいている。
ヴィットーリオは手早く上着を脱ぐとアニェーゼの胸元にかけた。そうして彼女の手を引き、背に手を入れて優しく引き起こす。
「アニェーゼ様、お怪我は……?」
アニェーゼよりもヴィットーリオのほうがよほど怪我でも負っていそうな顔でそう問う。その言葉にアニェーゼはゆるゆると首を横に振った。まだ、事態が上手く飲み込めていなかった。賊に襲われたことも、ヴィットーリオに危ないところを助けられたことも。
そうしてぼんやりとしていたアニェーゼは、ゆえにヴィットーリオの行動にもすぐには反応出来なかった。
「良かった……!」
アニェーゼは急に視界が遮られ、体が苦しくなったのでおどろいた。そこでようやく気づく。顔はヴィットーリオの胸板に押し付けられ、その小柄な体は彼のたくましい腕の中に閉じ込められていることに。
アニェーゼを抱きしめるヴィットーリオの力は強く、腕に触れた彼の手のひらの冷たさにアニェーゼはおどろいた。
「貴女になにかあれば……私は正気ではいられません」
「ヴィットーリオ……」
自然、アニェーゼはヴィットーリオの腕の中から彼を見上げる形になる。黒曜石を磨き上げたかのような眼光鋭い双眸に、ぼうっと彼を見るアニェーゼの姿が映っていた。アニェーゼは思わず胸元にかけられたヴィットーリオの上着をきつく握りしめる。
「ヴィ――」
けれど言葉をつむぐ前にヴィットーリオが急にアニェーゼの肩をつかみ、その体を剥がすように引き離した。おどろいたアニェーゼはヴィットーリオを見る。彼の視線の先にはようやく痛みが収まって来たのか、剣を抜いて立ち上がらんとする賊の男がいた。
「くそ! くそっ、こんなことで……!」
賊たちはヴィットーリオの剣の鞘でしたたかに打ち据えられただけであったから、致命傷を負うには至っていない。それでも体にダメージは残っているから、その動きはどこかぎこちなかった。
それでも、剣を抜いている。ヴィットーリオも隙のない動きで剣の柄を握った。――しかしそれを抜くまでもなく、今度こそ男は地に倒れ伏して、起き上がれなくなった。
獣のような絶叫が部屋いっぱいに響き渡り、男は床でのたうちまわっていた。
なにが起きたのやらさっぱりわからないアニェーゼは、未だ警戒を解かぬヴィットーリオの背にかばわれながら様子をうかがう。
「神に仕える巫女に手を出すからだぜ~」
「天使様……」
「ようヴィットーリオ。どうやら間に合ったみてえだな」
開け放たれた扉から悠々と入って来たのは天使であった。侮蔑の視線を痛苦の叫びを上げる男へとやり、次いでアニェーゼとヴィットーリオに視線を向ける。
「いったい、なにが起こったの? 急に叫びだしたんだけれど……」
「罰だよ。巫女に不埒な真似をしようとした、な。まあ、股間のナニが腐っただけだからすぐに死にゃあしないだろ」
天使の言葉には、さすがにアニェーゼもヴィットーリオも閉口した。特にヴィットーリオは賊の男たちの所業を許すつもりは毛頭なかったが、それでも男としては色々と複雑な思いを抱いたようである。
「まあそれよりここから出ようぜ。ちょうどほかの連中もお前さんの仲間たちが捕まえたみてえだしよ」
遠くからこちらへと向かって来る足音がする。天使の言を取るならば、恐らくはヴィットーリオが集めた騎士たちなのだろう。危機は去ったのだと、アニェーゼはようやく安堵の息を吐くことが出来た。
しかし同時に体の力も抜けてしまったらしい。
「アニェーゼ様?!」
ヴィットーリオがおどろいた声を上げる。だがそれと同時にふらついたアニェーゼの体を抱き止めるのも忘れない。アニェーゼの体に触れたヴィットーリオの手は、先ほどよりかは温度が戻りつつあった。
「ご、ごめんなさい」
「いえ、ご無理をなさらないでください。私が休めるところまでお運びましょう」
「え? ――きゃっ」
そう言うやヴィットーリオはアニェーゼの膝に腕をすべらせ、たちまちのうちに横抱きにして持ち上げてしまう。急に高くなった視界にアニェーゼは思わずヴィットーリオの首に腕を回す。
「しっかりつかまっていてください」
「え? あ、わ、わたしひとりでも――」
「――こんなに震えているのに、ですか?」
ヴィットーリオに言われて初めて、アニェーゼは体の先端が氷のように冷たく、痙攣するように震えていることに気がついた。それを自覚するとますます四肢から力が抜けて、すっかりヴィットーリオに体を預ける形になる。
「あ……」
「ですから、大人しくしていてください。……それとも、私ではお嫌ですか?」
アニェーゼはあわてて首を横に振る。
「い、嫌じゃない! けど……」
「でしたら大人しく私に抱かれていてください」
「……はい」
アニェーゼは耳まで赤くしてうつむいてしまう。ヴィットーリオにもそれが丸見えであろうことを考えると、ますます顔は熱くなった。
気がつけば天使はいつの間にか姿を消している。
ヴィットーリオとふたりきりにされてしまったアニェーゼは、彼に横抱きにされている恥ずかしさからますます目を伏せて意識しないようにする。けれどもそれは成功したとは言い難い。なぜなら別の部屋へ移されるまで、アニェーゼの心臓は忙しなく鼓動を打っていたのだから。
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